第八話

 先生の内面を読むためには、先生が書いたものを読むしかない。

 瀬戸口さんの言葉が私の頭の中をぐるぐると回り続ける。

 私という存在をどう規定しているのか、私が作っている料理をどのように味わっているのか、私は先生を通してどのような存在へと変わっていっているのか。

 それらの疑問を解き明かすためには、先生が書いたものを紐解く必要がある。しかし、瀬戸口さんを通じて世間に公表されてしまっているものを読んでも意味はない。そんな一般化されてしまった文章に価値などない。私は私だからこそ読める文章を手に入れたかった。先生の体に一番近い場所にいる、私しか触れることのできない文章。

 どれだけ乱雑な書き残しでもいい、どれだけ複雑な物語の設計図でもいい。誰の目にも触れていない、私と先生だけの文章が欲しい。

 木曜日を迎え、先生が散歩に出かけたのを見計らって先生の部屋に入った。

 じめじめとした空気は相変わらずそこに横たわっている。

 壁に並ぶ先生の著作には目もくれず、机の周辺を漁る。しかし、設計図はおろか、メモすらも残っていない。机の上には裏返しになっている原稿用紙と、無造作に置かれた万年筆。そして煌々と灯ったままの電灯だけがある。先生は一体何をモチベーションにして物語を書き続けているのか。どのように物語を構築しているのか、私には全くわからない。

 そのとき、ふと私の頭を過った映像があった。

 くすんだ茶色。古ぼけた革張りの表紙。分厚い手帳。

 その姿を思い出したのと同時に、私は机の引き出しを開けていた。

 上から順番に引き出しを開けていき、一番下の引き出しをあけると、分厚い書籍の間に、その手帳はあった。薄汚れた体を、申し訳なさそうに隠しながらそこに佇んでいた。

 私はおそるおそるその手帳に手を伸ばす。

 手には汗が滲んでいるのを感じる。

 息遣いは荒くなり、心臓は高鳴る。

 指先が手帳に触れる。汗が指を伝って革へ染み込んでいく。

 薄暗い視界がわずかに揺れる。

 分厚い本に挟まって収納されているその手帳を引き抜く。

 紛れもなく、私があのときに見た、古びた手帳だった。

 瀬戸口さんの忘れ物ということはないだろう。間違いなく、先生の所有物だ。

 罪悪感に苛まれながらも、その手帳をゆっくりと開いた。

 そこには、私の知らない言語がびっしりと並んでいた。

 一度も改行されることなく、所狭しと文字が詰め込まれている。紙の端はよれていて、インクも薄くなり始めている。書かれたのが最近のことではないのがすぐにわかる。

 しかも、日本語の文章ではない。先生が小説で使ってる言語は日本語のはずだ。瀬戸口さんが翻訳の話をしていたのも聞いたことはないし、先生が外国語を話すという情報も告げられたことはない。

 私は一つ、生ぬるい唾をごくりと飲み込む。

 今の私には、この文章を読むことはできない。まずなんの言語なのかすらもわからない。私は手帳をゆっくりと閉じ、あったところに静かに戻す。

 その手帳をしばらく眺めてから、私は立ち上がり、掃除を開始する。

 本棚の埃を取り払い、床を雑巾で磨く。

 そうしている間にも、あの理解不能の文字列をどうすれば解読できるかどうかを考えていた。

 あの中に、私が求めている先生の内面がある。

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