灰塵

 グリスト・スコホテントトは走っていた。

 心臓は破れんばかりに鼓動を刻み、息をつく喉は焼けるように痛い。


 百人隊長エレレナンシュタトからの命により、西区に展開する四つの部隊に伝令して回り残りは一つ。比較的少数の敵に当たっているペアプラム隊に、撤退して戦線の再構築の旨を伝令した後は、自身もペアプラム隊と合流し共に王庭に集結する防衛隊に戻るつもりだった。


 深夜に差し掛かろうというのに、空は夕焼けのように赤い。


 鼻を突く煙の匂い。

 人気のない路地にはまだ魔王軍の姿はなく、ここだけを見るなら平穏そのものだ。

 王都の道は敢えて入り組んだ迷路のような造りになっている。攻められた際に住み慣れた人間に有利に、攻め入った敵に不利に働くようにだ。

 橋を、路地を、渡り屋の下を潜り抜けて、彼はペアプラム隊が受け持つペザントピッグ通りを目指していた。


 叙勲を受けて十日目。まさかいきなりこんな大規模な実戦に巻き込まれることになるとは想像していなかった。

 勿論、叙勲の誓いに背くつもりはない。

 国の為、民の為、正義と真実の為に、剣と己の命を捧げるその覚悟は今もこの胸にある。

 だが、同時に死ぬわけには行かない事情が彼にはあった。

 スコホテントト家は末席の騎士の家柄である。

 グリストの父、ハンプテッドは高齢で肺を病み、年を越えるのも危うい。唯一の男子である自分が死ねば、いずれ家は取り潰され、病床の父は、看病に疲れた母は、幼い妹は、今のままではいられまい。勿論悪い意味でだ。

 名を上げ、家名を立て、家族の暮らしに安定をもたらす。その為に自分が死ぬわけには行かない。

 そこまで考えた時、彼は気付いた。

 彼の左手が彼の意図を離れて硬く握り締められ、ぶるぶると激しく震えていることに。


 怖いのだ。

 美辞麗句で飾ってもなんの事はない。魔物が、その軍勢が、無慈悲な彼らになぶられて苦痛の果てに無残な死骸となるのが、怖くて怖くて仕方ないのだ。

 グリストは立ち止まり、天を仰いだ。


「あァァァッッ!!!」


 荒い息の狭間からそう一声叫ぶと彼は再び駆け出した。

 挫けるにしても務めを果たしてからだ。

 学んだ軍学に照らせば、撤退のタイミングを誤れば大きな被害が出る戦況と思えた。百人隊長エレレナンシュタトの判断は正しい。自分の伝令が遅れれば、ペアプラム隊の被害が徒らに増すかも知れない。死は怖かったが、自分の臆病で誰かが無駄死にするのは更に怖かった。彼は湧き立つ怖れを卑怯な自分になってしまう事に対する怖れへ偏向することで、走り続ける自分をなんとか維持した。


 息遣い。石畳を叩く足音。石造りの飾り屋根の付いた共同水道小屋を過ぎて煉瓦の倉庫街を抜ければ、荷運びの人足たちの下宿長屋、ペザントピッグ通り……がそこにはなかった。


 グリストは立ち尽くした。

 自分が道を間違えたのかと思ったのだ。


 一面に広がる瓦礫の山。

 下宿長屋のポータ材作りの家屋も、入り口と鐘楼を兼ねたアーチも、通りの名前の由来の妖艶なペザントピッグの精霊の像も。

 影も形もなく辺りは一様に瓦礫の山だった。

 からん、と爪先が当たって鳴った青銅の透かし彫の看板には確かにペザントピッグの名前が刻まれており、グリストは自分が道に迷ったのではない事を知った。


 見渡す先、三、四区画の建造物は何か強大な力で打ち壊され、原型を留めぬ廃材の山となって積み重なっていた。


 いや、薄闇の中に一つ、すっくと立つ影があった。

 距離があり判然とはしないが、どうやら手に何か武器を持つ鎧兜を身に付けた人のように思えた。


 グリストは駆け寄った。

 足を取る瓦礫や木材の山を掻き分けるようにして。足に力を込めてそれらを乗り越える内、足元に血の染みた箇所や人体の部品を目の当たりにして、彼はここに居た住民やペアプラム隊の多くが死んだらしい事を悟った。

 唯一の生き残りのあの戦士ならば何か事情を知っているに違いない。彼にも撤退を伝え、王庭に再編成される戦線に加わって貰わねば。

 自らに課せられた使命への責任に半ば逃避しながら、角の生えた兜の戦士目指して駆けるグリストだったが、近付くに連れて違和感を覚えた。

 それはその巨漢の戦士に起因する違和感で、一度覚えたそれは戦士との距離が縮まり、そのシルエットがより鮮明になるにつれて強さを増して、ついにグリストは瓦礫の山の上で立ち止まった。


 どうも様子がおかしい。


 まず手にした武器だ。

 剣でも槍でもない。

 長い棒の先に歪な何かの塊の付いた、見たこともない鎚?……なのか?

 あんな武器を使う騎士や民兵がいるのだろうか。

 そして兜。

 グリストの所からは横顔だが、あの戦士の兜は身体に比して大き過ぎないだろうか。

 それに兜自体が余りに精緻に動物に似過ぎている。そう、牛にそっくりだ。あんな兜があるか?

 その兜の牛の鼻に当たる部分からは湯気のような白い気体が一定のリズムで排出され、牛の眼の部分には宝玉まで嵌められてその宝玉は絶えず怪しい光を……


 から、と音を立てて足元の瓦礫が一つ位置をずらした。


 その音に兜の宝玉がギョロリとグリストの方を向く。


 いや、そうではない。

 あれが兜でないとしたら。あれが生きた頭で、あの怪人の頭部そのものだとしたら。


 その事実にグリストが戦慄して息を飲んだ瞬間、瓦礫の広場に周囲の大気を揺さぶるような甲高い牛の雄叫びが響き渡った。

 

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