第五話
この土地にも春が訪れようとしていた。
雪はまだ地表を覆っているものの、日差しはささやかな華やかさを取り戻し、地表に向かって熱を供給している。白い雪がさらさらと溶け始め、小さな川を作っていく。そんな風景が私の小さな部屋から見ることができる。青く澄んだ空と雪の白の対照的な色彩がとても鮮やかだ。しんとした寒さの匂いの中に、ほんのりと春の香りが立ち込める。
移り行く季節とは対照的に、この館の中の風景は春になっても変わらない。暖かさを湛える日光も、分厚いカーテンを開けない限りは届かない。廊下には深い絨毯が敷かれていて、その上を薄いスリッパで歩くと本当に僅かな音しか立てない。光も音もない世界がこの屋敷の中には広がっている。
その屋敷のさらに奥にある先生の部屋の中も変化することはない。先ほども先生が散歩をしている時間を見計らって掃除をしていたが、書斎の湿度は一定に保たれていて、本棚に収納された本たちはさながら化石のような乾きと寂しさを湛えていた。この風景はどんな季節の中でも変わらない。不変であり、普遍だ。
時計は十五時十分を差している。椅子にかけておいたセーターを上から被り、机の横にかけておいたエプロンを纏い、部屋を出る。広い階段を下りて一階のキッチンに向かう。先生は日課である散歩から帰宅し、十五時半になったら二食目の食事を摂る。
高齢である先生は非常に少食である。瀬戸口さんと共にこの館に来る道中に先生の食事の傾向はあらかた聞かされていた。
白米は必ず用意するが、茶碗の半分のみ。
味噌汁は作らずに、澄まし汁にする。
おかずは二品。肉と魚の料理を必ず用意する。しかし、小鉢程度の量に留める。
食事を作る際は、これらのことは守るように瀬戸口さんは言った。その声は、多くの食物を摂取できなくなってしまった先生を労わるように優しかった。
私はキッチンにつくと、朝仕込んでおいた薄味の牛肉のしぐれ煮を温め直し、鮪を醤油、酒などの調味料に漬けたものを冷蔵庫から取り出し、豪奢な食器台から取り出した華美な小鉢に盛り付ける。炊飯器を開けて、水をつけたしゃもじでご飯を茶碗半分だけ盛る。最後にほどよく冷ましたほうじ茶を淹れて、すべてを木の盆に乗せて、二階の書斎の前まで運ぶ。
扉のすぐ隣には簡素な机が置かれていて、私はその上に食事をそっと置く。そして、扉の方を向き、ゆっくりと二回だけノックをする。食事が用意できたという合図だ。しかし、先生は部屋から出てこない。いつも、私が自分の部屋に戻るために階段を上がる音を確認してからでないと先生は部屋から出てくることはない。
もし、私がここから離れなければ、先生は永遠に食事を摂れることはないのだ。
そんな空想を少しだけ思い浮かべ、私は部屋へと戻る。
戻りながらまた考えを巡らせる。
先生は、私という存在をどう定義しているのだろうか。
今までの生活の中でもこの疑問は現れそうになっていたが、その度に意識下に戻すように努めていた。先生が私をどう思うかなど私の労働とはなんら関係のないことであり、考えたところで答えを見つけられるわけでもない。そうやって思ってきた。
しかし、今回はこの疑問を振り払うことができなかった。
私が料理を作らなければ、先生は間違いなく飢えていく。
料理を作っても、私が書斎の扉の前から離れない限り、先生は部屋を出ることはできない。
先生の生殺与奪は、私が握っているに等しい。そんな構図が私の中に立ち現われることは不自然なことではないはずだ。
空気を失えば、人は生きていけない。
私という空気を失えば、先生は死んでいくしかないのだ。
瀬戸口さんも一カ月に一度しかこの場に現れない。瀬戸口さんが訪れた次の日から食事を作ることを怠れば、次に瀬戸口さんが来る頃には先生は亡骸と化していることだろう。
先生は、この状況に対して何かを感じているのだろうか。
私の存在を、先生はどのような言葉で規定しているのか。
そもそも、私の存在を視界にいれているのだろうか。
私の中に次々と疑問が生じてくる。堰き止めていたものを一度解放すると、もうそれを止めることはできない。
私は階段を昇る足を一度止める。それと同時に、あの分厚い扉が開く音が聴こえた。
先生は私が作った食事を食べる。先生は私を吸い込む。そして、先生は文字を紡ぐ。先生が紡いでいる文章に、私の一部が溶けているような気がした。
黒い液体に漬けられた鮪やぐらぐらと煮込まれた牛の死骸を媒介にして私という存在が先生によって表現されていくのだ。
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