第十五話

「とは言え、小腸を直に触るということに対する背徳意識も持ち合わせていた。仮に人の小腸を触るためには、もちろん腹を切らなければならない。腹を切って、肉を掻き分け、光で人間の中身を照らし、その赤の色を確認しなければならない。そんなことは小学生の私にはできるはずもなかった」

 先週の木曜日に書いた訳文の続きに、また鉛筆で文字を並べていく。この一週間の間、空き時間の中で文法の勉強をしていたために、先週よりも翻訳に要する時間がほんの僅か短くなっていた。

 できるだけ忠実に、できるだけ元の文章を損なうことなく私の新しいノートに翻訳を綴るにはどうすればいいのか。そのことを常に頭に置きながら辞書を手繰り、意味を拾う。

「初めは、小腸への興味を昆虫などの解体に精を出すことで紛らわせていた。畦道で大きな蟻を捕獲しては、六本の脚、四枚の羽、頭、胴、腹と一つずつ分解し、家を出る際に母親に渡される純白のハンカチの上に理路整然に並べたりしていた。バッタをつかまえては腹をもぎ、その体液の滑らかさを感じた。誰にも知られないように、自分の目に入る昆虫は一通り解体をした。そうすれば、小腸の襞が頭の中から消え去るに違いないと信じながら、解体し続けた」

 翻訳をしながら、少年が田んぼの中で昆虫を無我夢中に解体している光景を思い浮かべた。先生がどんな土地で生まれ育ったかはわからない。しかし私の頭の中には澄み切った空と、ふわりとした白い雲、じりじりと土を照らす太陽の光、そよそよと靡く稲の葉、そんな光景が自然と頭に浮かんだ。

 ただ、そんな美しい風景の中で昆虫を解体している彼の姿は、少年としての先生のものではなく、現在のみすぼらしい老人だった。

「しかし、それは徒労に終わった。昆虫の解体を続ければ続けるほど、小腸の襞の映像は鮮明になっていく。自分が求めているものと、目の前にある現実の乖離によって、現実はどんどん小さくなり、理想がどんどん大きくなっていくばかりだった。少年の私は愕然とした。現実の世界がいかに無力であるかということを初めて悟った瞬間かもしれない」

 私は先生の中で起きる理想と現実との乖離を眺めながら、手帳の原文と私が綴る訳文の乖離を眺めていた。一方は万年筆とインクによって書かれた流麗な筆記体。もう一方は安い鉛筆で書かれた下手くそな漢字と平仮名。たとえ、二つの文章が持つ意味の量が同じだったとしても、同じ価値を持った文章であるとは言い難かった。

「そして小学五年生の夏。私は人間の代替物として、小動物の腸を観察することを決断した」

 私は、その短い文章を訳して、一度筆を置く。

 昆虫の解体は少年期によく見られる行動だと思う。その小さすぎる生命体は少年たちの好奇心と支配欲求にとっての格好の餌食になる。不条理にも親に所有され、その手から決して逃れることのできない少年たちは、その生活で蓄えた抑圧を自分と同じように抵抗ができない他者へと向ける。私にもそんな記憶が一つや二つはある。

 しかし、好奇心と支配欲の膨張は、恐怖心によって歯止めがかけられるはずである。少年たちは本能的に「おそろしいことをしようとしている」と察知し、そうして自分の身体を支配に慣れさせていく。それが人間の成長過程というものだと私は思う。

 しかし、この少年はその歯止めがうまく作動しなかった。それこそ、本能的に歯止めを効かせなかったのか、もともと歯止めが存在していなかったのかはわからない。

 この少年の好奇心が暴走しているのか。

それとも、人の小腸が彼にそうさせているのか。

 それは私にはわからないし、おそらくこの少年にもわかっていなかったのだろう。

 先生はこの文章をしたためているとき、どのように回顧していたのだろうか。

「少年時代住んでいた家の周囲には多くの猫がうろついていた。誰かが野良猫に餌をやり、あっという間に数が増えていった。そのときの私は、この中の一匹が突然消えてしまっても誰も気がつかないし、誰も傷つかない。虫をいくら解体したところで、虫から復讐されることは一度もなかったんだ、と真剣に思っていた」

 青空、緑を湛える田、木造の平屋、のんびりと歩みを進める老婆と、その周りをうろつく猫たち。私の脳内にその風景が自然と広がる。風の青臭さまでもが鼻の奥に薫ってくるようだ。

 その穏やかな空間の中心に、猫背の老人の姿をした少年が佇んでいる。

 陽炎でその醜い姿が揺らめき、風で後頭部の頭髪がそよぐ。

 醜く老いた少年のうつろな瞳が、一匹の猫を捉える。

「猫のやわらかい身体におさまっている腸を引きずり出す光景を想像すると、舌の上にぽとりと毛虫を落とされたときのような、自分では全く経験したことのない寒気が全身に走った。ナイフの煌めきや鮮血が頭の中に迸る」

 少年の身体の震えが、丸くなった鉛筆から伝わってくるようだった。

 顔をあげて時計を見ると、先生が散歩から帰ってくる時刻を差そうとしていた。

 夏が深まり、週を追うごとに気温が上昇し、風も光も通さないこの部屋の湿気はその勢力を拡大させる。湿気が結託して私の肌にじっとりと張り付き、汗が乾くことを許さない。

 分厚い手帳を閉じ、元通りの場所にしまう。

 今、先生は何を考えているのだろうか。

 道を歩きながら、また小さな猫を探して目配せをしているのだろうか。

 夏の日差しがじりじりと焼きつける道の上を、猫を探し求めて徘徊する老人を想像すると、また私の身体に先ほどのもの似た寒気が走った。

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