神が観ている
機杜賢治
第1章 埃と雨の日常
第1章 埃と雨の日常(1)
埃が日向に舞っている。
人の行き交いに巻き込まれ、どうにもならない。流されるだけ、飛ぼうが落ちようが何の意味をも成さない。
「上泉くん、来てるよ!」
隣の花咲が自分のキーボードを叩きながら言った。顎を上げ、上泉のモニターを指し示す。モニターにはメールの着信アイコンが表示されていた。
上泉は足を使い、椅子ごと自分の体を机に引き寄せる。マウスを操作しクリックするとメールの内容が表示された。顧客からのクレームだった。
マニュアルに従い、謝罪用の雛形文とエフ・エイ・キューのユー・アル・エルを貼り付け返信した。
上泉はマウスを手放し、花咲に言った。
「ありがとう、花咲さん」
「どういたしまして」
花咲は指を止め、透き通った赤毛のショートボブを揺らした。にこやかに笑う。
上泉はうなずき返事をする。再び椅子に深くもたれ掛かると先ほどの埃に目を向けた。
部屋が薄暗くなった。
太陽に雲が掛かり、それまで光に照らされていた埃が陰に消えて認識できなくなる。
「ミスがないか確認しておけ」
そう言って、机の片隅に書類が置かれた。積まれた紙の山がまた一段と高くなった。
書類を置いたのは課長の村田だった。
「急ぎの案件だ。念入りに確認しろ」
上泉は書類を手に取り、ぱらぱらとめくった。
大型のクリップで綴じられた厚さ一センチメートルほどの紙束で英文が印字されている。
「わかりました。期限はいつまででしょうか?」
上泉が顔を上げると、課長はすでにそこにいなかった。彼は自分の机に戻り、聞いていなかった。椅子に腰掛け、スマホを取り出し操作を始める。
上泉は手に持った書類を紙の山に放り投げた。伸びをして、
眠い、どこか遠くに行きたかった。
どこがいいだろうか、雪山か砂漠か、どこか……。
いや、どこも一緒だ。
どこに行こうと己は己でしかない。
現実から目を逸らせばアイデンティティは力を失ってしまう。
力を失えば世界は狂気に包まれ、この世界はとても退屈なものになってしまうだろう。
「ガンバよ、上泉くん」
花咲が小さな声で励ましてくる。上泉は横目で見ながら背もたれに体を埋めた。
「君が気にすることではない」
「いいの。私が応援したいからするの」
「君は、本当に変わってるな」
「ふふん、上泉くんほどじゃないよ。それよりも、ね、お昼はラーメン食べよ」
「またラーメンか、よく飽きないな」
「嫌? うーん。じゃあ何が食べたいの? またミートパイ?」
花咲が残念そうに言う。上泉は首を振った。
「僕は別に、ミートパイが好きなわけではない。先日たまたま店の前を通りかかったら何となく食べたくなっただけだ。そしてそのとき、たまたま君が隣にいたのでついでに誘っただけだ」
「そっか、そうなんだ、ついでなんだ、よかった、たまたま隣にいて」
花咲は不満を表すためか、言葉に抑揚をつけず淡々と言った。そして口調を戻す。
「でも何でミートパイ? 普通、お昼ごはんにミートパイってあまり選ばないような気がするんだけど」
「昔、英国に留学していて、そのときに下宿先の奥さんがよく作ってくれたんだ。だから懐かしくて」
「そうなの! だから上泉くん英語ペラペラなんだ。いいな、留学か……」
「上泉!」
課長が大声で叫んだ。
「上海の資料を持って来い!」
上泉は、小声で励ます花咲を尻目に書類の山から資料を抜き出し、急ぐ振りをしながら、ゆっくりと、かなりゆっくりと課長のところへ持っていった。
課長がイライラした様子で乱暴に書類を受け取る。目を通しながら言った。
「さっきの書類は確認したか?」
「まだです」
「何をやってるんだ! 早くしろ!」
「わかりました」
上泉は一礼し、先ほどよりもさらにゆっくりとした足取りで席に戻った。
紙の山、その頂上に置かれた書類を手に取り、文面を確認する。
どうやら取引先への送り状とそれに関連する書類のようだ。
