第十八話
「私は右手を伸ばし、その手を一度止めた」
その最初の一行をまた翻訳し直して、私も少年と同じように手を止める。
私の手には、鮫島さんに頼んで調達してもらった新品の万年筆が握られている。鉛筆の角ばった感触とは違って、木目調の筆が肌に染みついてくる。手から離そうと思っても、なかなか離れない。
これから先、この少年は猫の腹の中を、その向こう側にある世界を覗くのだろう。
私は新たな世界を覗く少年を覗いて、私は何を得るのだろうか。いや、何かを失うのだろうか。
万年筆を握り直し、手帳と対峙する。辞書は少し距離を置いたところに置かれている。最近では辞書を開く回数も最初の翻訳と比べたらめっきり少なくなった。先生が綴る異国の言葉が、だんだんと私の一部になっていくような気分に浸る。母語ではない言語が、私の中に侵入し、私を脅かし、私の存在を作り変えていく。犯され、壊され、また象られる。
「今考えてみると、あのときなぜ一度手を止めたのか、その理由がわからない。恐怖によるものなのだろうか、過度な期待によるものなのだろうか。これまで試みて来た度重なる物語筆記による思考実験を重ねた今から見ても、腹の中を覗こうとする手が止まったのはこの一度だけだ。小腸に触れてみたいという好奇心を端緒として始まったこの行動とは別の次元で、この止まった手というものを考察する必要があるのかもしれない。人間の根源における罪の意識、つまり民族的、宗教的、社会的に構築され、人々の意識に外側から刻み込まれた人造の罪の意識とは別に、人間が先験的に所有している嫌悪感、背徳感、そして罪悪感が、あの右手にはあったのかもしれない。もう少年の頃の直感に直接触れるのは不可能であり、深くまで考察することもできない。知識と経験にまみれた私には、そのことをやはり先験的な意識を持って再現することも不可能に等しい。しかし、あの体験は確実にあったのだ。私は再び手を動かし始める。包丁で裂いた赤黒い線に手を添える。人差し指と中指を使ってうっすらとした傷をゆっくりと押し広げてみる。固まりかけて粘ついている血液が糸を引く。窓から差し込むわずかな光を反射しててらてらと中身が蠢き、輝く。そこには確実に赤の世界が存在した。私がそれまで体験したどの赤よりも、群を抜いて赤く、それでいて黒かった。蓆に膝をついて、その赤をじっと見つめる。その姿はまるで神を目の前にして跪いている敬虔な信仰者のように見えるかもしれない。神と同等に崇高であり、神と同等にグロテスクなものが確かにそこにあった。向こう側への扉を押し開いた二本の指をそのままゆっくりと差し込む。その瞬間に、私の手を暖かさが包んだ。二本の指を絡みつくように抱き締め、隈なく温かさを押しつける。行為は、小腸を直に触れたいという目的を越えたところにまで辿り着き、私を違う世界へと誘っていく」
私の目の前にいる少年は、ほんの僅かに背中を仰け反らせてそのまま天を仰ぐ。体は小刻みに震えている。
「その温かさを、手を媒介にして全身で感じ取る。そうしながら手をさらに置くまで滑り込ませていく。虫を解体するのとは、また魚を捌くのとは全く違う感覚がそこにはあった。生命を壊していく感覚はない。ただ、赤く煌めく深い沼に手を差し込み、その下に眠っているであろう神秘に手を伸ばす、そんな想いがあった。深く手をいれたつもりではあったが、実際は掌がすべて入りきらないくらいであっただろう。指の先には、柔らかいものが触れていた。つついてみると、柔らかな感触が返ってくる。体内で掌を大きく広げ、小腸を鷲掴みにした。掌全体から独特な柔らかさと、温かさがこみあげてくる。体内に指を差し込んだときよりも、さらに大きな衝撃が私を襲った。それは、極めて大きな到来であった。長年恋い焦がれていたものとの邂逅の瞬間でもあり、絶対に触れることのできないはずの、そして触れてはいけないはずの感触を支配したという達成感。私が握っていたものは、ただの小腸ではないことは厳然たる事実だった」
少年の口からは僅かに声が漏れる。あぁ、とも、うぅ、ともつかない、文字におこすことができないような呻き声。その呻き声を聴くだけ十分だった。私の耳の奥で、その艶やかとも言えるような呻き声が響き続け、頭の中で反射し、増幅されていく。
先生が紡ぐ少年の世界の中に引きこまれながらも、常に時間の流れに対して注意を払っていかなければならない。先週のように先生がこの屋敷に近づいてから部屋を離れるのは非常に危険だ。先週の翻訳の時間では手帳を丁寧に引き出しの中にしまうことができなかった。慌てて部屋を飛び出し、そのまま私の部屋に逃げ帰ったので、書斎の扉もしっかりと閉めたかどうかも定かではない。
もしかしたら、先生が何か手掛かりを掴んでしまったかもしれない。私が先生の過去を翻訳し、私たちの母語で綴り直していることの。
ただ、万年筆を動かすことをやめることができない。私が万年筆を離すことができないというよりも、万年筆が私の手から離れようとはしないような感覚。少年が感じている不気味な柔らかさとは違い、万年筆はしっかりとした堅さを誇っているものの、その筆を通じて、私の体の中に柔らかさも温かさも入り込んでくる。
少しでも目を閉じてしまうと、あの夏の日の風景から自力では帰れなくなる。外から聴こえる犬の鳴き声によってかろうじて引き戻されるところまで私は来ているのかもしれない。
だが、先生に私の行動が露見するわけにはいかない。少年の日を眺めるためにはこの屋敷で働き続けなければならない。この屋敷で働いて、先生を生かし続けなければならない。先生の生を通じて、白い猫の死に触れなければならない。
翻訳を続ければ続けるほど、先生の内面と歴史が私から遠ざかっていく。
先生を捕まえるためには、ここで立ち止まるわけにはいかない。
あの少年の甘い溜息を聴くために、筆を止めるわけにはいかないのだ。
ここで時計を見る。
もう、時間だ。
私は万年筆を手から無理矢理剥がし、手帳をまた所定の引き出しにしまう。
少年は握りしめた小腸をこの後どうするのだろうか。
そして、少年は何を思い、何を見て、何を聴くのだろうか。
それを私は見たくない。
聴きたくない。
感じたくない。
体中に嫌悪感が襲いかかる。
しかし、それと同時に何かを渇望する私が立ち現われる。
何を欲しがっているのかは私にもわからない。それは翻訳の作業を始める前と同じだ。
ただ、何かを欲しがっている私が確かにいる。
異国の言葉の向こう側に、私が渇望するものはあるのだろうか。
私も先生と同じように、好奇心という幽霊に取り憑かれた人間なのかもしれない。
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