第3章 動機

第3章 動機(1)

 鏡の向こう側で若い男が尋問を受けている。

 最近の若者にしては珍しく、しっかりとした身なりをしていて、仕立てのよい濃紺無地の背広にエンジのニットタイを首に巻いている。

 彼は強面こわもての刑事を前にしても堂々と振る舞い、とてもリラックスした様子で話していた。


「それで男たちを暴行したのか? たったそれだけの理由で?」


 取り調べを担当していた中年の刑事が聞いた。刑事は前頭部の生え際が後退した大柄の男性で、上着を脱いだワイシャツ姿、袖をまくり上げ、体を横向きにし、太い片腕を机に乗せている。

 青年が淡々と答えた。


「彼らは凶器を持っていた」

「凶器ではなく護身用と言っているが」

「何から身を護る? 彼らに聞いたのか?」

「いや」

「一方だけの言い分を鵜呑みにされては困る」

「しかし怪我をさせたのは事実だ」

「それは認める、が――」


 青年が顔をこちら側、鏡のほうに向けた。彼の座るパイプ椅子がきしみ、音を立てる。


「これだけは言わせてもらう。彼らが身分を偽らず、凶器を所持していなかったら、こんなことにはならなかった。少なくとも僕のほうに彼らを襲う理由はない。全ての原因は彼らにある」

「原因?」


 中年の刑事が手を振り上げ、机を叩いた。


「ふざけるな! 一人は脳しんとうを起こし頭部裂傷、もう一人は腹部に内出血を起こしているんだぞ! お前は怪我をさせたんだ! そんな理屈が通じるわけないだろうが!」


 部屋の角に置かれた机、そこでノートパソコンを開き、キーボードを叩いていた若い刑事が振り返った。

 青年がニットタイを緩める。視線を鏡から中年刑事のほうへ向けた。


「喚くな、美しい日本語が台無しだ」


 中年刑事がわずかに頭を後方に振る、次の瞬間、勢いよく腰を浮かせ机の上に身を乗り出した。青年の髪をつかみ引っ張る。顔を近づけ静かに言った。


「警察を舐めるなよ若造。お前が何と言おうと、例え相手がどんな人間であろうと、怪我をさせた以上、お前には責任がある。わかるか?」


 あの刑事は感情的になっているのではない。これは鞭、あとであめを舐めさせるためのお芝居だ。

 芝居が上手ければ上手いほど飴は甘くなる。

 青年が手を伸ばし、刑事の手首をつかんだ。

 それはやめたほうがいい。

 二人の間にはへビィとバンタムぐらいの差があった。体格が違いすぎる。

 このままでは腕力で取り押さえられるだけだ。が、なぜか中年の刑事のほうが腰をぐぐっと浮かび上がらせる。

 青年の髪をつかんでいる手に変わりはないが、肘と肩が天井から何かに吊られたように浮いていて、体の軸がぶれ、倒れそうになった。

 刑事は慌てた様子で空いたほうの手を勢いよく伸ばし、机の端をつかんで自分の体を支えた。


「馬場さん?」


 若い刑事が異状に気づき声をかけた。

 中年の刑事は返事をしない。眉間にしわを寄せ、自分の不安定な体勢に驚いているようだ。倒されないように、さらに腕に力が入り、太い腕に筋が浮かび上がる。


「馬場さん!」


 若い刑事が叫び、椅子から立ち上がると、青年は中年刑事の手首を離した。

 同時に中年刑事のほうも青年の髪から手を離し、腰を椅子に落とした。困惑の表情を浮かべ青年につかまれた手首を見つめている。

 表と裏を何度も見返し、何かを確認している。

 こちらから見る限り、手首の皮膚が赤くなったり、指跡がついたりはしていない。何の変化も見られなかった。

 一体何が起きたのだろうか。

 青年は椅子から腰を上げ、上着の埃を払い落とすと、ワイシャツの襟を正し、椅子に座り直した。

 乱れた髪を指先で整える。


「僕は誰かをめるほど上等な人間ではない。この髪の毛をあなたにあげてもいいぐらいだ」


 青年の言葉に中年の刑事が見る見る顔を赤くする。腕を組み合わせ、唇を真一文字にして黙ってしまった。

 若い刑事は口を開き、何か言いかけたが、結局何も言わず、体を机のほうに戻し、背を向け座った。

 取調室は各々の意志により調和がもたらされ静かになった。


 ――葉室は取調室の隣室から事の成り行きを見ていた。隣に立つ、金色のバッジを付けた制服の警察官が話しかける。


「大したものですな。あの馬場に凄まれて一歩も引かないとは、近頃の若者にしては骨がある」


 確かに、だがそれだけではない。

 無骨さを装いながらもにじみ出る所作の美しさ、その一つひとつが無駄なく端正、そして顔立ちもまた端正、目鼻立ちが整っていて絵に描いたような美しさがある。

 だが、だからこそか、あの目つきが哀しかった。砂漠に浮かぶ太陽のようにぎらついていて、せっかくの美しい顔立ちが物悲しかった。


「しかし、困りましたな。彼のせいでホーエン製薬も警戒するでしょう。最悪、日本剛心との取引が中止になるかもしれません」

「ええ……」


 葉室は眼鏡のブリッジを右手中指で押し上げた。


「白川署長、ここからは私が取り調べます」

「わかりました。馬場たちを引かせましょう」


 白川に呼ばれ、尋問していた刑事たちが取調室を出て行った。

 青年が一人、取り残される。

 彼はちらり鏡のほうに目を向けた。

 葉室と目が合う。

 いや、鏡を挟んでいるのだから合うわけがない。

 でも、なぜだろうか……。

 青年は自分を見ているような気がする。

 葉室は試しに左に数歩移動してみた。彼の視線が追ってくる。

 まさか、見えているのか? 

 白川が聞いた。


「どうしました?」

「……いえ、何でもありません。引き続き、監視してください」


 葉室は取調室に向かった。

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