第二十一話

「その日から私は私の中にいる大蛇を常に意識するようになった。食事を摂る度に、自分の摂った食物が底なし沼を通り抜けて大口を開けて待ち受ける蛇に食いつくされる印象が頭の中を駆け巡るようになる。生きるための行為が、巨大な恐怖に直結する。大蛇の存在を意識してしまうのは自分だけではない。自分の親と言葉を交わすときも、親の中に巣食う蛇を思い起こしてしまう。この世界に産み落とされるときに通ってきた母親の産道すらも醜い蛇の印象と重ねてしまう。この体も元々はグロテスクな道を通って産まれてきたのだ。どれだけ美しい言葉を聴いても、どれだけ流麗な文学を読んでも、どれだけ色彩豊かな絵画に出会っても、どれだけ芳醇な旋律を耳にしても、その向こう側には醜いものが見えてしまう。もうどうすることもできなかった。気がつけば私は学校に行くことも辞め、両親とも会話をしなくなっていた。そして、私は筆を持った。筆を持ち、文字を吐きだし続けた。自分が持てるすべての罵詈雑言を原稿用紙に殴り書いた。自分が知り得る残酷な行為をすべて原稿用紙に再現した。自分が理解した生物の醜さをすべて原稿用紙に模写した。物語を編み、壊し、また創りあげ、また破壊する。自分が抱える、そしてこの世が抱えるグロテスクから逃れるためには、自らの産み出すグロテスクに溺れるしかなかった。文字は偽物であり、物語は虚構であり、そこに真理はない。しかし、真理であると思いこむことはできる。文学の中で猫を殺し、腸を引きずり出し、みじん切りにして自分の口に含んで噛み砕き、そして体の中の大蛇に与える。共食いだ。罪深き生物には、自分と同じ体を食べさせるしかない。人間が人間の肉を喰らうことが禁忌と思われているのと同じように、大蛇には大蛇を喰わせるという禁忌を犯させるのだ。文学の中で大蛇は裁かれ、葬られていく。そのように私はひたすらに文章を排泄することに打ち込み続けた。書くことに疲れれば本を開いて文字を摂取し、また原稿用紙に排泄していく。その繰り返しの日々だった。原稿用紙は高く積み上げられ、荒唐無稽な物語は編み続けられた。何を思ったか、あるとき両親が勝手に私の原稿用紙の束を東京にある出版社を送り付けたことがきっかけになり、文学、とも言えないような私の文字群は、とある文学雑誌に掲載されるようになった。私にとっては誰かのために書いているのではなく、紛れもなく私のために書き続けている。自分が書いた文章を読み返すことはない。原稿用紙を一マス埋め、次の一マスを埋めたときには前の一マスは私にとってなんの価値もないものになっている。書いたことに価値はない。書き続けることに価値がある。罵り続け、殺し続けた。しかし、私を取り巻く現実は払拭されることはない。むしろ、私が現実を虚構として排泄すればするほど私の背中には現実が重たくのしかかってくる。私は書くことをやめるわけにはいかないが、書くことで現実の存在感は増していく。私の文章は世の中に拡散され、様々な人間が読み、陶酔し、感嘆し、私に賞賛の声を浴びせ、あるいは激怒し、悲嘆し、私に罵詈雑言を浴びせる。部屋の片隅に積まれた封書には私に向けられたあらゆる言葉が並べられている。私はそのすべてに目を通した。その中に現実を払拭してくれる言葉があるかもしれない。グロテスクを忘れさせてくれる言葉があるかもしれない。そんな僅かな希望を持って封書を開け続けたが、ついには解放の鍵を持った言葉に出会うことはなかった。私の現実を私と同じように受容できる他者はいない。そんなことはわかりきっていることだった。私はすべてを諦めながらも、私は言葉を紡ぐしかなかった。私はいつ解放されるのだろうか。私の体はいつ純粋な美しさにどっぷりと浸かることができるのか。私がこの長い時間で文章に表現したかったことはただ一つ、『解き放ってくれ』、これだけだった」

 私はノートを閉じ、先生の手帳を元あった場所にしまう。

 書斎を出て、自分の部屋に戻り、手に持ったままの万年筆で、明日鮫島さんに渡そうと思っていたメモ帳に「ロープ、ビニールシート、鋸」と記した。

 外からは、館の主の帰還を告げる番犬の鳴き声が響く。

 私はメモに書いた凶器の名詞を見つめながら、犬の鳴き声をしっかりと聴いた。

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