第一話

 柔らかいベッドから体を起こすと、朝の匂いが鼻から体内に入り込む。それと同時に痺れるような寒さが体全体を覆う。もう一度ベッドの中にもぐりこみたいという欲求をどうにか振り払って、椅子に掛けてあったカーディガンを羽織る。

 カーテンの隙間から冬の柔らかい朝日が部屋に差し込み、くすんだ白の壁を照らす。ふう、と吐く息が白くなる。

 壁に掛けてある時計は五時半を指している。この家では特に決められた起床時間はない。住み込みの家事手伝いとは言っても、厳密な仕事内容が定められているわけではなく、唯一の規則は「先生が生きて原稿を書くための最低限度のことをする」ということだけだった。だから、言ってしまえば先生の朝ご飯を作る時間に起きて、ご飯を作り、それが終われば広すぎるリビングに座ってコーヒーを飲むだけで仕事は成立してしまう。

 しかし、そういうわけにもいかなかった。広すぎる家は放置しておくと信じられない早さで朽ちていく。だから、私は毎日この時間に起き、着替えたらすぐに部屋の掃除にとりかかることにしている。

 私の居住空間として割り当てられた三階の部屋を出て、階段を降り、一階のキッチンへ向かう。広大なキッチンに据えられた巨大な冷蔵庫からチーズとハム、サニーレタスとトマト、それから調味料などを取り出し、横の棚から食パンを一枚取り出す。食パンはトースターに入れ、レタスとトマトはざっくりと切ってボールにいれる。作り置いてある玉ねぎドレッシングをかけて、サラダは完成。トースターからせり上がって来たパンに無塩バターを塗り、チーズとハムを乗せる。立派すぎるキッチンとトースト、サラダという簡素すぎる朝食が全く釣り合ってなく、滑稽に思えてくる。

 キッチンの横にある十人掛けのダイニングテーブルの一番端の席に腰掛け、小さな声で「いただきます」と呟き、一口一口朝食を摂取する。ダイニングもやはりカーテンは閉められていて、外界からの光は遮断されている。シャンデリアの仄かな光が私の質素な朝食を見詰めている。その部屋には、私が静かに咀嚼する音だけが響く。私の口の中でパンとサラダがすり潰され、混然一体となって、胃へと流し込まれていく。

 先生の家に住み込み初めて三カ月が経とうとしていた。

 両手の指では足りないくらいの部屋が家中に蔓延り、使いもしないトイレが三つもある。それらは居住をするための部屋として機能することはほとんどなく、膨大な蔵書を収納するための本棚として扱われていて、そこに埃が積もっていくだけだった。私はその埃を毎日払い続ける。

 一週間の予定は部屋の掃除で埋め尽くされている。曜日毎に掃除する部屋が決まっていて、私はひたすらに本棚の埃を払い続ける。先週の水曜日に掃除をした部屋は、次の水曜日になるとまた律儀に埃を溜めこんでいるので、またそれを払っていく。住み込みの手伝いを始めたころは、部屋の多さに途方に暮れたが、スケジュールを組み、順序良く掃除できるようになってからは楽になった。

 料理は一日二回。先生は夜ご飯を食べない。朝と昼の二食。朝ご飯は朝の十時。昼ご飯は十五時半。決まった時間に、決まった量のご飯を食べる。この時間さえ守ればそれでいい。しかし、私がこの時間を守らなくても、先生は決して文句を言わないだろう。ご飯を摂取することなく、原稿を書き続け、家と一緒に朽ち果てていくだろう。先生は、おそらくそういう人だ。

私が先生と接触するのは、一週間の中でもほんの数回しかない。先生は書斎の隣にあるトイレに行くとき、同じ階にある風呂に入るとき、そして日課の散歩以外は自分の書斎に閉じこもってひたすらに原稿と向かい合っている。風呂といっても毎日入るわけではなく、三日に一度入ればいいくらいだ。先生の部屋はいつも先生のこもった体臭で満ちている。不快な臭い、というわけではないが、やはり尋常なものではない。

 今まで働いてきた三カ月の中で先生の声を聴いたことがない。初めてことの家に来たとき、顔合わせくらいはあるだろうと思っていたのだが、先生と顔を合わせないままに働き始めてしまった。先生の声を聴く最大の機会を逸してからはそのきっかけと出会えていない。

 稀に先生の姿を目にしたとき、どんな声なのか想像をする。背中をくるんと丸めて机に向かい、皺にまみれた右手で万年筆をゆっくりと動かして文章を紡ぐ。頭皮がはっきりと見えるくらいに薄くなった頭髪や、何日も剃られていないために生え放題になっている髭など、言ってしまえばみすぼらしくもあり、そこには一流作家としての威厳というものを感じることはできない。

 手の皺と同じようにしゃがれている声、低すぎる声、高すぎる声、小さすぎる声、それらを想像してみても、先生の外見にぴたりと合う声を見つけだすことができない。そもそも、先生には声なんてないのではないか、とすら思う。失ってしまった、あるいは元から備わっていない声の代りに、万年筆を動かし続け、言葉を紡いでいるのではないか。食事を運んでから三十分後に書斎に戻ると、食べ終わった食器たちが申し訳なさそうに廊下のテーブルに佇んでいる。私はそれを持ってキッチンに戻る。

 朝食を食べ終え、使った食器を洗う。冷たい水が手にしみる。

 食器を片づけ、ダイニングのカーテンを一枚ずつ開けていく。今か今かと外で部屋に侵入するのを待ち構えていた日光たちが一斉に入ってくる。私が働き始めたころは、赤や橙に色づき始めた山々が見えていたが、暮れのこの時期ではその山も雪で白く染められている。

 私の一日がまたこうして始まっていく。

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