第4章 日本剛心重工業株式会社(2)

 昼休み、上泉は剛心の屋上庭園にいた。

 隣の女性社員たちから一緒に食べませんかと誘われるが、それを断り、一人で花水木のベンチに座って弁当を食べていた。

 屋上に来る前に花咲からラーメン、ラーメンと連呼されたが、それも断った。


 花咲はとても残念がり、あとで屋上に顔を出すと言い残して、一人でラーメンを食べに行ってしまった。

 上泉は黄色い沢庵漬けを口の中に入れ、噛んだ。

 空を見上げる。

 よく晴れていて雲も少ない。


 今朝読んだ朝刊によれば夜にはまた雨が降るらしい。

 昼は晴れて、夜には雨が降る、最近はそんな日々が続いている。

 風が吹いて頭上の枝葉が揺れた。

 葉が擦れ合い、メロディが聞こえる。


 沢庵漬けを飲み込み、隣を見ると、ベンチの空いた部分に木漏れ日が揺れていた。

 大小様々な光がばらばらに動く中、一つだけ不自然に動かない丸い光がある。

 フォーカスすれば、手の平サイズの少女が女の子座りで鼻歌を歌っているのが観えた。

 フェアリーだった。


 金髪の少女、白いフリルの付いたドレス、お決まりの形をしているが、羽は生えていない。

 羽で人を浮かせるのは無理があると、どこかの誰かが気づいたのかもしれない、あるいは現代の常識だからかもしれない。


 上泉の視線に気づいたフェアリーがちらちら視線を投げかけ、やがて歌うのをやめてしまった。

 下唇を噛み、口の中に巻き込んでいる。

 とても緊張しているようだ。


「そのまま続けて」


 上泉が言うと、フェアリーは驚き、にっと笑った。

 立ち上がり、身振り手振りを添えて楽しそうに歌を再開する。

 その歌声には、以前、船旅で出会ったローレライのような妖しさはない。

 じつに無邪気な歌声だった。


 先人の英知を幾重にも折り重ね、顕現けんげんするにまで至った存在、それは人の意識と共に進化し、世界中どこにでもいて、ただ観えていないだけ、知る者が知る素粒子そりゅうしと同じで、その存在を知る者だけが認識し、この無邪気な歌を聴くことができる。


