第十九話
翻訳を開始してから一ケ月も経過すると、私の中にも異国の語彙が蓄えられてきた。
小腸はもちろん、胃、十二指腸、膵臓、脾臓、盲腸などの臓器系の名称、脳、筋肉、骨、果ては肝門脈などの体内の奥の奥に秘められている人間の部位までも私は記憶していた。先生の世界に触れていくにつれて、その外側にある世界までもが広がっている。日本ではない外国の言葉を勉強している、というよりは、先生が紡ぐ世界を紐解くための鍵を探している感覚という方が的を射ているのかもしれない。手帳の中の言葉だけではなく、その他の語彙も同時に覚えることで、世界の奥行きがどんどん増していく。
「私は掌で強く掴んだ小腸を、そのままゆっくりと引きずり出す。ぬちぬちという奇怪な音を立てながら、赤い世界を割って、次第にそれは姿を現す。私が望んでいたもの。写真の中でしか存在し得なかったもの。到達したかった場所。それが、赤い世界から私がいる世界に引きずり出されるのだ。『あちら側』の世界を知っている右手が、連れてくるのだ。それは血液の赤とはまた違った赤を有していた。無数の血管をびっしりと纏ったその管は、蓆の上にぼてりと身を横たえた。私は両目を見開いて、その姿をとらえた。それは間違いなく、私が生きている世界にはあってはいけないものであった。この管が食卓の上に無造作に転がしてあったなら、そこに住むすべての人間は嫌悪感を持って排除の手立てを考えるであろう。恋人から賜った贈り物の箱からこの管が登場したらもらった側の人間に深い傷を負わせることだろう。そんな至極当たり前なことが頭に浮かぶ。私は蓆の上に置いてあった包丁をもう一度握り直し、その管の一部を切り離す。包丁をすっといれ、管になっていた腸を開いた。そこには、細かい襞と、けばだつような繊毛がびっしりと並んでいる。それらから視線を外すことなく、私は持っていた包丁を落とす。蓆に包丁が落ちる音がしたはずだが、其のときの私の耳にはもう届かなかった。そして、手袋をすることもなく、右手を伸ばす。もう躊躇はなかった。好奇心がそうさせたのか、欲望がそうさせたのか、真っ直ぐに、素直に、実直に右手を伸ばし、その襞に触れた」
ついに、少年は目的であった小腸に到達することができた。最初の一行目を翻訳したときから、ずっと恐れていたことが、ついに実現してしまった。
ただ、最初に抱いていた恐れはなくなっていったように思える。今の私を支配している感情は一体なんのだろうか。
「私の右手の掌には、それまでには絶対に味わったことのない感触が広がっていた。ぬらぬらとしたような湿り気、掌に吸いつくように蠢く細かい襞、指紋と指紋の間にひっかかって後を引いていく繊毛の感触。汗が額から落ちる。猫の腸液と、私の汗が混ざり合う。液体が迸る。私は無我夢中で小腸の壁を撫でた。何往復も、何往復も、右の掌で撫で続けた。その行為を白く濁った瞳で猫が見ていた。ざらざらとした感触が脳内をずっと襲っている。自分では撫でることを止めることはできない。その感触は大いなる嫌悪であり、同時に恍惚であった。ただ、私は不思議と性的興奮は覚えていなかった。このようなグロテスクなものを目の前にし、性的な興奮を味わう人間が少なからずこの世界には存在している。しかし、私の幼い男根は反応することなく、いつもと同じ位置に鎮座していたように記憶している。息遣いは荒くなるものの、それは性的なそれとは程遠いものだった。今にしてみれば少し不思議にも覚える。この実験の根本は性の倒錯ではなかった。やはり好奇心の暴走だったのだろうか。私は、開いた腸の端を親指と人差し指でつまみ上げて、顔の近くに持っていく。そして、襞の部分を私の幼い唇にそっと押しあてた。指の先よりも唇の方が感覚が敏感であることを私は知っていた。指で味わうのとは違った湿り気が唇を包む。鼻も近づけているので自然と臭いまでもが侵入する。舌の先をちろりと出し、それを味わってみる。苦さとえぐさがいっしょくたに混ざったようなその味は、まさに死の味と表現すべきだっただろう。そう、死の味だ。一匹の猫の死によってもたらされた味だ。一つの命を代償にしたからこそ、私が享受できた味だ。まさに死の味以外の何物でもない。しかし、私はあることに気がついたのだ。死の味を目の当たりにして、ある場所に到達したのだ」
私はここで筆を置いた。
ブラジャーの内側に滲んでいる汗が、猫の血液と混ざり合う光景を想像する。
今私が綴っている文章には、先生の言葉だけではなく、少しずつ私の言葉が足されていることに気がつく。もちろん、話の筋は忠実に翻訳することができているはずだ。しかし「ぬちぬち」や「ぼてり」、「ちろり」などの擬音は、先生が紡いだ言語に含まれていないニュアンスだ。その部分は、私の頭の中で見ている風景に合致した擬音を自然に選び、並べている。
このままこの文章はどこに向かっていくのだろうか。先生は何に気づいたのだろうか。先生が気づいたことを、私は忠実に訳出することができるのだろうか。もうそれは私にもわからない。
ノートは乱雑な文字で埋まっていく。最初の頁を見返すと、丁寧な文字が並び、そこには一つ一つの言葉を辞書で引いて構成していった形跡が見受けられる。今のノートに並んでいるのはもう私にしか読めないような、他人が読むことを拒絶するような記号になっていた。
ノートを閉じて、手帳も引き出しの中にしまう。
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