第二十話

 猛威をふるった夏が傾き初め、この土地にまた秋が忍び寄ろうとしている。

 私がこの土地に初めて訪れたのも秋だった。

 仕事を始めたころの私は、こんな秘め事をしながら生活をすることはもちろん予想していなかった。初々しい不安と、幾ばくかの解放感を享受していただけだ。

 この書斎にはそんな私の初々しさや季節がもたらす円環する時間など関係ない。

 隔絶された世界、独立した国家だ。

 私は翻訳に溺れながらも、書斎の掃除だけは怠らない。

 翻訳する前の十五分は必ず書斎の清掃に充てている。この書斎を穢すわけにはいかない。先生が小説を紡ぎ続けるためには、この部屋の陰鬱な清潔さと、身勝手な湿り気と、耳を覆いたくなるような静けさと、胃の中まで到達する臭いを保ち続けなければならない。掃除と、食事。それが私の役目だ。

 先生の書斎にいる時間と、料理を作っている時間以外はすべて語学の研究のために費やしている。鮫島さんに頼んで先生が駆使する言語に関するありとあらゆる書物を手に入れ、単語はもちろん、文法をも研究していた。一般的な文章を翻訳するだけなら辞書はもう要らず、私はすでにその言葉で文章を書けるほどにまでなっていた。

 こんなに外国語の勉強に時間を費やしたのは生まれて初めてだ。いや、勉強をしようなどとは思っていない。生きるために必要なものを摂取したにすぎない。それは食事と同じだ。

 その代償は書斎以外の部屋の荒廃という形で姿を見せた。

 階段の手摺には何層もの埃が堆積し、廊下に敷かれた毛の長いカーペットには大きな昆虫が絡まったまま絶命している。電灯にはところどころ蜘蛛の巣が張り巡らされ、何日も開けっぱなしになっている窓のすぐ下には雨の染みや腐った木の葉が散乱している。

 私はそれらの荒廃を目にしながら生活する。

 私が新たな言語を摂取、習得し、その絞り滓や排泄物のようなその荒廃たちを愛でる。

 そして、私は万年筆を手にとる。

「近代は理性の勝利の時代だった。自然と人間を対置し、人間の理性、感受性で自然を愛し、そして破壊する。すべては人間の理性が中心であり、無味乾燥な世界が彩り鮮やかで素晴らしく映るのも、本質的には虚無な世界に意味が付与されるのも、すべては人間の理性があるからだ。しかし、その理性を生みだす人間の体は、こんなグロテスクなものによって動かされている。人間はそのことを忘れている。最も忌避すべきものが最も素晴らしいものの根源となっているということを忘れている。いや、忘れているのではない、目を背けているのだ。動物を屠殺し、野菜の遺伝子を操作して栽培し、それらを調理して歯ですりつぶして摂取することの汚さも、そのぐしゃぐしゃに磨り潰されたものがどんな得体の知れない物体によって吸収され、自分の美しい良識の源となっているかということも、人間は見ようとはしないのだ。私は猫の腸と対面することで、そのことを直感した。自分たち人間の生というのは人間が最も忌み嫌うもので成り立っているのだ、ということを。写真だけではそれを直感するには至らなかった。そこにあったのはただの赤いインクの染みであり、腸ではない。偽物の腸の写真から受け取った美しさなど、偽物の美しさでしかなく、写真から感受したグロテスクさと今目の前にあるグロテスクさは全く違うものであった。前者のグロテスクさの根本には死の恐怖があり、目の前のグロテスクさには生への恐怖がある。私の腹の中にもこのおぞましい大蛇が巣食い、私が摂取した食物を横取りしているのだ、そんな空想にさえ駆られた。そこで初めて体が震えた。手が震え、包丁が手から毀れ、くるりと回転し猫の白い腹にさくりと突き立てられた。その瞬間、私は自分の生というものに恐怖するようになった。自分がどれだけ知識を詰め込んでも、どんな尊い経験をしても、どれだけ良識を磨いても、体内に巣食っている大蛇を駆逐することはできない。大蛇だけではない。私は他の臓器へも想いを巡らし始める。大腸も同じように大蛇に感じられる。肺はいつか爆発しかねない危うい風船、胃袋は人を骨の髄までどろどろに溶かしてしまう底なし沼、そして、皺と溝が覆い尽くしている、脳。それらも私にとっては忌避すべきものになった。生の根源は、グロテスクなのだ。良識が神に与えられる前から、臓器を備えてこの世に生を受ける。この世に生まれた瞬間から、グロテスクを体に宿している。そのことが、私の頭にこびりついた」

 少年が、私の目の前で蹲った。少年の体は小刻みに震えている。

「私は震える手で蓆をぐるぐると巻いて、猫の死骸を包みこんだ。蓆から飛び出ている藁が腸に突き刺さる感触が薄い蓆から掌に伝わってくる。包丁も一緒に蓆に包みこむ。私は物置の倉庫から出て、入口の横に置いてあった鍬を持って倉庫の裏手に回る。私は倉庫の屋根の影の中で一心不乱に鍬を振り下ろし続けた。何かを破壊するように、何かをばらばらにするように。非力な私の腕の力では少しずつしか土を掘り起こすことはできない。それでも、何回も何回も鍬を振り下ろした。何時間が経過したのだろうか、猫の死骸を埋めるだけの穴を穿つことができた。夏の気温もあり、猫の死体が腐ることは当時の私でも容易に予想できたが、この辺りではよく猫が野垂れ死にしていたので、腐乱臭が鼻に届くことはしばしばあった。それほど気にする必要はない。私は倉庫からグロテスクを梱包した蓆を運び出し、穴の中にそっと横たえた。そして、掘りおこした土をその上にかけていく。しかし、どれだけ土をかけても腸が湛えているグロテスクを覆い隠すことはできなかった。それは既に私の体内に浸食し、私と一体となっている。猫と私の物理的な距離をどれだけ離したところで、巨大な生の恐怖から私を引き離すことはできない。私は絶望したままに猫が完全に埋まった土を眺めた。その土の中には、私の体が埋まっているような気がしてならなかった」

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