第十六話
「家にあった生の鶏肉を手に持ち、私は外に出た。太陽が厳しく照りつける夏の日だった。土のむっとする匂いと、鶏肉の生臭い匂いが漂ってくる」
わからない単語はまだまだ多いが、何度も出てくる語は調べなくても意味を了解することはできたし、木曜日以外の日は先生が操る言語について、鮫島さんに取り寄せてもらっている参考書で勉強をしているため、翻訳するのも徐々に速くなっている。
「探そうと意識せずとも、周りを見回せばすぐに猫は見つかった。普段、意識をしていないだけに家の周りにはこんなにも猫がいたのかと驚きを隠せない。腹をさばき易いのは小さな子どもの猫だろうが、小腸を観察するという目的では、成熟した猫の小腸を観ておきたいという欲も生じる。私は道を歩きながら熟考した結果、多少の危険は伴ってでも大人の猫を選ぶことに決めた。小さな猫の腹をさばくという行為をした結果、大人にしておけばよかったと後悔はしたくなかった」
この少年に「猫を殺さなければよかった」という後悔が生じる余地はない。少年の中にあるのは、赤黒い印象だけだった。
「何匹か品定めをしたところで、一匹の猫に狙いを定めた。家から少し離れたところでだらしなく寝そべっている太った猫だ。細身の猫でもよかったのだが、素早く逃げられても厄介だし、お腹の中の腸もずっしりとした重量を持っていそうだった」
老いた少年と、丸々と太った猫が夏の空気を隔てて睨み合っている。猫の瞳は厳しく、少年が放つ鈍い眼光とは対照的だ。
「私がゆっくりと近付くと、猫は警戒して立ち上がる素振りを見せた。しかし、私が掌を開いて鶏肉を一つ前に差し出すと、すぐに警戒心を解き、その鶏肉にかぶりついた。村の人が頻繁に餌付けをしているので、猫の方も人間から餌をもらうことが習慣になっていた。鶏肉を咀嚼する音を聴きながら、私はできると確信した。私が残った鶏肉を見せながら立ち去ろうとすると、猫は丸い身体を揺らしながら私の後を追ってきた。食欲に支配され、これから起こることを一切考えずに、私の後を歩く。小さな足音を一つずつ聴く度に、私の胸の鼓動が高鳴ってくる」
少年の後を、一匹の太った猫がよちよちと追いかけている。内情を知らない人がその光景を見たら微笑ましく思うかもしれない。牧歌的であり、絵画的であり、物語を思い起こさせるそんな景色だ。
しかし、先導する少年の中身は赤黒い好奇心によって巣食われ、後を追う猫は食欲に動かされるまま処刑台へと歩いて行く。そこにはゆったりした時間の流れも、穏やかな物語もない。あるのは蠢き合う欲望だけだ。
「家を出る前に解体の準備をしておいた。家の裏にある物置の隅に小さな空間を作り、家にあった一番大きな蓆を敷き、その上に何重にも新聞紙を敷いておいた。それなら床に血液が流れることを防げる。私と猫はその空間までゆっくりと歩き、そこにあらかじめ置いておいた残りの鶏肉を猫に差し出した。猫はなんの疑問を持つこともなく鶏肉を食べた。今思えば、その光景は非常に儀式じみている。鳥の死骸と猫の身体を生贄に捧げることで、私は何かをここに召喚しようとしている。そんな光景に、今では思える」
先生も、その時の光景を不気味に思っているのだろう。それほど少年の無垢というものは貫徹されるべきものだったのだろうか。
「私は無我夢中になって鶏肉を食べている猫の首に縄をかけた。そして、渾身の力で縄の両端を引っ張った。猫は叫び声をあげながら必死に暴れる。口からはさっきまで食んでいた鶏肉の破片が飛び散り、新聞紙に落ちる。鳴き声はもう猫のものとは思えないほどに潰れて、ひしゃげたものになっていた。もはや、生物から生じるべき音ではなかった。蝉の鳴き声と、悪魔の断末魔が交互に私の耳に入り込み、脳を犯す。それでも、私は腕の力を緩めることはしなかった。縄は猫の首に深く食い込み、小さな命を吸引していく。ふと我に返ったときには、既に猫の身体は暴れることなく、ぐったりと新聞紙の上に倒れていた。目は白くなり、舌はだらりと口の端から垂れている。下半身の新聞紙は漏れた尿によって濡れている。私は、そこまで観察したところで初めて呼吸をすることを忘れていることに気がついた。大急ぎで肺に空気を取り入れようとして大きく咳こんだ。消えた咀嚼音の代りに、私の荒い呼吸音が響いた」
私は鉛筆から無理矢理手を離す。鉛筆は机の上に音を立てて転がる。その音が、私の頭を支配していた蝉の音と荒い呼吸音をどうにか掻き消す。シャツのボタンを一つ、二つ外し、部屋の空気と服の中の空気を入れ替えようとするも、どちらも湿っているため不快感は払拭されない。頭を小さく振って頭の中にはっきりと浮かび上がっている光景を忘れようとする。しかし、涎にまみれた鶏肉の破片も、猫の濁った白眼も、上下に激しく動く少年の肩も、私の頭の中から消え去ることはない。それはあまりにも鮮明であり、あまりにも私の心を深くえぐる映像だった。フィクションの中でなら、もっと露骨で、もっと暴力的な描写に触れていたはずなのに、私の心は激しく揺れ動いていた。
この文字の向こうには、数十年前の時間の流れが確実にあり、その時間の流れの中に少年は確実に存在していて、そしてその少年はこの書斎の主に直結している。その繋がりが私の中を掻き乱す。こうして猫を手にかけた張本人が、私が今座っている椅子に毎日座り、文字を紡いでいる。
まだ、先生が散歩から帰ってくるまでには時間があったが、震える指先で手帳を閉じ、引き出しの中にしまった。この状態では落ち着いて翻訳をすることなんてできない。
できるだけ机の上のものを動かさないように机から立ち上がり、駆け足で部屋を後にした。
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