第2章 訪問者(4)

 二度、電話を掛けるも円は出なかった。

 上泉は会社に電話し、遠い親戚に不幸が遭ったので休ませてほしいと伝え、家を出た。

 昨夜、円に借りた傘を手に持ち、歩くこと十五分、大鷲のマンションに着いた。

 八階建ての七階、エレベーターのかごを降りて三番目のドアの前に立ち、呼び鈴を押す。

 応答がない。

 ドアをノックした。


「円、僕だ、義道だ」


 しばらくの間を置き、ドア錠の外れる音がする。少しだけドアが開いて円が顔をのぞかせた。顔色が悪い。


「大丈夫か?」


 上泉が聞くと円はうなずき、ドアガードを外してドアをさらに開けた。後退する。ドアが自然に閉まろうとするので上泉は手で押さえる。

 円が上がりかまちに腰掛けた。

 ジーンズを履いた両膝をぴったりとくっつけ、脛を八の字にして膝を抱え込む。背中を丸める。

 上泉は中に入り、手に持っていた傘を靴箱にかけた。ドアを閉め、玄関の灯りを点ける。

 膝を突いて円の顔を覗き込んだ。


「円」


 円が顔を上げる。


「立てるか?」


 円はうなずき、上泉の手を支えに立ち上がろうとしたが、途中で膝が抜けふらついた。

 上泉が抱き止める。

 円の黒髪がふわり、腰に回した上泉の手に触れた。


「円?」


 返事がない、ぐったりしている。円は気を失っていた。

 上泉は円を抱き上げ、リビングまで運んだ。

 ソファーに寝かせ、頭の下にクッションを敷いた。

 部屋の中は薄暗く寒かったのでカーテンを開けて光を呼び込んだ。

 円の全身が照らされる。

 ピンクのスクエアネックシャツが乱れ、腹部があらわになっていた。

 上泉は円の服装を整えると円の部屋からタオルケットを持ってきて掛けた。

 円が目を覚ます。

 声を掛けるが、何の反応もない。ぼんやりとしている。

 顔を横に倒し、天井に祀られた神棚に目をやった。

 今日の榊は揺れていない。円はぽつりと言った。


「帰って」

「昨日、先輩に君の事を頼まれた。それに君を守ると約束した」

「昨日は冷たかったのに、こんなときだけ優しいんだね。いつも中途半端」


 上泉は円の頭を撫でた。円は目を瞑る。目の端が濡れていた。


「よくわかってるじゃないか。僕のことをそれだけわかってるのは君だけだ」


 円が目を開けた。


「あのひとよりも?」


 じっと見つめてくる。


「誰のことを言っているのかはわからないが、僕と君は幼馴染でもう二〇年近くもの付き合いになる。家族以外でこれほど長い付き合いをしている人間は他にはいない。君と先輩だけだ」


