第三話

 玄関のベルの音が屋敷に響き渡る。応接室でお茶の準備をしていた手を止め、小走りで玄関へと向かう。

 重厚な扉を開けると外を飛び交う二月の寒い空気の中に、瀬戸口さんが佇んでいた。

「どうも。こんにちは」

 瀬戸口さんは大きな体を少しだけ折り曲げてお辞儀をする。

「こんにちは。どうぞ、お入りください」

 私は瀬戸口さんから黒い鞄を預かり、屋敷の中に招き入れた。

「東京の方も、まだ寒いですか?」

 私は棚からスリッパを取り出し、瀬戸口さんの前へと置く。瀬戸口さんは「ありがとうございます」と、ほんのりと甘い声で言ってから右足、左足の順にスリッパに足を入れる。

「えぇ。雪はもう降りませんが、まだまだ防寒具は手離せませんね。もちろん、こちらほどではないですが」

「このまま書斎に向かわれますか? 応接間にお茶もご用意しておりますが」

「そうですね、先に先生のご様子を窺ってきます」

「わかりました。鞄をお持ちしますね」

「ありがとうございます」

 私たちは二階の書斎に向かう。

「先生は、お変わりありませんか?」

「えぇ。先月と変わることなく、原稿に向かわれています」

「そうですか。これもすべて藤沢さんのおかげです。助かります」

「いえ、私はただお掃除とお料理をしているだけなので。先生のお役に立てていることなんてこれっぽっちもありませんよ」

「そんなことありませんよ」

 私たちは書斎に辿り着くと、持っていた鞄を瀬戸口さんに渡す。柔和な表情をいつも保っている瀬戸口さんも、この書斎の前に来ると少しだけ表情が硬くなる。

 瀬戸口さんは扉を二回、ゆったりとした間を取って叩く。

 それからきっちり二秒の間をとって

「瀬戸口です。入ります」

 と、私に向けられる声とはまた違った芯のある声で言い、扉をゆっくりと開ける。瀬戸口さんの身体が、冬でも湿っている書斎の空気に絡め取られながら入っていき、扉はぱたりと閉じられた。

 それを見届けてから、私はまた一階の応接室に戻る。

 瀬戸内さんに会うといつも、私が初めてこの仕事を見つけた日のことを思い出す。

 前職の会社を辞め、やるべきこともやろうとしていたこともなく、失業保険によって生かされていたあの日、新聞の求人欄でこの館の住み込みの家事手伝いを見つけた。

 元々は東京で働いていたが、その広告に記されていた地名は東京から新幹線と在来線を使い、数時間を要する場所だった。ふと目を閉じて、私が東京を去るときに別れを惜しんでくれるような人間の顔を思い浮かべようとしたが、ただのっぺらぼうが頭に浮かぶばかりであったため、すぐに記載されていた電話番号をプッシュした。そして、後日案内された出版社で面接をしたのが、先生の担当編集者である瀬戸口さんだった。

 後になって聞いた話だが、面接とは言っても私以外に応募してくる人は結局現れなかったらしい。だから、他者と競うための面接というよりは、会って話をしてみて、ある程度の社会的常識を持つ人だったら採用するつもりだったようだ。そして、私はなんとか瀬戸口さんの人選に適い、この仕事にありつくことができた。

 私は住んでいたアパートを引き払い、家財道具もリサイクルショップに引き取ってもらい、残った僅かな衣類を詰め込んだ鞄を携えて瀬戸口さんと共に電車に乗り込んだ。赤く色づく山々を電車で切り裂きながらこの地に辿り着き、そして館の門を叩いた。

 館に入っても、私は先生と顔を合わせることはなかった。私が、ご挨拶くらいはしておいたほうがいいのでは、と言うと、瀬戸口さんは

「先生の執筆の邪魔になってはいけません。藤沢さんには、あくまで先生にとっての空気でいてほしいのです。干渉することはないけれど、先生の営みにとって必要不可欠なもの。藤沢さんには、そういう存在になっていただきたい。おわかりですね?」

と、私の目を覗きこんで言った。瀬戸口さんの深い目に、少し引きずり込まれそうになりなりながら、私はぎこちなく頷いた。

 あれから五ヶ月が経とうとしている。

 私は、先生にとっての空気のような存在になることができているのだろうか。

 私の体が先生の鼻の穴を通り、じめじめした気管支を通過し、くすんだ肺の中に入る。毛細血管から心臓に送られ、そこから先生の老いた体を私の体が駆け巡る。そして体の各所で働いて、ぼろぼろになった私はまた心臓から肺に戻り、鼻を通って湿った書斎に戻される。その一連の流れを想像してみると、私が過ごす一日の流れとほとんど一致することに気がついた。

 応接室でぼんやりとしていると、瀬戸口さんが鞄を持って入ってきた。

「お疲れさまでした」

 私はすぐに立ち上がり、机に用意しておいた紅茶をマグカップに注ぐ。

「ありがとうございます。藤沢さんが淹れた紅茶を飲むのがここに来る楽しみの一つなんですよ」

 瀬戸口さんはソファに静かに座り、鞄を床に降ろす。

「先生の原稿は受け取れましたか」

「えぇ。いつも通り、依頼した分だけの原稿用紙がきっちりと封筒に収められて窓際の机に置かれていました」

 一つ一つ丁寧な仕草でカップを手に取り、口に運ぶ。冬の淡い光に包まれた部屋で、紅茶の水面に光がちらちらと反射する。茶色く澄んだ液体は瀬戸口さんの口に注ぎこまれる。

「そうだ、これを」

 カップを置き、大きく膨らんだ鞄から二つの茶色いものを取り出し、机に置いた。一つは薄い茶封筒。もう一つは分厚い包み紙。

茶封筒の中には、今月分の私のお給料、そして包み紙には、先生の作品に対する読者たちからの意見状が入っている。先生の作品のすべてを褒め讃えるものもあれば、ありとあらゆる罵詈雑言が並んだものまで、様々な種類のものが雑多にまとめられている。

「毎月ファンレターが送られてくるなんて、すごいですね」

 私がそう言うと、瀬戸口さんは少しだけ間を開けて口を開く。

「先生の作品は衰えることを全く知りません。文壇に登場して四〇年が経とうとしていますが、作品はまだまだ初々しく、難解でもあり、しかし真に迫るものがあります。ただ、時代は確実に変化している。読者という生物は四〇年の間で変容し、求めるものも変わってきている。ほとんどの作家はその変化を敏感に察知しながら様々な作品を書きます。しかし、先生の筆は全く変わることはありません。そのせいで読者が離れていることも事実です。古めかしいと言えば聞こえはいいですが、時代遅れと言っても意味は同じです。しかし、最盛期からは減ってしまったものの、まだこれだけの意見状が届くんです」

 瀬戸口さんは少しだけ誇らしいような、それでいて先生を労わるような表情を浮かべて話す。

「瀬戸口さんは、先生の作品が好きなんですね」

「好きというのとは、また違いますね。多分、不可欠なんです」

 まるで空気のように、私は心の中で付け加えた。

「じゃあ、これもいつも通り藤沢さんに預けておきますね。紅茶、ごちそうさまでした。来月の原稿を取りに来る日程が決まり次第ご連絡させていただきますので、よろしくお願い致します」

「わかりました」

 瀬戸口さんは鞄を持って立ち上がり、応接間を後にする。私は後について玄関に向かい、帰っていく瀬戸口さんを見送る。扉が閉まるまで、私は小さくお辞儀をした。

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