第六話
「瀬戸口さんは、いつ頃から先生の編集担当を務めているんですか?」
三月の到来と同時に、本格的にこの地にも春が訪れた。
木の枝についた小さな蕾はだんだんと膨らみ、鳥のさえずりがどこからともなく聴こえてくる。気温こそまだ低いものの、これから繰り広げられていく春の彩りを予感させる日々を実感できるようになった。
今月も瀬戸口さんはこの地を訪れ、先生の原稿を受け取り、私が淹れる紅茶に口をつける。少し伏せられた目から覗くまつ毛に見入りながら、私は質問を投げかけた。
「かれこれ五年になりますか。前任の担当が定年退職したために、その後任として僕が入る形になりました」
「じゃあ、かなりご高齢の方が担当だったんですね」
「えぇ。先生と同じくらいの年齢です」
瀬戸口さんは右手で持っていた派手なカップをゆっくりとソーサーに置く。
「その担当の方も非常に変わった方でして。先生もああいう方ですから、並みの編集者では担当できなかったようですね。僕は残念ながら平平凡凡とした編集者ですが」
苦笑いを浮かべながら瀬戸口さんは言う。
「瀬戸口さんが担当になられたときには、先生はここに?」
「えぇ。もうこの地に移ってきたのは三〇年ほど前のことのようですね。それまでは東京に住まいを構えて執筆してらっしゃったそうですが、この屋敷を買って移住したようです」
「もうその当時から、私のようなお手伝いさんはいたのでしょうか」
「どうなんでしょう。私が就く少し前にはすでにいらっしゃいましたね」
「どんな方だったんでしょう」
「実を言うと、僕が編集担当を勤めてきた五年の間にもお手伝いさんは何人も代っているんですよ」
瀬戸口さんは少し躊躇してからそう言った。
「そうなんですか?」
「えぇ。藤沢さんにこういう話をするのはあまりよくないのかもしれませんが。この薄暗い屋敷の中で毎日休みなく仕事をこなさなくてはならないけど、そこで得てしまった心的な負担を発散する娯楽が周りにはない。きっちりとした収入を得ることはできるけど、それを消費することもままならない。そんな生活にすぐに音をあげてしまうんです。初めはこの屋敷が持つ異国的な雰囲気に魅了される方もいたのですが、やはりこういう場所は一年に一度遊びにくるから良いのであって、毎日住むような場所でない、と言って出ていってしまいました。中には二週間で屋敷を飛び出した方もいました」
瀬戸口さんの淡々とした口調に耳を傾けながら私は自分の仕事ぶり、毎日の充実ぶりを思い返してみる。確かに、この屋敷を支配するのは音や光ではなく、静寂と陰翳だ。私が家事をするときに生じる微かな音が静寂を際立たせ、カーテンの隙間から入り込む僅かな光がこの屋敷の薄暗さを強調する。話す人も非常に限られている。今の私も三日に一度会う鮫島さんと、一ケ月に一度会う瀬戸口さんしか会話をしていない。
ただ、不思議と私の中に不満が押し寄せてくることはなかった。最初はこの仕事をうまくこなせるかどうかという不安はあったものの、自分の仕事の型が定まってからは、そのような心的な負荷がかかることは少ない。過去に味わった都会での暮らしの窮屈さから解放されたからなのだろうか、いや、おそらく違う。
「藤沢さんの前任のお手伝いさんが突然辞めてしまいまして、後任を探しながら、会社の人間が交代しながら先生の食事などを用意していたんです」
「瀬戸口さんも料理を?」
「えぇ。普段は妻に料理を任せきりになっていたことがこんなところで仇となるとは思いませんでした」
照れたような笑みを浮かべながら瀬戸口さんは言う。私が毎日先生への食事を用意している広いキッチンで瀬戸口さんが慣れない手つきで料理しているところを想像して少しくすぐったいような気持ちが湧いてきた。
「だから、藤沢さんが見つかったときは本当に助かりましたよ」
そう、今は私の料理だけを先生は食べている。
他の誰のものでもない。瀬戸口さんのものでもない。
私の料理だけを食べて、先生は言葉を紡いでいる。
先生の言葉の源は、私の料理だ。
「先生は私のようなお手伝いを、どのように思っているのでしょう」
瀬戸口さんは少し怪訝な表情になる。
「いや、時々ふと思うんです。つまらないことなんですけどね」
私が繕うように言うと、瀬戸口さんはカップを取って紅茶を飲み、またゆっくりと元に戻す。
「先生の内面は私にはわかりません。先生を理解できる手掛かりは、先生が書く原稿のみです。もう他者と直接会話を交わすこともなくなり、エッセイや書評も書くことをなくひたすらにフィクションを紡ぎ出し続けています。だから、先生の中にある何者かを紐解くには先生が書いたものを読むしかない」
瀬戸口さんは視線をテーブルに落としながら、一つ一つの言葉をゆっくりと肺の中から取り出して並べる。慎重に、落ち着いた調子で、そして、理路整然に。紅茶で濡れた唇に、カーテンから僅かに侵入する春の日差しが照り、艶を出す。
「ただ、文章をいくら丹念に読んでも、先生の内面に到達することは絶対にできない。まるでアキレスと亀みたいに。作家が書いたものを読んだからといって、作家の中身がすべてわかるわけではないんです。今、先生が書いている小説にはお手伝いさんは出てこないし、むしろ、女性が徹底的に虐げられる様も書かれています。だからといって、先生が藤沢さんのことをないがしろにしたり、蔑んだ視線を向けていると判断することはできない」
人間が自分のことを直截言葉で表現したところで、それが真実であることは全くないですが、と瀬戸口さんは付け加えた。
「少なくとも、僕は藤沢さんに非常に感謝しています。本当によくやってくれています。僕の知る限り、屋敷をここまで綺麗に保存してくれているお手伝いさんは過去にいません。ありがとうございます。僕の言葉ではなんの足しにはならないかもしれませんが」
そう言って、小さく頭を下げる。
「とんでもないです。充実していますから」
「なによりです」
瀬戸口さんは鞄の中から毎月同様、薄い封筒と、分厚い包み紙を取り出す。
「では、読者からの手紙はいつも通り先生の書斎に届けておいてください。ごちそうさまでした。また、来月もよろしくお願いします」
瀬戸口さんは鞄を携えて立ち上がる。私は後ろについて玄関まで見送る。
爽やかながらも艶やかな笑顔を残して、瀬戸口さんは扉の向こうの春の中に消えていった。
扉が閉まると、またこの屋敷の中は春から隔絶される。
私は応接間に戻り、テーブルの上に置いてあった包み紙を手に取る。先生への手紙の束だ。
そのまま応接間を出て、キッチンへと移動する。
私はガスコンロの前に立ち、調理器具を何も乗せないままに、強火で点火する。
青白い焔が立ち上り、私の網膜に焼きつく。
眉間に熱が集まる。ガスが燃焼する臭いが鼻をつく。
先生の文章の源となるものを暖める焔。
先生と私の媒介となるもの。
私は、その焔に手紙の束をくべた。
手紙はぱちぱちと爆ぜる音を立てながら小さくなっていく。
そこに綴られていた言葉たちが、一つずつ黒い灰となっていく。
先生に届くはずだった言葉たちが、焼け死んでいく。
燃える。爆ぜる。そして、消えていく。
私はその光景をじっと眺める。
これで、不純な言葉が先生の中を犯すことはない。
コンロの火を消し、言葉たちの死骸をそのままにして、私はキッチンを後にした。
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