 円は上泉の手を握った。自分の頬に寄せ、目を瞑る。


「そうだよね。もう二〇年もの付き合いだもの……」


 上泉は円のために、砂糖で甘めに味付けした厚焼き卵を作り、鰹節で出汁を取った豆腐と揚げの味噌汁を作った。

 炊飯器に残っていた白飯を茶碗に盛る。

 昨晩作ったミートパイはそのまま冷蔵庫に入れておいた。

 円は味噌汁の入ったお椀を手に取り、口元に寄せ、汁を啜った。


「美味しい」


 円の顔色がだいぶよくなった。

 上泉は食事が終わるのを待ち、聞いた。


「先輩のことなんだが」

「昨夜、大雨で視界が悪かったから、きっとそのせいだろうって」

「警察が?」


 円が手に持っていた空のお椀と箸を置いた。指先が震えている。もう一方の手で握り込むと、テーブルの下に隠し、うつむいた。

 上泉は目を逸らし、リビングの隅に置いてあるパキラに目を向けた。

 パキラの幹はねじれて立派だったが、葉の一部が焼けて白くなっていた。


「ご両親はいつ来るんだ?」


 上泉は腰を上げ、パキラのほうに歩いていった。


「警察に寄ってから来るって言ってた」

「そうか、それまではここにいよう」


 変色した葉を取り除き、根元に置いた。パキラがわずかに揺れる。喜んでいるようだ。

 円が胸の奥から絞り出すような声で言った。


「……慰めの言葉もないんだね」

「僕が言うべき言葉は何もない。残された者が自分で考え、意味を探るしかない」

「ずっとそばにいてよ……」


 そこで二人の会話は途切れた。遠くで犬が鳴いている。チャイムが鳴った。

 上泉は円に目を向けた。


「ご両親かな」

「そうかもしれない」


 円は立ち上がり玄関に向かった。

 上泉もあとに続いた。

 円がドアに声をかける。


「どちら様でしょうか?」

「日本剛心の者です」


 男の声だった。

 ドアを開けると二人の男が立っていた。

 一人はライトグレーのスーツ、もう一人はダークグレーのスーツを着ている。

 二人とも短髪で年齢は四〇代かそれぐらい。胸板が厚く、肩幅もある。背筋がすっと伸び、精悍な顔つきをしている。

 ライトが名刺入れから一枚差し出した。手には何故か黒革の手袋をしている。


「私は剛心の社員で、大鷲紀人さんと同じ国際戦略部に所属している岩下と申します。こちらは同じく林です」


 林と呼ばれたダークが頭を下げる。彼は玄関のドアが閉まらないよう手でドアを押さえている。その手にはライトと同様、黒革の手袋をしていた。

 ライトが言った。


「あなたは大鷲紀人さんのご家族ですか?」

「妹です」

「そうですか、この度は何と言えばいいのか、ご愁傷様でした」

「いいえ」

「彼は良き同僚でした。本当に残念です」

「はい」

「それで、あの……」


 ライトが口籠もった。言い難そうな顔をしている。

 円のほうから聞いた。


「何でしょう?」

「すいません。このような日に大変申し訳ないのですが、じつは私たちはあなたのお兄さんが会社から持ち帰った物、具体的に言えば、電子データ、書類、それから身分証や社章バッジ、未使用の名刺に至るまで、社に関する全ての物を回収するよう命令されてここに来ました」


 ライトはあらかじめ用意していたように、すらすらと言った。

 円が眉をひそめる。ライトは視線をやや下に落とし、申し訳なさそうな顔で続けた。


「本当に、本当に申し訳ないことですが、彼のやり残した仕事を結実させるためにも是非ご協力ください」


 ライトが頭を下げ、遅れてグレーも頭を下げる。


「しかし、こんな日に、いきなり」


 円は上泉を見た。

 上泉は円から名刺を取り上げ、確認した。

 剛心の社章、紙の触感、明朝体の印字、インクの濃さ、それらの特徴は間違いなく剛心の名刺を表していた。

 ライトが聞いた。


「あなたは?」

「僕は大鷲の友人です。先ほどからあなたたちの話を聞いていましたが、これはあんまりではないでしょうか。大鷲が死んだ翌朝に何の事前連絡もせずに妹のもとに押しかけて来て、故人の遺品を回収したい? 常識がなさすぎる」

「……申し訳ありません」


 ライトは頭を下げながら、ちらりダークに視線を送る。ダークは外廊下を見た。

 上泉は気付いていないように続けた。


「国際戦略部の部長といえば、確か、城之崎さんでしたよね? これは城之崎さんの指示ですか?」

「あなたも剛心の?」

「そうです。僕は城之崎さんと面識はないのですが、周囲の評判から立派な御方だと聞いています。そのような方がこのような無神経な指示を出すとは思えない。そう言えば」


 上泉は目の端に淡いピンクのガーベラを捉えた。


「城之崎さんは腰を痛めて入院されていたはず、何でも、お孫さんを抱き上げた時に痛めてしまったとか、そのような状態なのに今日も仕事をしているんですか、彼は?」

「はい。城之崎はすでに退院し、現場に復帰して――」


 ライトの頭で花瓶が砕けた。ガーベラと水が飛び散る。ライトがふらつき、ダークが表情を変えることなく片足を引いて上着の外ポケットに手を突っ込んだ。

 上泉は花瓶だったものを手放し、倒れるライトの喉をつかんで盾代わりにしつつ脇からダークの鳩尾みずおちを蹴り上げる。

 ダークはうめき声を上げ、前のめりに倒れた。

 ドアが閉まり、ダークの脚が邪魔して止まる。

 上泉は手に持っていたライトをダークの上に捨てた。二人共、うめいている。


「一体、何? 何なの?」


 円の言葉に上泉は言った。


「国際戦略部の部長は女性だ」

「たったそれだけのことで?」

「それだけじゃない、他にもある」

「何?」

「黒革の手袋が気に入らない」


 上泉はダークのポケットに手を突っ込んだ。スタンガンが出てきた。スイッチを入れると電極に火花が散った。


「ほら、こういう場合は先手を打つに限る」


 円が廊下の壁に力なく寄り掛かる。ずるずると滑り落ちた。


「一体、この人たちは何なの? お兄ちゃんの同僚じゃないの?」

「それはわからないが、とにかく今は警察に連絡しよう。彼らは身分を偽り、凶器を持っていた。誰がどう見ても不審者だ」

「それはそうだけど、これはやりすぎよ。過剰防衛になるかも」

「そうか。だったら何か言い訳を考えておこう」


 上泉は男たちをまたぎ、ドアを押し開けた。外廊下を見る。

 誰もいない。

 結構な物音を立てたはずなのに、様子を見に来る者はおろか、顔を出す者さえいなかった。

 留守なのか、居留守なのか、どちらにしても顔を出さないのは正解だった。

 上泉にとって、男たちにとっても。


「円、何か縛るものを持ってきてくれ」

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