犬を葬るとき
神楽坂
第十四話
「小学生の頃の私は、どうしたら小腸に直接触れることができるかということだけを考えていた」
私は、最初の一行を訳したところで鉛筆を置き、まだ余白で埋め尽くされているノートに不意に現れた「小腸」という言葉をじっと見つめた。
分厚いカーテンは閉じられ、部屋には仄暗さが広がっている。壁には厳めしい造りの本棚が佇み、その中に詰め
込まれている重厚な書籍たちが、椅子に座る私を監視している。それらの重圧に気圧されそうになりながら、また鉛筆を握り直し、辞書を手繰る。
父親、書斎、図鑑、写真、窓、光、穏やか、襞、湿り気、恐怖、触る、欲求、湧く、それらの言葉を一つずつ拾い上げていく。私の知らない文字列が、見慣れた言葉に置き換えられていく。同時に文法の解説書を見ながら言葉たちを繋げ、文章を組み立てていく。
「父親の書斎にあった図鑑の写真が窓から差し込む光に照らされていた。小腸の襞を包む湿り気は私に恐怖心を植え付けた。しかし、怖いという感情が湧きあがってくるのと同時に、その襞に触りたいという欲求も湧きあがってきたのだった」
これだけの文章を訳すにも相当の時間を要する。言葉を繋げては綻びを見つけ、その出来そこないの文章を消しゴムでごしごしと消し、また組み合わせを変えて、そこに並べる。やっと文章らしくなったように見えても、果たして手帳に書かれている得体の知れない文章を正確に訳し取れているのかどうかもわからない。
先生の少年時代の容姿を思い浮かべることはできない。ごく稀に見る髭にまみれた顔には、子どものころの面影は一切読みとれないし、その想像を拒絶させる。俯きがちな目や、私よりも僅かに低い背、前に迫り出しているお腹は、老いをまざまざと象徴し、この男は生まれたときからこの姿だったのではないか、とすら思ってしまう。
しかし、先生にも確実に少年時代が存在した。そして、その少年は小腸の襞に誘惑されていたのだ。
「その赤い腸にはどこか美しさを秘めているように私の目には映った。輝く襞はどんな赤よりも生々しく、瑞々しい。恐怖と隣り合わせになっている美に酔いしれている私もそこにいたのかもしれない」
私は鉛筆を置いて額に浮かんだ汗を掌で拭う。六月の湿気を多く含んだ空気が床に沈殿し、足元からじっとりとした熱がゆっくりと伝わってくる。スリッパの中に収まっている足にも汗が滲んでいる。それに追い打ちをかけるかのように、手帳の中の先生が私の精神を圧迫することで、呼吸も苦しくなってくる。私はエプロンの中に着ているポロシャツのボタンを一つだけ外した。ポロシャツの中から蒸れた汗のにおいがたちのぼってくる。
「やはり恐怖と好奇心は同一のものなのだろうか。怖いと思えば思うほどその怖いものが見てみたくなる。触ってみたくなる。図鑑を閉じてみても、私の網膜には小腸の姿が焼きついていた。気がつけばその写真に向かって手を伸ばしていた。あの湿り気はどのような温もりを持っているのか、あの襞の固さと柔らかさはどの程度の均衡を保っているのか。あの赤色の美しさは肉眼にはどう映るのか。そのような好奇心が次々と湧いて出てきた。そのときの私にはそれらを止めるための手段を持っていなかった」
いつのまにか辞書を手繰る掌にも汗が滲み、辞書の薄いページが指の腹に張り付く。指を紙から離すと「腐る」という動詞を意味する言葉が顔を覗かせた。
翻訳をするという作業がこんなにも体力を要するものだとは思わなかった。母語以外の言語を訳すということは高校生の英語の授業以来のことであったし、それ以来十数年は母語以外の言葉に触れていない。
筆記体で書かれた言葉がどの文字で構成されているかを調べ、知らない単語の意味を探り、自分の中にその意味を一度取り入れ、ノートの上に文章を吐きだしていく。その作業は精神にも、身体にも負荷をかけた。
ここまでにしよう、と私は思い、ノートを閉じ、鉛筆をペンケースにしまった。
分厚いノートも一緒に閉じ、その表紙をじっと眺める。
茶色の革張りの表紙。作られてから大分時が経っているのだろう。その茶色はくすみ、ところどころよれている。表紙の端では糸がほつれて、隙間が生じている。まるでこの手帳も持ち主と同じ早さで老いているかのように感じた。
私は周りに佇んでいる本棚と同じように厳めしい机の一番下の引き出しをゆっくりと開け、手帳を元にあったところに収納した。手帳は分厚い書籍たちの間にすっぽりと収まり、また呼吸を始めた。
腕時計を見ると、この部屋に入ってからすでに一時間半が経過していた。そろそろ先生が帰ってくる。なるべく私がいた痕跡が残らないように、ゆっくりと革張りの椅子から立ち上がり、部屋を後にした。
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