第二十三話

「先生の苦しみが、私にもわかりました、女は言う。先生が抱えている苦しみを理解するためには、私も同じことをしないといけないと思ったんです。先生が腸の写真でみた美しさを実際の猫の小腸を見ることで否定したように、文字列の小腸だけではなく、生の小腸に触れなければ先生と同じ苦しみを味わうことなんてできない、私はそう思いました、先生と同じ順序で、先生と同じ息づかいで、先生と同じ鼓動で、先生と同じ手つきで、私は番犬を殺め、手で小腸を引きずり出しながら不気味な柔らかさを理解し、二つの目でその醜悪さと赤を感じ、唇でその温かさと湿り気を確かめ、鼻で鉄が腐ったような臭いを実感しました、私が持っているすべての感覚を使って先生と同じ体験をし、先生と同じ苦しみを味わいました、先生に向けられた手紙の中に先生を救い出す言葉が存在しないのはごくごく自然なことです、そこに書かれているのはあくまで虚構であって、書き手は先生と同じ苦しみを実感しないままにそれを書いている、そんなものに効力があってたまるもんですか、先生に近づくことができるのは、先生の苦しみを文字で摂取し、まったく同じ行動を取った者だけなんです、そして、私にはそれができました、女はゆったりした口調で言う。そして、一歩ずつ私に歩み寄る。先生は孤独じゃない、女は言い、一歩近づく。先生の苦しみは、私の苦しみなんです、女は言い、また一歩近づく。先生を救っていいのは、私だけなんです、女は言い、一歩近づく。先生を救うことができるのは、私だけなんですよ、女は言い、一歩近づき、私が座る机の目の前で立ち止まった。その表情には、どこか妖艶さが湛えられ、唇は血液で赤黒く染まっているように見えた。黒目は収縮し、白眼がぎらりと輝き、その二つの瞳で私を見下ろしていた。女は右手に持っていた鋸も床に落とす。がらん、というくぐもった金属音が部屋に広がり、夥しい数の背表紙たちに吸い込まれていく。先生、女は言う。鋸を持っていた右手を、私に伸ばす。私はそのゆったりとした動きを、優雅な手つきを、ただただ見つめることしかできなかった。赤く染まった掌、そしてその赤によって際立ち始めた肌の白さ。この数十年、文字列のみに没頭していた私にとってはそれらの色彩は鮮烈すぎた。途方もない暗闇の中に、突如として一条の光が差し込み、暗闇を切り裂くような感覚。そして、切り裂かれた闇の向こう側には、さらにまばゆい光が待ち受けている。女の手はするりと私の顎を捉える。顎にじっとりとついた肉に女の細い指が食い込む。私はされるがままに、顔の角度を上にあげる。長い間、はれぼったく垂れ下がっていた私のまぶたも今は見開かれ、眉毛の部分がぴくぴくと痙攣を始める。そして次の瞬間には、女の赤く照っている唇が私の唇を覆った」

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