夜風
こっちの暦について聞く暇がなかったから、今が何月から何月までのうちの何月なのか分からないが、自分以外は誰もいないバルコニーを撫でる風の匂いと温度から、レンは今が早春だろうと当たりを付けた。
夜は更けて辺りは肌寒いと言っていい気温だ。だが宴会の熱気の中その主賓として一仕事した彼は汗ばんですらいて、今はその冷たく清涼な空気の引き締まりが気持ち良かった。
レンはバルコニーの手摺の角、平坦な部分に皿と酒瓶を置くと、くるりと首を回して溜息を吐いた。迎賓館は大通りに面していて表側は立派な噴水のある庭園が広がっていたが、レンがいるバルコニーは裏側で、そこはちょっとした花壇と小さな日除け小屋のようなものがあるこじんまりとした庭だった。彼は月明かりに薄ぼんやりと見える良く手入れされた庭の様子を見下ろしながら大きく伸びをした。
酒瓶から直接、一口果実酒を含んでみる。
それは正しくレンたちの世界の赤ワインそっくりの味で、彼は自分たちの世界とこの世界は実は言うほど異なってないのかも知れないと思った。
鳥の腿に小麦粉を付けてローストしたらしい肉料理は香草が効いていて思った以上に美味しく、レンは自分の空っぽだった胃が全力で喜んでいるように感じた。蒸した芋。柑橘系の果物。カヤタのマジックショーの暗がりの中、手早く集めた食べ物一式を手で摘むようにしながらようやく腹に収め、上等のワインで喉を潤すと人心地付いて、レンはポケットからスマートフォンを取り出して電源を入れてみた。
圏外の表示。バッテリー残量は25%。
勿論着信もメッセージの受信もSNSのタイムラインの更新もない。
レンは溜息を吐くと、写真管理アプリを開き最近撮った写真を指先で流して眺めるとはなく眺めていたが、ある写真でふとその指が止まった。
「光る板、か。便利そうな道具だな」
顔を上げると銀の盃を携えたエレンが立っていた。
「我々の世界では、灯りを得るのに油を炊くか、魔法の力を借りねばならん」
「どったのエレンちゃん? 機嫌悪いね」
エレンはずかずかと近寄るとレンが傍らに置いていた酒瓶をむんずと掴んで自分の盃にその中身を注ぎ、一気に呷った。
「別にいつもと変わらん。悪かったな。生来の仏頂面で」
どっ、と音を立ててレンのすぐ隣のバルコニーの手摺に寄りかかりながら、エレンはふうっ、と大きく息を吐いた。
「だが異世界の……チキューの道具も大したことはないな。その小ささで火も起こさずに灯りを得られるのは確かに便利だが、部屋一つを照らすには暗かろう。その程度の灯りなら相手や足元を照らすのがせいぜいだ」
「これ、灯りの板じゃないんだ」
「だが光っているではないか」
「絵や字を光らせて見やすくするためさ。ほら」
「おおっ」
エレンは声を上げて驚いた。
そこには生きた人間としか思えない肖像画があった。それはレンやエレンと歳の変わらない女で、こっちに向かって本当に楽しそうに笑っている。だが、その笑顔は時を止められたように固まったまま凍り付いていた。
「これは……肖像画か⁉︎」
「ちなみに動く」
『きゃっ、もう何撮ってんの。勝手にネットに上げたりしたら口から手ェ突っ込んで胃袋引き出すから……』
「おわッ⁉︎」
画面の中の娘が『ねっ!』と怒った口調で言い切った語尾に、エレンの驚きの悲鳴が重なった。
「なんと……面妖な……」
「カメラって言ってさ、人やものの姿を見たままに記録できる機械なんだ。例えばこうやって……」
レンはトントンと画面を操作し、エレンと肩を組んだ。
「なんだいきなり⁉︎」
「いーから」
レンが前に差し出したスマートフォンがフラッシュを光らせ、パシャッと撮影したことを示す音を立てた。全く身構えていなかったエレンはフラッシュに驚き、目に焼き付いた青緑の模様を振り払おうと両手を激しく降った。
「大丈夫! ごめんエレン大丈夫だから!」
「お前な……悪ふざけも大概にしろ! いかなお前が異世界の英雄とはいえ私の我慢にも限界があるぞ! 大体、お前は私になんの恨みが……」
「ごめん! ごめんて! けどホラ、見てこれ、見て! 」
レンは感情的になりかけたエレンにスマートフォンを差し出して撮影できた自撮り画像を見せた。
「おっん……?」
何か言い掛けたのを飲み込んだのか、エレンにしては素っ頓狂な返事の声を出したきり、彼は黙り込んでスマートフォンを覗き込んだ。
「これが……私か……?」
「そ。たった今とったやつ」
「鏡で見るのと少し違うな」
「あー、なんかそう見えるよな。けど第三者……周りの人から見えてるエレンはずっとそんな感じだ。一緒に写ってる俺は、エレンが見たままの俺でしょ?」
「……確かに」