 上泉は心が軽くなるのを感じ、楽しさに包まれた。

 これはフェアリーの神威によるものだ。

 別に上泉自身の感情が変化したわけではない。

 ただ、そう感じただけ、あくまでも暑い寒いと同じで、上泉はただ感じている側でしかない。


 これが、もし上泉のように耐性がなかったら、この感情の変化を自分の意志だと錯覚してしまうだろう。

 結果、様々な行動を起こし、世界に少なからず影響を及ぼしてしまう。

 神霊の種類によっては戦争が起こることさえある。


 だが、それも結局は人が自分の意志で決めたことだ。

 神霊を産み出し、ささやかれ、どのような感情に流されようとも、すべてはは人自身が招いたことだ……。


「あれって城之崎部長じゃない?」


 少し離れたベンチに座っている女性社員が言った。

 赤レンガの小道の先に蔓草のトンネルがあり、その入り口に城之崎が立っている。

 彼女はじっとこちらを見ている。

 そして、こちらに歩いて来る。

 白のブラウス姿、脱いだカーデを腕に掛け、手にはハンドバッグとビニール袋を持っていた。

 上泉のところまで来ると言った。


「あの、隣いい?」


 上泉はフェアリーに目を向けた。

 フェアリーは消えていた。

 空いたベンチを指差し言った。


「そちらが空いている」


 広場には女性社員たちの座るベンチの他に、もう一つ、空いたベンチがあった。


「ご、ごめんなさい!」


 城之崎が頭を下げた。


「いきなり殴ってしまって、本当にごめんなさい!」

「君は口で言うよりも手のほうが早いんだな。今まで何人の男を殴った?」


 城之崎が顔を上げ、むっとしている。

 上泉は叩かれた頬をわざとらしくさすった。

 途端、城之崎は申し訳なさそうに、また頭を下げた。

 隣の女性社員たちがひそひそ話している。


 上泉は尻を浮かせた。

 ベンチに空きを作る。

 城之崎が再度、顔を上げた。

 無言で尋ねてくる。

 上泉は言った。


「どうぞ、ご自由に」


 城之崎は表情をぱっと明るくして「ありがとう!」と言った。

 先ほど怒りに身を任せ平手打ちしておきながら、すぐに申し訳なさそうにやって来て謝罪、仕舞いにはこの笑顔、上泉は少しだけ楽しく感じた。

 多分、フェアリーの神威が影響したのだろう。

 城之崎が隣に座った。


「あの、さっきのことなんだけど、あ、そうだ、あなたのお名前を教えてくれる?」

「上泉義道」

「凄い名前ね。私は城之崎望、よろしくね」


 城之崎は笑みを浮かべるとビニール袋から、おにぎりを二つ取り出した。

 膝に乗せ、手で十字を切る。

 胸の前で両手を組み合わせ目を瞑った。

 唇を動かし祈りの言葉を呟いた。


「城之崎さんはカトリックか?」

「ええ、そうよ」


 城之崎は祈りを解いた。


「……もしかして、あなたも?」

「僕の両親が君と同じカトリックだ。彼らは毎週欠かさず主日のミサに通っていた」

「通っていた? あなたは行かなかったの?」

「手を引かれるままに行っていた時期もあったが今は行っていない」

「なぜ?」

「この国で生きるのに信仰は必要ない。信じる自由が許されているように信じない自由も許されている。誰だって傲慢になる」

「私は幼いころにアメリカへ渡ったからその辺のところはよくわからないのだけれど、あなた自身はどうなの? 神を信じていないの?」

「信じている」

「信じているのに、なぜミサに行かないの?」

「僕にはその資格がないからだ」

「資格なんていらないわ。神はいつも私たちを見ていらっしゃる。あなたが信じていることもきっと知っていらっしゃる」

「…………おにぎり」

「え?」

「食べないのか」


 城之崎はおにぎりに目を落とすと封を切りビニールカバーを引っこ抜いた。

 海苔を綺麗に整え、一口食べた。


「僕に何か話があったのでは?」


 城之崎が口をもぐもぐさせている。

 上泉はそんな城之崎の顔を見つめながら言葉を待った。

 城之崎は口の中のものを飲み込んだ。

 袋からペットボトルを取り出し顔を背けて緑茶を飲んだ。

 息をつき、口元を手で隠しながら言った。


「嫌なヒトね」

「故意ではない」


 上泉は自分の弁当から日の丸をかたどった小梅をつまみ上げ、おかずエリアに移動させた。


「本当かしら? ま、いいわ。さっきのあなたの話だけれど、もしよければ詳しく聞かせてくれない?」

「聞いてどうする?」

「どうするかは聞いてから決めるわ」

「君は面白いな」


 上泉は昨日の、大鷲宅を訪ねてきた男性二人組について話した。

 もちろん、彼らが偽者であることを見破り、話し合いの上、丁重にお帰り頂いた風に脚色した。


「おかしいわね。その二人なら海外に出張中よ。今朝もビデオチャットで話したし……」


 上泉は弁当箱を脇に置くと、手を差し出した。


「城之崎さんの名刺を見せてくれ」


 城之崎はハンドバッグから名刺入れを取り出し、一枚抜いた。


「はい、どうぞ」

「やはり同じだ。あれが偽物だとしても、本物そっくりに作る必要はない」


 上泉は名刺を返そうとしたが、城之崎は拒否した。

 仕方ないのでポケットに入れた。


「それに、あの名刺はまだ下ろし立てのようだった」

「未使用品ってことかしら?」

「そうだ。彼らはわざわざ実在する社員の名刺を使った。これは多分、剛心にいる何者かが絡んでいるような気がする」


 城之崎は髪を触り始めた。

 胸元まで伸びた癖のある黒髪を人差し指に絡め、くるくると巻いている。

 だから癖毛なのかと、上泉は妙に納得した。


「そうかもしれない、そうじゃないかもしれない。これはあくまでも可能性の話だけれども、未使用の名刺なんて、その手に通じた者がやろうと思えば簡単に手に入ると思うの。偽造しようと思えば偽造できるだろうし、発注先の印刷会社から盗もうと思えば盗める。だから必ずしも剛心の社員が関わっているとは限らないわ」


 城之崎は髪から指を離した。


「けれど、その男たちは大鷲君が会社から持ち帰った何かを探していた。それは確かなのよね?」

「ああ、そうだ。だが、それを特定するのは僕には無理だ」

「なぜ?」

「先ほど君が黒板に書いていたものを見て、そう思った。だからここは一つ、彼の誘いに乗ってみようと思う」

「彼?」


 上泉は答えなかった。

 城之崎が眉間にしわを寄せた。


「大鷲君は私の部下よ。口は軽かったけれど、仕事はできたし、海外出張も嫌な顔一つせず、むしろ喜んで行ってくれた。国戦部にとって彼は本当に貴重な人材だったわ」


「いや、それは多分、違う意味で喜んでいただけだと思うが」


「とにかく! もし彼が何か事件に巻き込まれて死んだのなら、私は部長としてその理由を知っておく必要があると思うの。それに、その剛心の名刺もそう。悪用されたのならば私はその詳細を調査しなくてはいけない。責任ある立場にいて報酬を貰っているだけに、これを無視するわけにはいかない」


「君はプロフェッショナルだな。でも、これは僕の問題だ。僕が勝手に、誰に言われることなく調べているだけだ。君には関係ない」


「もしかして、私を疑ってる?」

「いや、そうじゃない」

「信じて、私は神に誓ってあなたの敵ではない」


 上泉は首を振った。


「神に誓おうが誓うまいがそれは関係ない。なぜなら敵かどうか、それは僕と君の問題でしかないからだ」

「上泉くん!」


 蔓草のトンネルから花咲が手を振り、駆け出してきた。

 手にはコンビニのビニール袋を持っている。

 中身は花咲がいつも飲むダイエット効果のある健康茶、上泉が愛飲している缶コーヒーのようだ。

 透けて見える。


「お待たせ! 待った?」


 花咲はご機嫌だった。


「上泉くんも来ればよかったのに。鶏ガラのスープ美味しかったよ! それから麺もね、すごいの、ストレートの太麺なのにスープが絡んで、多分あれは脂に秘密があるんだわ、きっと!」


 花咲は子供のようにはしゃいでいた。

 両腕を広げ熱弁を振るう。

 それを見た隣の女性社員たちがくすくすと笑っている。


「あれ?」


 花咲はようやく城之崎の存在に気づいた。


「城之崎部長ですよね?」

「え、ええ。あなたは?」

「私は営業部の花咲弓です」

「じゃあ」


 城之崎は上泉に目を向けた。


「上泉さんと同じ部署かしら」

「はい、そうです! 席も隣同士なんですよ!」


 花咲の勢いに城之崎はたじろいだ。


「そ、そうなの」


 花咲が城之崎の前に歩み出て、手を差し出した。


「私、前から城之崎さんのこと尊敬してました! 握手してください!」


 城之崎は呆気に取られている。


「あの、駄目ですか……?」


 花咲の表情が曇る。

 城之崎は首を振った。


「そんなことないわ。喜んで。よろしくね、花咲さん」


 二人は握手した。

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