ざっと見たところ単語の綴りや文法に間違いはない。だが、なぜに英語なのだろうか。
宛先は日本の大学病院、日本語でよいはずだ。英語を公用語にしている病院というわけでもあるまい。
内容もいたって普通だ。数字もとくに間違いはない。バーター貿易で得た薬剤やサプリメントを卸すだけなのに、なぜ英語なのか。
上泉は合理性を欠いた書類だと思いつつも、改めて綴りや文法に間違いがないか確認した。
「ねえ、ねえ」
再び花咲が声をかけてくる。椅子を寄せ、何かを期待する目で言った。
「手伝おうか?」
「結構。これは僕の仕事だ」
「それはそうだけど、二人でやったほうが早く終わるじゃない」
「気持ちは嬉しいが、これは英語さえわかれば誰にでも出来る仕事だ。だから僕一人で十分だ。君が手伝うほどのことではない。それよりも君は君にしか出来ない仕事を優先するべきだ。そうすれば会社の利益にもなるし、仕事も早く終わる」
「あーあ、また断られてしまった」
言葉とは裏腹に、花咲の声は嬉しそうだ。
「ただいま戻りました!」
営業部のホープ、生まれ持った豊かな人脈を駆使し成果を挙げる男、宗像光一郎が外回りから戻ってきた。
グレイのチェック柄スーツ、体の動きに合わせて変化する柔らかい生地、デザインはイタリアスタイルで、緑のネクタイに薄いサクラ色のシャツを合わせている。
営業部一課の面々が手を休め、次々に「おかえりなさい」と言った。
光一郎がそれに一つひとつ礼儀正しく応じ、課長の所に歩いて行った。
「課長、ホーエン製薬様から新規の注文があるかもしれません。海外でのサプリメント販売が好調なようで、現在の生産体制では追いつかないようなのです。それで、私のほうから九州の工場を拡張して生産ラインを増やしてみては、と勧めたのですが、このまま話を進めてもよろしいでしょうか?」
光一郎の報告に課長がにやりと笑う。
「ホーエン製薬か、あそこの規模だとおそらく億単位の金が動くな」
周囲からどよめきが起こる。
その反応に課長は満足げにうなずいた。
「宗像くん、よくやった。流石はあの宗像相談役のお孫さんだ。この調子なら国際戦略部に異動する日も近いかな?」
光一郎の表情が曇る。
「いえ、私はまだまだ未熟な若輩者です。これからも課長のご指導ご鞭撻の程よろしくお願いします」
光一郎は
「うれしいことを言ってくれるじゃないか」
課長はご満悦だ。
光一郎の祖父はこの会社、
課長がヤニで黄色くなった歯を見せびらかすのも仕方ないことだった。
「花咲くん」
課長が満面の笑みで言った。
「宗像くんにお茶を出してあげて」
女性社員はお茶くみをするものという課長の古い観念に、花咲はあからさまな表情、とまでは言わないが、それなりの顔つきで不快感を示した。
「あの、私、他にやることが――」
「それはあとでやればいい」
「……はい」
花咲はうつむいた。表情が暗い。
彼女は小柄で見た目も可愛らしく、男性社員の人気が高い。だから世話をしてくれると男性社員たちが喜ぶ。
それを見越してか、課長はよく花咲にお茶くみをさせようとする。
つまり今回も光一郎に対するご機嫌取りのために、やらせようとしているのだろう。
上泉は椅子の背もたれに体を埋め、つぶやいた。
「『お前が入れろ』って言え」
花咲が上泉に目を向けた。
「いつも家でやらされているようにな」
上泉の言葉に花咲の悔しさで硬まった表情が緩んだ。くすくすと笑い出した。
課長は恐妻家で知られ、課の者なら誰でも知っている。
「上泉、何か言ったか!」
課長が怒鳴った。
「いいえ、何も。僕、何か言いました? 何て言いました?」
課長は苦虫を噛み潰したような顔をした。光一郎は我関せず
上泉は再び伸びをした。つられて、また欠伸が出る。
涙目になりながら今日の昼は何を食べようか考えた。
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