第二十二話

「先生、という女の声が聴こえた。東京からこの土地に来てからは外界との意思疎通は完全に遮断している。編集者であっても、原稿の受け渡しをするだけで会話を交わすことはない。家事手伝いの人間が常に一人いることは知っていたが、彼女らから私に対して言葉を投げかけてくることは一切なかった。それは、久々に直接聴いた女の声であった。先生、女は続けていう。食事の用意であれば、外の机に置いて扉を叩けばそれで事足りる。なぜ私に声をかける必要があるのだろうか。私は視線を僅かに動かして声が聴こえてきた方向を見る。そこにはやはり一人の女が立っていた。その女の姿に、視線が釘付けになった。年は三〇歳ぐらいだろうか。背もそれほど高くなく低くもなく、顔も端正でもなく、だからといって劣っているようにも見えない。なんの特徴もなく、視線をまた原稿用紙に戻してしまえばその瞬間に記憶から消え去りそうな、そんな印象しか受けなかった。私が釘付けになったのはその容姿ではない。違う。女が身につけているベージュのエプロンだ。そのベージュには大きな赤い染みが広がっていた。どう見てもそれは血潮だった。血飛沫であり、生物の死の痕跡であった。私の頭にあの記憶が蘇る。その赤が私の網膜に到達し、大脳で意識的に分析をする前に生理的な嫌悪感が体中に沸き上がってくる。しかし、その光景から視線を外すことができないでいる私もいる。万年筆を持つ手が震える。現実が、そこにある。私が恐れている現実がまさに現前している。先生、と女は言う。私はその顔を見る。薄暗い部屋の中で、その女の顔がぼんやりと浮かんでいる。先生、見てください、女は言う。その声には抑揚も艶もない。ただ平板な音声が私の耳に届いてくる。見てください、女は続ける。そのとき、私は気がついた。女が見せたがっているのはエプロンのベージュを侵略した血潮などではなかった。彼女の左手にあるもの。赤黒い体色、だらりと垂れ下がったぶよぶよな肉体、電灯の光を受けててらてらと鈍く輝く皮膚、それらは、あのときに私が見たあの大蛇の姿と寸分違わず一緒だった。私は思わず顔を上げる。女は大蛇を左手で強く握りしめ、右手にはエプロンと同じように真っ赤に染まった鋸を携えている。鋸の先からはまだねっとりとした血液の滴がぽたりぽたりと床に落ちる。その姿は、仕留めた怪物の亡骸を忠誠を誓う王に持ち帰る騎士のようにも見えた。嫌悪感が圧倒的に支配しているにも関わらず、その姿は神々しくさえ見えたのだ。先生、と言う。見てください、と言う。私も、触れてみたんです、と言う。私も先生が見たものと同じものに触れたんです、と言う。女の顔は明らかに微笑んでいた。慈悲にまみれた、どこまでも残酷なその微笑み。明らかに、女は私の手記を見ていた。おそらく女の母語は日本語であり、その母語ではない言葉で書かれているにも関わらず、女は私の手記を読み抜いたのだ。そうとしか考えられない。先生、私は許されないことをしました、女は言う。私は先生が固く閉ざした箱の中身を見てしまったんです、そのことは罪深いことだと思っています、でも、私はそのことを後悔していない、先生を救うことができるのは、私だけだと確信することができたから、女は言う。そして左手に握られていた大蛇を手放した。大蛇の体は絨毯の上にべとりと落ちる。生の喜びの根源であり、生の恐怖の源であるその大蛇を、女は左足で強く、強く踏み潰した」

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