第七話

「いらっしゃい」

 鮫島さんの優しい声が店内に響く。

「ちゃんと用意できてるよ」

 鮫島さんが自慢げに広げてくるバスケットの中にはイベリコ豚の燻製、パイン酢、チャイブ、鶏の睾丸などの食材が詰まっている。本当にどんなものであっても鮫島さんは三日の間にすべて揃えて私に提供してくれる。この珍しい食材たちは、先生のコレクションの中にあるレシピ本を参考に調理されていく。「第二書架室」の窓際の本棚にはありとあらゆる料理のレシピ本が並んでいる。作品の資料なのだろうか、先生がその資料を眺めている姿は想像に難かった。

「こんな食材、東京でも見たことないです」

 私は素直に感嘆の声をあげる。

「集めるのが難しいってわかってるんだったら頼まないでくれると助かるんだけど」

 鮫島さんは苦笑いを浮かべながら私の声に応える。

「ごめんなさい、感心しちゃって、つい」

「ま、これが仕事だからいいんだけどさ」

 鮫島さんはレジのすぐ横にある木でできた椅子に腰かけて蓋の空いたラムネの瓶を手に取り、ぐいと一口飲んだ。

 もしかしたら、この地にすっかり訪れてしまった春も、この村の誰かが鮫島さんに「春」を頼んだことで鮫島さんが用意してくれたものなのではないか、と思ってしまう。先月までしんしんと降っていた雪だって、これから訪れるであろう夏の日差しだって、鮫島さんはなんなく取り寄せてしまうのかもしれない。

「鮫島さんは、この土地の人なんですか?」

「いいや。生まれはもっと南の土地。十七のときに自分の故郷を飛び出して、そこからは全国を転々としながらこんなよろづ屋みたいな仕事しながら生きてるって感じだね」

「放浪の旅人みたいですね」

「まぁそんなところかな。大体一つの土地に二年くらい留まってるけど」

「今までは、どんな場所にいたんですか?」

「私の歴史を話すには昼は明るすぎるし、夜は短すぎるかな」

 鮫島さんは少しいたずらっぽい笑みを浮かべて私を見つめる。

「藤沢さんはどうしてこの地に来ようと思ったのさ。東京から来たんでしょ? 東京だったらいくらでも仕事は探せそうなものなのに」

 鮫島さんはラムネのビンをレジ台に置く。

「その事情を話すには、昼は長すぎるし、夜は暗すぎますね」

 私と鮫島さんはささやかに笑い合う。擦れるように口から出てくる私たちの小さな笑い声は「山の食堂」の中に吹き流れる風に乗ってどこかに消えていく。

「ただ、旅をする理由ははっきりしてる」

 鮫島さんは視線を店の外に向けて言う。

「いろんな土地の空気を吸いたいのさ。その土地ごとの空気は、そこに住む人間を形作っていく。吸っている空気、食べているもの、飲んでいる液体、交わす言葉によって人間っていうのは書きかえられていく。考えて何かを産み出すことでは人は変わることはできない。人間が変わるのは、外部から何かを摂取することでしかできないのさ」

 鮫島さんの瞳には、ほんのりと灰色が混じっている。屈折して外から届いた春の光が、灰色の瞳をじわじわと輝かせている。

「そうやって自分が変わっていくのが好きでね。いろんな場所の空気と食べ物を食べながら、どんな風にあたしが変わっていくのかを観察してるんだ。そんなことしてたら、いつの間にか白髪のおばあちゃんになってたけどね」

 人が変わるには、外部から何かを摂取するしかない。

 その鮫島さんの言葉が私の体にすっと染み込んでいく。

「私も、この土地に来て変わったのでしょうか」

「さぁ。それがわかるのは自分だけなんじゃないかねぇ」

 私は何か変わりつつあるのだろうか。

 私の網膜に焼き付いたあのコンロの焔は、灰と化した先生への言葉たちは、私の変化の証拠なのだろうか。

「とにかく、あたしは藤沢さんにしてあげられることは、藤沢さんが頼んだものを淡々と揃えることくらいだよ。それが、どんなものであってもね」

 鮫島さんは言う。

 私を真っ直ぐ見て言う。

 鮫島さんの柔らかそうな白髪が、いきいきとした四月の春風にくすぐられてふわりと浮かんだ。

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