エレンは自分の顔を撫でて、画面に映る自分の画像と感じを重ねようとしたが、自分の中のイメージと画像のそれは重ねるのが難しいようだった。
「凄い道具だな。これは。王族や聖人の肖像を生き写しに一瞬で作ることができる……いや、それだけじゃない。物見に使えば見張りが見た景色や敵の様子を見たままに正確に伝えることができるし、戦や剣技の様子を写し捉えて訓練や修行に利用することもできる」
「そうだな。俺たちのいた世界では、まさに今エレンが言った通りの使い道でも使われてる。けどそれもその板の本来使い道じゃない」
「なんと……ではこの道具の本当の使い道とは?」
レンはくるっとエレンに背を向けると、二つの月が輝く夜空を見上げた。
「この世界には……ないのか? つまり、別の国や世界の裏側や……遠く離れた場所にいる相手とすぐそばにいるように、話をする魔法とかは?」
「そんな魔法は聞いたことがない。それこそさっきのエルフ娘の風の精霊魔法は離れた場所に声を届けることができると聞くが、それもどこまでもというわけでは……」
そこまで言ったエレンは何かに気付いて言葉を切った。
「まさか……その道具の本来の使い道とは……。ならば、ならばさっきお前が見ていた肖像画の、あの娘は……」
レンは振り返って笑った。
だが、その笑みには彼が初めて見せる寂しさが滲んでいた。
「気が強く見えて寂しがり屋だからな。俺が突然消えて、他人に当たったりしてなきゃいいけど」
一際冷たい夜風が二人の間をすう、と通り抜けて行った。
二人は酔っていた。
だから柱の影で息を殺して自分たちの会話に耳をそばだてる人物の存在に、全く気付いていなかった。
***
「ファムナ様! ゴーゼーン卿をお借りしたい! このままでは王国騎士の名誉が守れません!」
挨拶攻勢もひと段落し、ほっと一息ついていたファムナに片目の騎士団長ヒーグライは赤ら顔でそう迫った。
会場は宴もたけなわで、普段暮らす城中では見かけない酔っ払いたちの大きな笑い声やがなり合いに引き気味だったファムナはヒーグライの剣幕にびくりと身を縮ませた。
「何事ですか? ヒーグライ卿」
「ゴンドウ殿とうちの騎士団の連中とで腕相撲をやっておるのですが揃いも揃って不甲斐ない者ばかりで……かく言う儂もたった今負けて来たのですが」
ヒーグライはそう言うとガッハッハと笑った。
「トゥーメ・ゴーゼーン卿は怪力無双。幼少のみぎりより腕相撲不敗と聞く。どうか我々の敵を討ってくだされ!」
トゥーメを振り返ると彼女は少し困った様子だったが決して嫌がっている風には見えなかった。
「行ってお上げなさい。ゴーゼーン卿」
「姫……しかし」
「旅の間は私のことはファムナと。異界の戦士に我が国の騎士の強さを示してお上げなさい」
「畏まりましたファムナ様。宜しければ私のこともトゥーメとお呼びください」
「分かりましたトゥーメ。頑張って」
トゥーメはにこりと微笑むと一礼してヒーグライと共に奥の人の輪に入っていった。
「さあ各々方、いよいよ腕相撲の女神の御降臨だ! ゴンドウ殿も覚悟召されい。このトゥーメ・ゴーゼーン卿、城中騎士による腕相撲大会では決勝で相手の腕を折って優勝した剛の者。無理せず早めに負けないと腕を失いますぞ!」
ヒーグライの尾鰭の付いた謳い文句に場がわっと盛り上がる。
酔っ払いたちのがさつな雰囲気は好きではないが、身分や立場の隔たりなく遊びに興じるようなこの場の空気は平和の象徴のように感じられ、また何より参加者皆が心から楽しそうで、ファムナは頬を緩めた。
そう言えば他の方たちは、と会場を見回すとレンの姿は見えず、カヤタはまだ人に囲まれて質問攻めに遭っており、ゴンドウとトゥーメは腕相撲中でグリストはその輪の中でゴンドウを応援していた。
そんな中、エレンが盃を手に一人会場を出ようとしているのが目に入った。
(私も少し外の空気でも吸って来よう)
ファムナは果汁で香り付けされた冷水が入った盃を手にエレンの後を追った。
***
バルコニーに出たファムナはエレンに声を掛けようとその姿を探したが、そこにレンがいることに気付いてどきりとし、何故だか柱の影に身を隠した。
(馬鹿……別に隠れることないじゃない)
そう思い直したファムナは居住まいを正し咳払いを一つして柱の影から出ようとしたが、レンとエレンが異世界の道具を巡って言い合いを始めたので、俄かに悪戯心が湧いてそのまま隠れて二人の会話を聞くことにした。淑女であることを強いられた今までへの彼女なりの意趣返しだった。
「光る板、か。便利そうな道具だな。
我々の世界では、灯りを得るのに油を炊くか、魔法の力を借りねばならん」
「どったのエレンちゃん? 機嫌悪いね」
確かにエレンは不機嫌に見えた。だがそれが何に由来するものかファムナには分からない。
