第二話

 先生は毎週木曜日の十三時から十五時にかけて家の周囲を散歩する。

 私が「第六書架室」と名付けた二階の部屋を掃除している間に、先生はひっそりと書斎から抜け出し、家を出る。私に気づかれないようにしているかどうかはわからないが、できるだけ物音を立てずに階段を降り、ぼろぼろになった茶色い革靴を履き、まるで繊細なガラス細工に触れるようにそっと扉を開ける。私は、その姿を時折二階の廊下からこっそりと覗いている。褐色の染みがぽつぽつとちりばめられている頭皮をじっと見ながら、先生が外に出て行くのを見届けていた。

 私は「第六書架室」の掃除を一度切り上げ、先生がいないうちに書斎の掃除を始める。先生が原稿を書いているときに私が勝手に書斎の掃除を始めても、おそらく怒ることはない。しかし、私の方が緊張してしまい、うまく掃除ができなくなる気がするので、先生が不在のこの時間を活用している。

 空になっている書斎の扉をこんこん、と二つ叩いてから入る。もちろん先生はいないから返事がくることはない。そもそも、先生が中にいたとしても返事はないのだが。

 カーテンはすべて閉じられていて部屋は暗闇に包まれている。先生は普段机に置いてある電灯をつけるのみで、部屋の灯りは使用しない。しかし、この暗闇では掃除をすることができないので、部屋の灯りをつけ、カーテンを一度すべて開ける。

 冬の昼の光がやんわりと部屋に侵入し、暗闇を排除する。すると、すべての壁に据え付けられた本棚が姿を現す。床から天井までびっしりと書籍が敷きつめられている。三ヶ月間こうして書斎の掃除をしているが、今でもこの光景には圧倒される。古書特有の甘く埃っぽい匂いが部屋いっぱいに立ちこめ、私の鼻をくすぐる。

ハンドモップを持ち、一つ一つの本棚をゆっくり撫でて行く。空気の流れが停滞しているこの部屋にも驚くべき速さで埃が堆積していく。一週間掃除をしないだけで本棚の木目が見えなくなるくらいになるほどだ。モップもあっという間に灰色に染められていく。

 先生はこの二時間の間で何を考えているのだろうか。書斎に食事を運んでいくときの先生は本を読んでいるか、原稿を書いているかという入力と出力しかしていない。二つの目で文字を摂取し、体内で形を変えて、手と筆を経由して原稿用紙に吐き出されていく。部屋に充満する滞った空気とは対照的に、先生の中には常に何かが通過し、対流している。

 しかし、散歩をしている時には文字を入力することも、紙に文字を出力することもできない。ただ二本の脚でゆっくりと前へ進むことしかできない。そのとき、先生の中では何が起こっているのだろうか。モップを動かす手を止め、目を閉じると、体内に摂取したまま、排出されることが許されない文字列が発酵し、泡を立て、気体を発生させながら他のものへと変容していくような印象が頭に浮かぶ。発酵という言葉と先生の姿が思いのほか似つかわしくあり、少しだけ私の口が綻ぶ。

 もしくは、何も考えていないのかもしれない。文字で埋め尽くされた頭を天日干しし、乾燥させ、また文字を吸収しやすいようにしているのかもしれない。とにかく、先生はこの二時間の散歩を一度も欠かしたことがなかった。雨が降っても、今日のように道を雪が埋め尽くしていても、決まった時間だけ散歩に出かける。先生にとって、この散歩の時間が必要不可欠であることは間違いない。

 本棚の埃払いはあらかた終了し、最後に先生の机の掃除にとりかかる。と言っても、机の上に置いてあるものに無暗に触れるわけにもいかない。乱雑に置かれている様々な作家の全集などは表紙をモップで僅かに撫で、筆などにも触れずに何も置かれていない場所のみを静かに払った。

 そのとき、見慣れないものが目についた。

 端がよれた、茶色の革張りの分厚い手帳。茶色はくすみ、その手帳の古さを窺わせる。机に放置されている書籍は毎週違うものに変わる。しかし、中でもその手帳は異彩を放っていた。この三カ月の生活の中で初めて見たものだった。

 書斎の中にあるものだけではなく、すべての書架室にある本には題名が付されている。しかし、この手帳だけは題名が付されていない。名前を持っている人間の中で、ぽつりと名前を持たずに宙ぶらりんになっている人物のような寂しさと孤独を放ちながら、机の隅で静かに横たわっている。

 手帳ということは、先生の予定などが書かれているのだろうか。原稿の締切や、瀬戸口さんの来訪などを書き留めているのかもしれない。しかし、予定を細かく書き留めることで将来の見通しを立たせるという行為と先生の存在がとても結び付けられなかった。先生には昔も未来もない。先生にあるのは目の前の原稿用紙と囲まれた本だけだ。

 手帳の古さからみると、長年使用しているものなのだろうか。中に何が書いてあるのか、想像することはできない。だからといって、開いてみるわけにはいかない。

 私はその手帳から視線を外し、掃除に再びとりかかる。先生がそろそろ帰ってきてしまう。

 なんとか時間までに掃除を終わらせ、静かに書斎を出て行き、さっき掃除を中断してしまった「第六書架室」へと戻る。

 明後日には瀬戸口さんが来る。応接間の掃除と、お茶菓子を用意しないといけない。

 そんなことを考えている頭の片隅には、くたびれた革の表紙がうっすらと残っていた。

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