第十七話
「時間をかけて呼吸を整えたところで、私は次の作業に移行した。手に食い込んでいた縄を手離し、蓆の横に置いてある包丁を手に取る。小さな窓から差し込む光が刃に反射し、私の目に飛び込む」
この部分を翻訳しながら、体内にいる私は二人に分裂し始めていた。
このまま翻訳を続けていけば、確実に猫の腹をさばく少年と出会ってしまう。手帳の中の少年の手が血に染まっていくのと同時に、筆を持つ先生の手にもじんわりと赤黒い血が滲んでくるように思えてしまう。
一方で、私の中にはその少年に逢ってみたいという衝動が確実に存在していた。目を背けたくなるような現実が待っていようと、その現実ごと、少年の存在を私の母語で私のノートに綴りたい。目を閉じると先週訳出した情景が浮かんでくる。視覚的な情報だけではなく、こもった熱い空気、荒い息遣い、猫の尿の臭いなど、あらゆる感覚が立ち現われてくる。
その情景の中にふと私の姿があった。ただ、私の体は物置の中にはいない。夏の日差しの下で立ちつくしている。物置の扉はほんの少し空いていて、そこから少年と猫の死骸がちらと見え、音や臭いがやんわりと漏れてくる。私の体の中からは心臓が高鳴る音が響き、少年の息遣いと絡み合い、夏の空気に溶けていく。
私は手を伸ばす。物置の扉の間から私は手を差し入れる。その手は届かない。その手の向こうに、少年はいる。
「死骸を仰向けに転がす。毛の少ない白い腹が露わになる。この白い膜の向こう側には、赤黒い世界が待ち受けている。白い腹を見ているうちに、私がいる世界と猫の腹の中が、どちらが内側でどちらが外側なのかがわからなくなってきた。少年だった私になんの思想的背景、信条はなかった。なんの論理に基づくことなく、不意にその考えは私の頭を訪れた。私はこの世界の中に幽閉されていて、猫の腹をこじ開けて赤黒い世界に行くのだ、と。世界が癒着しながら反転する。猫の腹は、確実にこちらの世界とあちらの世界を繋げる扉と化していた」
私が見ている少年は、右手に包丁を持ったまま視線を蓆に向け、猫の死骸を見つめているにすぎない。身じろぎすることなく、じっと見つめている。しかし、その体の中では世界が癒着し、反転している。それまで築かれてきた世界が一度壊れ、また新たな世界が創造されていく。少年は私に背中を向けているため、どんな表情をしているのかはわからない。
「私は、新しい世界への扉を開く鍵である包丁をもう一度握り直し、腰を降ろす。白い腹をゆっくりと一撫でし、そこに包丁をそっとあてる。腹の膜の柔らかい感触が包丁を伝って右手に届き、頭の中がそのしっとりとした柔らかさに浸食される。少し力をいれれば包丁が膜を押し、へこみができる。そのままゆっくりと力をいれていき、刃先を腹に食い込ませていく」
鉛筆を持つ私の右手からも猫の腹の柔らかさが伝わってくる。本来は優しく、暖かく、豊かな腹の感触も、ただぶよぶよとした不気味な感触にしか思えない。「ついに膜は決壊した。ゆっくりと力を入れていたはずが、予想に反して勢い良く包丁は腹の中へと侵入していった。刃は半分ほど腹の中に入ったところで止まる。包丁が侵入した口からは血が滲んでくる。すでに息絶えているために、出てくる血液の量は多くない。しかし、白い腹は濁った赤色によって染められていく。粘つくような血液は白い腹を伝い、薄汚れた蓆に滴り落ちる」
猫の首を絞めたときと反して物置の中には音は響かない。ただ、しゃがんだ少年が猫と向かい合っている光景しかそこにはない。
「私はそのままの格好でしばらく動くことができなかった。ただただ腹を伝う赤い血を見続けていた。膜の向こうにはさらに赤を湛えた液体と、臓物が詰まっている。そんな想像がかきたてられ、興奮と期待によって私の体は熱く熱せられていた。気温や熱い空気とは一切関係のない熱によって、私の体は火照っていたのだ」
手が震える。うまく文字が書けない。「照」の字の四つの点の向きがばらばらになっている。どの漢字も偏とつくりが噛みあわず、ひらがなもそれぞれの線がいろんな方向ににょろにょろと這い出し、私の汗でたわんだノートから逃げだす素振りを見せている。
「私は包丁を逆手に持ち替え、下腹部の方へと包丁を動かしていく。思ったよりも抵抗なく包丁は動いていく。包丁が通ったあとには、赤い筋が残る。狭い透き間から血液が滲む。三〇センチほど包丁を動かしたところでゆっくりと抜いた。腹に包まれていた刃は赤く濡れている。下に向けた刃先から血の滴が落ちる。そのまま私が履いていた靴に赤い染みを作った。息を大きく吸いこみながら、その返り血をじっと見つめた。その視線を腹に向ける。私は右手を伸ばし、」
家の外から犬の大きな鳴き声が響いてくる。
先生が帰って来た。
時計を見るといつもよりも長く書斎に居座っていることに気がつく。翻訳している時間よりも、筆を動かす手を止めて少年がいた世界で佇んでいる時間の方が長かったように思える。
あの犬が鳴いたということは先生がすでに屋敷の扉の近くにいる。いくら年老いた先生でもすぐに二階まで上がってくる。
私は乱暴に机の引き出しを開け、手帳を元の場所に押し込む。
先ほどまで頭の中を支配していた心臓が高鳴る音は、けたたましい犬の鳴き声によって掻き消されていた。
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