「別にいつもと変わらん。悪かったな。生来の仏頂面で」
エレンとレンの二人は歳も近く、上手く噛み合えばいいパートナーになれそうなものだが、ファムナから見ても彼らの人柄の違いは明らかで、真面目なエレンとふざけがちなレンの間にはどうも空気の違いがある。
「だが異世界の……チキューの道具も大したことはないな。その小ささで火も起こさずに灯りを得られるのは確かに便利だが、部屋一つを照らすには暗かろう。その程度の灯りなら相手や足元を照らすのがせいぜいだ」
「これ、灯りの板じゃないんだ」
「だが光っているではないか」
「絵や字を光らせて見やすくするためさ。ほら」
「おおっ。これは……肖像画か⁉︎」
「ちなみに動く」
『きゃっ、もう何撮ってんの。勝手にネットに上げたりしたら口から手ェ突っ込んで胃袋引き出すから……』
「おわッ⁉︎」
レンの手にした小さな機械から若い女の声が流れて、ファムナは、はっとした。
二人はそれからもその異世界の道具についてあれこれと話していたが、その内容はあまりファムナの中に入って来なかった。
「気が強く見えて寂しがり屋だからな。俺が突然消えて他人に当たったりしてなきゃいいけど」
ただ、レンのこの言葉だけはやけにはっきりとファムナの中に響いた。
初春の冷たい風が一陣、吹き抜けてゆく。
彼女は二人に気取られないようにバルコニーを出ると喧騒の宴の中へと戻って行った。
***
「私にはお前の考えていることが分からん」
「あー……良く言われるわ」
エレンは思い切ってレンに本音を言ったが、レンの反応はエレンの本音に理解を示すものだった。
「こちらの都合でいきなり呼び出したのは……申し訳なく思っている。すまない」
「いいって。他に手段もなかったんだろうし、いざって時に駆けつけてこそのヒーローだしな」
「私は、英雄と言うのはもっと真面目なものだと思っていた」
「権藤みたいな? そういうタイプが多いんじゃないか? 俺もうちのブルーには真面目にやれっていつも説教されてる」
「だが、戦士としてのレンに優れた面があるのも分かるのだ。お前は強く、賢い」
「装備と経験値さ。異星人のロストテクノロジーの塊は俺に無敵の力を与えてくれるし、経験的には一応さんざん色々に戦って、宿敵の宇宙帝国やっつけた直後だったんだよな。ここに呼び出されたの」
「個人としてのお前のそのふざけた人格を軽蔑したいが、戦士としてのお前には敬意を払いたい。その矛盾に私はずっと……整合を得られないでいる」
「正直だなエレン。お前のそういうとこ、好きだぜ」
そのレンの切り返しにエレンは動揺した。
「……茶化すな。そういう所の話をしている」
「茶化してない。俺の正直な気持ちさ」
見ればレンは今まで見たことないような真剣な表情で、正面から見据えられたエレンは思わず、つ、と目を逸らした。
そんなエレンの様子にレンは、ふ、と微笑むと手摺りに両手を突いて二つの月を見上げた。二つとも輝く満月だった。
「双子の月か。綺麗なもんだな」
「そっちにも月はあるのか」
「ああ。地球の月は一個だけど」
「それは……少し寂しいな」
「生まれた時からそうなんだ。二個を賑やかには感じても、一個の月を寂しいと思ったことはないよ」
「タナイスとワレカーラ。姉妹の女神が治める双子の月だ」
「へえ。きっと美人の姉妹なんだろな」
「女神に対して不敬だぞ。他に抱く感想はないのか?」
「鳥と魚っているだろ?」
「……急になんだ?」
「鳥は飛べるし、魚は幾らでも泳いでいられる。なんでそうなったと思う?」
「それは……神がそうお創りになられたからだ」
「鳥は飛べないと、魚は泳げないと、生きて行けなかったからじゃないかな」
「何が言いたい?」
「エレンは騎士だから、そりゃ不真面目の軽いノリじゃやってけないだろう。俺の生きてた国の俺の世代じゃ、逆に真面目過ぎるノリの悪い人間は生き辛いのさ」
「…………」
「俺の性格は軽蔑する。戦士としての俺は認める。それでいいじゃないか。別に最初から矛盾しちゃいないぜ。鳥と魚。住む世界が違えば生き方も違うさ。もっとも俺は、騎士としても人間としても、エルンスト・エレレナンシュタトを尊敬してるけどね」
「……その言い方は卑怯だ」
「かもな。何分にも育ちが悪いもんでさ」
へへっ、とレンが笑う。釣られて、ふ、とエレンも笑った。
「俺からも訊いてもいいか?」
「なんだ? 私に分かることか?」
「多分な。この国の王様のことなんだけど……」
レンがエレンへ質問しかけた正にその時、夜の街にドーンという爆発の音が響き渡った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます