第5章 宗像源蔵(4)
源蔵は写真を一通り見たあと、再び紙束の二枚目に戻り、目を通し始めた。
城島に調べさせた際には何か大いなる力によって隠されたように、上泉義道の出身地や学歴など表面的な経歴しかわからなかったのだが、会長の資料にはそのようなこともなく詳細が載っていて、じつによく調べられている。
留学時の情報もさることながら、留学前、日本にいたころの不明だった情報もまとめられていた。
「彼はあの若さで
源蔵は少し失望を覚えつつも読み進め、ある言葉のところで目を止めた。
「ここに書かれているエイジス家とは、あの英国のエイジス家のことかね?」
「そう、イギリスの貴族でありながら各国の政財界、宗教界に大きな影響力を持つカントリー・ジェントルマン、アーサー・エイジス。あなたが調査してほしいと言ってきた男は、その彼が絶大な信頼を寄せる英雄だったんだよ」
「英雄? 何を夢物語な――」
「エイジス家にイージスの盾あり、英雄率いる騎士団あり」
源蔵が黙ると、ヴォルフガングは口元に笑みを浮かべ得意げに続けた。
「英雄とは上泉氏のことね、それから騎士団のほうはエイジス家に仕えるプロフェッショナルたちのこと、それからイージスの盾、これはね、いわゆるただの喩えなんだけど、その正体は伝統・資本・信仰、この三つの権威を兼ね備えた政治力といったところかな? いつからか、誰が言い出したのかは知らないんだけれど、そのアーサー・エイジスの政治力のことを各国の有力者が……。えーっと、何だっけ?」
ヴォルフガングは天井を見上げ、人差し指を立ててくるくる回す。
「そうそう、イケイノネン?」
視線を下げ、源蔵を見る。
「って奴でイージスの盾と呼んでいるんだよ」
「ふむ。政治家など程度の低い、自己顕示欲と保身しか脳のない俗物だと思っていたが、いるところにはいるのだな、そのような君子が。それで、そのイージスの盾と英雄はどう関係してくるのかね?」
「盾は盾でしかないんだよ。力を行使するには剣がいるんだ。それが英雄率いる騎士団というわけ」
ヴォルフガングが箱のふたを開け、葉巻をつまんだ。
「一本貰っていい?」
「うぬ」
源蔵は少し躊躇うが、許可する。
「一本だけだ」
「ありがとう!」
ヴォルフガングは葉巻の先端をギロチンで切り落とし、源蔵に手を差し出した。
「火をちょうだい。さっきのライター」
「城島」
「はい」
源蔵のそばに立っていた城島が机の引き出しから葉巻用の長マッチを持ってきてテーブルの上に置いた。
ヴォルフガングが拾い、火をつける。
マッチを振りながら口から煙が漏れ出る。
「いや、上玉で御座る」
「続けたまえ」
ヴォルフガングが咳をした。
煙が肺に入ったらしい。
「おー、きつい、泣けてきました」
涙目だ。
「ムナカタ氏、戦争というものはね、メンドクサイものなんだよ。とくに民族や宗教が絡んだ争いとなると本当にメンドクサイね。ただひたすらに信じたもののために戦い続ける、だらだらと、いつまでも、不毛な争いをずっとね」
「それはそうだろう。人間とはそういう生き物だ。自分の信じたもののためなら法を捻じ曲げる。その考え方が法の下の平等ではなく、法の上の不平等になっていることにも気づかずにな」
ヴォルフガングはふふっと笑った。
「そうだね、ムナカタ氏。あなたのそういうところはよいよ。ボスが取り引き相手とするだけはあるね。でもね、最近は争いの質、いや傾向かな。ちょっと違ってきていてね。ムナカタ氏、近年を思い出してごらん。テロが起きても同じ国では連発してないよね? 紛争が起きてもその地域からは拡大してないよね? そう、全てはエイジス家の騎士団が関わっているからなんだよ。あいつらと関わった奴らはみんな、意識の昇華って言えばいいのかな、毒気が抜かれたようになっちまうんだ。本当、敵に回すとやっかいな連中だよ」
「なるほど、つまり君たちの天敵というわけか?」
「違うね」
ヴォルフガングが葉巻を吸った。
煙を吐き出した。
今度は上手に吸えたようだ。
「少なくとも俺は違うね。俺はあいつらに感謝しているんだ。もし、あいつらがいなかったら紛争は拡大し、テロの暴走は止まらなくなる。人間なんてしょせんは感情の生き物で、自分さえよければいいと思っちゃう、その程度の存在だからね。だから、俺はね、あいつらの存在を認め、感謝しているんだよ」
「戦争屋がそんなことを言っていいのかね? 紛争があったほうが儲かるのだろう?」
「そりゃそうだが、でも、これ、ボスの意向でもあるから。それにね、あの英雄殿が邪神と戦っているのを見たとき、俺は……」
へらへらしていたヴォルフガングの顔が穏やかになった。
「神の存在を感じたね。彼はまさに、神に愛された男だったよ」
「神? 神などおらんよ」
「喩えだよ、ムナカタ氏」
突然、耳元でけたたましい鳥の鳴き声が聞こえた。
鼻先に密林の匂いが立ち昇る。
源蔵は手に持っていた葉巻をガラスの灰皿に押し付け、ソファーから腰を上げた。
机に立て掛けてあった杖を手に取る。
北東の方角から奴が来る。
天井の角に黒いシミが現れ、墨汁のような水滴が漏れ出した。
水滴は垂線を滑り落ち、床の角に黒い水溜りができた。
それは、かつて斬った葉室少尉の血溜まりと重なる。
源蔵は血の臭いを思い出した。
血溜まりから手が伸びた。
もう一方の手も出てくる。
上半身を這わせ、下半身を血溜まりから引っこ抜いた。
全身真っ黒の人間が立ち上がる。
首から上を横に一回転、顔にはいつのまにかシカミの面をつけ、武者震いすると帝国陸軍の軍服を身にまとう。
ヴォルフガングが煙を吐き出した。
「おやおや、これは珍しい、亡者か。俺が相手しましょうか、最近、運動不足なんですよ」
「ほう、君も見えるのかね?」
「うん、観えてるね。で、どうします? やっちゃいます? 今ならお得意様料金でサービスしますよ」
「よい。わしがやる」
「お二人とも、さっきから何を言っているんです?」
城島が不思議そうに聞いた。
「あれジョーシマちゃんは観えないの? 純真だなぁ、こんな夢の世界を信じているなんて」
ヴォルフガングは笑った。
「見えない? 夢?」
「城島、わしの後ろに下がれ」
「は、はい」
城島は訳が分からないといった顔をしながらも、言われた通り源蔵の後ろに下がった。
シカミが軍刀を抜いた。
源蔵は左足を軽く引き、杖の握りに手を置いた。
右足を紙一枚分ほど浮かせ、重心を微かに後ろへと移動させる。
やや視野が広がり間合いが伸びた。
シカミが斬りかかって来た。
間合いに入る。
源蔵は浮かせていた右足を落とし、踏み込んだ。
そこは灼熱の鉄板だった。
禅により鍛えられた精神力が源蔵の感覚を
熱さで、右足の裏に向かって全身が
全てが反射となり、人体の持ちうる力が一点に圧縮した。
――あとは放つだけ――。
源蔵はかんしゃく玉が弾けたように、杖に仕込んだ枝垂れを放った。
抜き、入り、払い、三位一体の斬撃だった。
シカミは反応することもできず腹を斬られ、切り口から白い埃が出ている。
ふらつき後退するが、軍刀は下げない。
「むむッむぅ名カタあぁ阿あアアアぁ!」
再度、シカミが斬りかかって来た。
源蔵は踏み込み、逆袈裟に斬りつけた。
「葉室隊長、負けたあなたが悪いのじゃ」
シカミは埃となって霧散した。
「見るがいい」
源蔵はヴォルフガングに言った。
「わしはまた勝った。神などおらんのじゃ」
ヴォルフガングが葉巻を口にくわえたまま拍手する。
「一体、何が?」
城島が言いかけたところで、ドアがノックされ声がした。
「城之崎です」
源蔵は枝垂れを杖に収めると、自分の机に戻り、言った。
「入りなさい」
城之崎が入ってきた。
ヴォルフガングが口笛を吹き、腰を上げた。葉巻の火を灰皿で消し、城之崎とハグをするため両腕を広げ近寄った。
「ノゾミ、今日も綺麗だね」
「あら、ありがとう」
城之崎が微笑みながらかわす。
呆れたように言った。
「私は日本人だからハグをしないと何度も言っているのに、本当、
「そうだっけ? ノゾミが綺麗過ぎて忘れていたよ」
「もう……」
ヴォルフガングはダレスバッグを手に取ると源蔵に背中を向け、言った。
「ん、じゃあムナカタ氏、俺はこれで失礼しますよ。それから」
声の調子を落とす。
低い声になった。
「あまり神の存在を否定しないほうがいい。その考えはあなたの人生に取って何の役にも立たない」
ヴォルフガングは部屋を出ていった。
入ってきたときはふらふらしていたのに、出ていく時はしっかりとした足取りになっていた。
「神?」
「……城之崎くん、用件を」
「あ、そうでした。相談役、ロシア進出の件でお話が――」
城之崎がテーブルに置かれた紙束に目を止めた。
紙がめくれ、上泉義道の経歴があらわになっている。
「どうかしたのかね?」
返事がない。
城之崎は紙束を凝視していた。
「彼と面識があるのかね?」
「え?」
城之崎が顔を上げた。
「い、いえ」
いつもと違い、歯切れが悪かった。
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