跳躍

 グリストの前に雄叫びを上げる牛の頭の怪物がそびえ立つ。

 それは同時に彼の眼前に二つの選択肢が示された事を意味した。


 闘争か逃走か。


 だが、その選択は簡単だった。

 歴戦のペアプラム隊を全滅させ、街を区画ごと破壊し尽くすような相手だ。新人騎士のグリストがたった一人で挑み掛かるのは愚かな蛮勇に過ぎず、如何に勇気と勝利を尊ぶ騎士であってもそのような無駄死を推奨はされない。

 ジリッと足元を踏み締める。一目散に逃げ出す為に。伝令たる彼の使命はペアプラム隊の全滅と共に完了したのだ。幸い牛怪人はそんなに素早いとは思えなかった。あの武器を持って身軽な自分ほどの速さでは走れまい。

 なら後は王庭を目指して全力で──。


 だが彼の目の前で選択肢は更に増えた。

 近くの折り重なった木材の隙間から、小さな影がのそのそと這い出して来て立ち上がると、キョロキョロと辺りを見回し、か細い声を上げて泣き始めた。


 ……子供! 女の子!


 牛男も気が付いた。牛男とグリスト、牛男と子供、グリストと子供の三つの距離では、不幸なことに牛男と子供との距離が一番近いように思えた。


 どうする⁉︎

 今から駆け寄っても牛男が振るう死の一撃に間に合わないかもしれない。

 間に合ったとして何ができる? 腰に下げた剣は一般にショートソードと呼ばれる取り回しの良い小振りの剣で、家屋を叩き壊すような破壊鎚の打撃を受け止めたり受け流したりできる代物では到底ない。

 つまり。

 彼は冷徹に決断した。

 この非常事態には自分でも伝令や支援として戦力の下支えにはなる。無用な損耗は国の護りの不利に繋がる。家の事もあるし、そもそも手遅れで残念だがグリストが彼女にしてやれることはない。

(……すまない!)

 合理的な判断として、彼はこの場からの逃走を決断した。


 雄牛は再び雄叫びを上げた。

 その獰猛な響きに怯えて女児が一際高く泣き叫ぶ。


 グリストの身体は反射的に動いた。

 足元の瓦礫を力一杯に蹴って、こんもりと積み上がった廃材の山を駆け下りる。迷いはなかった。彼の身体は走る衝動そのものとなって一直線に駆けた。


 


 策など何もない。だがグリストは、たった一人怪物に怯え泣き叫ぶ少女を尻目に自分だけ逃げ出すなどできなかった。

 行っても共に殺されるしかない。だがそれでも。全く理屈に合わない。自分の死は名誉無き無駄死にかも知れない。だがそれでも。


 牛男はどすどすと泣き叫ぶ少女に近付き、今にもその破壊鎚を振るおうとしている。


 駆けながらグリスト・スコホテントトは、自分が、自分自身で考えていたよりずっと「騎士」だったのだと思った。そして熱い血と共に体内を駆け巡るその実感を、彼は誇らしく感じた。


 牛男は筋肉の隆起した腕で軽々と鎚を振り上げた。


 父上、母上、申し訳ありません。ウフーラ。兄を許せ。グリスト・スコホテントトは、今宵騎士として名も知らぬ少女と共に死ぬ!


 グリストは自分の身体を牛男と少女の間に滑り込ませると、怪物に背を向けて少女をその胸に抱え込むように屈み込んだ。その口元は意図せず笑みが浮かんでいた。不思議と恐怖は無かった。後悔も。悲しみも。こうなると魔物の武器が一瞬で命を奪うだろう威力を備えている事がむしろ幸運に思えた。


(……神よ!)


 覚悟を決めたグリストが自分と、彼の腕の中で震える小さな少女の為に祈った正にその瞬間、


 ウォオオオオオンンッッ!!!


 狼の遠吠えに似た高らかないななきと共に、何かが彼らに向かって突っ込んで来た。眩い灯が辺りを舐めるように照らした。

 風を切る音、瓦礫を踏み締める音から察するにかなりの重量の物が高速で移動しているようだった。


 それは屈み込むグリストの左手側から接近すると大きな音を立てて、背後の牛男に激しく衝突し跳ね飛ばしたようだった。

 牛男はギャイッと悲鳴を上げて少し離れた場所の瓦礫に身体を打ち付け、また短く呻いた。


 グリストは顔を上げ恐る恐る振り向いた。


 そこに居たのは二つの車輪を備えた見たこともない乗り物らしき物に跨った、つるりとした兜を被った一人の男だった。

 男は乗り物を大人しくさせ、それを降りるとつかえ棒のような物を立てて乗り物が倒れないようにした。


 黒い革の丈の短いジャケット。白い乗馬服のようなズボン。指先の切れた黒い手袋。そして真っ赤なマフラー。


 彼は飾りのないヘルムを脱ぐ。出てきたのは険しい表情の、壮年の男の顔だった。


「少女を連れて逃げたまえ。ヤツは……私が倒す」


 落ち着いた、迷いの無い声だった。


「あ、あなたは……?」

「呼び寄せたのは、君たちじゃあないのか?」

「じゃあ……じゃあ!」


 男は黙って頷いた。その表情がほんの少しふと優しくなったのをグリストは見逃さなかった。


「見ていたぞ。少年。命を顧みずにその少女を護った。君こそ真の、勇気の持ち主だ」


 グリストは言葉も無かった。ぽん、と肩に置かれた手は大きく、頼もしかった。だが。


「ヤツと戦うですって⁉︎ 無茶です! あの武器を見たでしょう? それに貴方は……剣も無ければ鎧も身に付けていない……!」

「私はそういう戦い方はしないんだ。鍛えた身体が我が鎧。磨いた技が己が武器」


 その時、瓦礫の山に埋もれるようにして倒れていた牛男が身じろぎして身体を起こした。頭を振って意識をはっきりさせようとしている。


「ビオダー……!」


 男は異様な構えを作った。

 伸ばした腕が円を描き、斜めに突き上げられてビシリと止まった。


「変身ッッッ‼︎ トゥアッッッ‼︎」


 掛け声と共に男は高く跳躍した。

 信じられない高さだった。

 空中で回転した人影が綺麗に着地すると、その姿は先程までとは全く別の物に変貌していた。

 全身は深い緑の、光沢のある厚い革のような素材のスーツに覆われていた。中央に赤い風車のある大きなベルト。髑髏のような虫のような双眸を備えた異様な造形の兜。

 そして風になびく真っ赤なマフラー。


 グリストは尋ねずにはいられない。

「あ、貴方は……一体……?」

「私の名は、権藤タケシ。またの名を……」


 名乗った男の声は堂々としていたが、どこか寂しげだった。


「仮面……ビオダー!」

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