第6章 羽毛の罪(4)
魔王の嘆きが聞こえる。
邪神の嘲笑が聞こえる。
天使の囁きが聞こえる。
かつて神霊だった者たちのあらゆる声は重なり合い、耳が痛くなるほどの雑音となったが、突然に静まり、耳鳴りだけが残った。
やがて、その耳鳴りさえも消え去り、今はもう何も聞こえない。
ただただ静かな世界で自分だったものが思い出を語り始める。
僕は、僕は、と。
――僕の父は神道と縁の深い家柄に生まれ、彼自身もまたその信者だった。
そんな彼が教会に立ち寄ったのは、風に誘われたから、としか言いようがない。
教会のドアを押し開け中に入ったら、そこには母がいて、ステンドグラスから射し込む光に包まれ神に祈りを捧げていた。
これが僕の両親の出会いだった。
二人はこの出会いを機に親しくなり、愛し合うようになった。宗教の違いを乗り越え結婚した。
それは紆余曲折、とても大変なことだった。
信仰心が強ければ強いほどそれが障害となり、隔たりは大きくなる。加えて、家柄、血脈、伝統、あらゆる要素が
だから父のほうが譲歩した。
二足の草鞋を履いたのだ。
彼はカトリックへと改宗し、いつもは教会とありながら、何か特別な行事の時にだけ神道と関わる、そのような生き方を選択した。
僕が生まれ、家族三人となってもそれは変わらず、二つの宗教と共に生きる日々、神の存在が生活に溶け込み、息をするようにそばにある一方で、教会の厳かな空気、現実から隔絶された世界にも同時に存在する。
いずれも僕の中では真実で、矛盾はなかった。そう、あの夜、母が死ぬまでは……。
僕が一〇歳になったころだ。
母が病気になった。
末期の癌で、医者からは余命半年と告げられた。
その時、僕は絶望したが、母は違っていた。父も違った。
二人は神を信じ、これを試練だと考えた。病に対し、どのように振舞うか試されていると信じた。
父は毎日、教会へ出向き母のために祈った。仕事が終わってから何時間も一心に。
そして母も祈った。病室で静かに。
もちろん僕も祈ったが二人ほど熱心なものではなかった。僕は神に祈るよりも母のそばにいたかった。
それから半年が過ぎ、母は余命宣告を回避して生き延びた。
もしかしたら父や母の祈りが届き、奇跡が起きたのではないかとも考えたが、それは現実逃避でしかなかった。
全ては運命、運命が母を生かし、僕を十二歳にした。
その年、僕は神父の推薦で全寮制の中高一貫校に進学することになった。
寮に入ると、母の顔を見るのが難しくなる。
だから、僕は春休みの間、可能な限り母のそばにいようと考えた。
土曜日には父も一緒に、家族三人、病室に泊まり、夜遅くまで話をした。
内容は楽しかった思い出話ばかり、これからのことについては一切話さなかった。
春休み最後の土曜日が訪れた。
その日、父は神道の行事で遠方に行かなければならず、どうしても病室に泊まれなかった。
そう、そのような時に限って事が起こる。母の容態が急変し、危険な状態に陥ったのだ。
目を閉じたら眠り、数分もしないうちに目を覚ます。痛そうに顔をしかめたと思ったら、また眠る。繰り返しだった。
医者が言うには今夜が山らしい。
僕は父に連絡した。
彼はすぐに帰ると言った。
僕がその事を母に伝えると、彼女は苦しそうにうなずいた。
母の容態は見る見る悪化する。
父はまだ姿を見せない。
母は余程痛かったのだろう、呻いた。
医者が鎮痛剤を使う。薬が効いて母は安らぎを見せた。
僕は母に声をかけた。彼女は手を伸ばし父の名を呼んだ。僕は母の手を握り返事をした。
すると彼女は言った。
「あなた、今日はずっとそばにいてくれたんですね」
僕は息を呑み、震える唇で父の口振りを真似た。
「ああ、当然だろ? 俺たちは神の前で愛し合うことを誓ったじゃないか」
「はい、あなた」
彼女は笑い、死んだ。
夜が明け、窓から光が射し込み、病室が明るくなる。
白い羽根が部屋の中を舞っていた。
疑いようもない、あの羽根は僕を責めているのだ。
父は赦してくれた。母も赦してくれるだろう。
だからこそ赦されない。
死んでも赦されない永遠不滅の罪がここにある。
神よ、あなたはなぜ僕を裁かないのか?
……何もない。
僕の胸には沈黙と静寂だけが刻まれた……。
――雨音が聞こえ、上泉は目を覚ました。
白衣を着た黒髪ベリーショートの女性が見下ろしている。彼女は上泉のまぶたを強制的に開き、ペンライトの光を当てた。
上泉は眩しさで顔を逸らす。
「意識が戻った」
そう言って、女性は光を消した。視界から消える。ドアの閉まる音がした。
上泉は左手に柔らかいものを感じ、顔を傾けた。女性がベッドの側に座り込み、上泉の手を握っている。
褐色の肌、青にやや紫をにじませた虹彩、濡れているかのような黒髪がベッドの上で乱れていた。
フリルのついたブラウスとベッドのシーツが擦れ合い、音を立てる。
ダマスクローズの豊かで複雑な香りが顔に当たり、煙草の匂いが唇に残った。
「マリア」
上泉の呼びかけにマリアは涙を流した。
「兄弟」
男性の声がした。
上泉が顔を、マリアとは反対の方向に傾ける。
窓の側に男性が立っていた。
外の明るさが逆光になり顔はよく見えなかったが、誰なのかすぐにわかる。
クライヴだ。
彼の立ち姿には野性的な美しさがあった。
「痛いところはないか?」
クライヴは窓から離れた。
影が薄らぎ、顔があらわになった。
マリアと同じく、褐色の肌に青紫の虹彩、後ろに寝かし付けられた黒髪は艷やかで、着ているのは上泉と同じブリティッシュ・トラディショナル・スタイルのスーツ、色と柄は上泉のとは違っていて黒のチョーク・ストライプ、赤のニットタイ、右耳には銀のイヤリングをしている。
クライヴは上泉に背中を向けると腰を落としベッドに座った。
振り返り、白い歯を見せながら右手を差し出す。
上泉は右手を伸ばし、クライヴの手の平に置いた。
クライヴが強く握る。
「クライヴ、なぜここに? 君が助けてくれたのか?」
「いや俺は君を殺そうとしていた者たちを沈黙させただけだ。一足遅くてね。君は息をしていなかった。心肺停止の状態だった」
上泉はクライヴから手を離し、自分の首を触った。
包帯が巻いてあった。
「そうか、どうりで夢を見るわけだ」
「そう、だから君を助けたのは俺ではない。助けたのは姉さんだ。マウス・トゥ・マウスで君を生き返らせた。とても情熱的で、見ていて感動するぐらい素晴らしい光景だったよ」
上泉はマリアを見た。マリアは言った。
「あなたが死んだら私も死にます。あなたが生きるなら私も生きます。だから、どうか、もっと長く生きてください」
「……ありがとうマリア。ありがとうクライヴ」
風に煽られた雨が窓にぶつかり、音を立てた。
上泉は雨降る夜、自宅アパートで鈴と週末の予定について話し合ったことを思い出した。
あのときも似たような雨が降っていた。
明日がある。週末に意味があった。彼女といると、そう思えた。
でも今は違う。
もう二度と同じ雨が降ることはない。ただ似た雨が降るだけだ。
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