第十話

『先生が病気に?』

 電話の向こう側にいる瀬戸口さんは驚いた口調でそう言った。冷静沈着な瀬戸口さんしか見たことがない私には、今の瀬戸口さんの表情を想像することがうまくできなかった。自分が予期していなかったことが起こったときの瀬戸口さんはどんな顔をするんだろう。目は見開いているのだろうか、口は半開きになっているのだろうか。

「えぇ。と言ってもただのお風邪だとは思うのですが」

『先生が直接申し出たのですか?』

「いえ、直接はおっしゃらなかったんですが、いつも机の上に置いてあるご飯をここ何日か残すようになりまして。だから、村のお医者さんをお呼びして、診察していただいたんです」

『先生が、診察することを許したんですか』

「最初は固辞なさっていたんですけど、やはりご気分が優れないのか筆も持っていらっしゃらなかったので、軽い診断をしていただいて、お薬もいただきました」

『今の先生の具合はどうなんですか?』

「なんとか薬を飲んで少し楽になったみたいです。今日もおじやを作ったら召し上がってくださったので、快復には向かっていると思います。念のため、もう一度お医者さんをお呼びしてみていただきます」

 瀬戸口さんは、電話の向こうで沈黙した。

 受話器を持つ私の手は汗で濡れ、小刻みに震えている。

 口の中の水分は一気に乾ききり、それを補填するかのように食道の奥から胃酸がゆっくり上がってくる感覚を覚える。視線がなかなか定まらず、風景が確定しない。

『わかりました』

 沈黙の後、瀬戸口さんはため息をつくように言った。

『ご無理はさせないようにしてください。あと、先生の様子が普段と変わるようなことがありましたらすぐに僕に連絡してください。僕には先生のお体を守る責任があります。そのためには藤沢さんからの細かな連絡が必要なんです』

「申し訳ありません。勝手な判断で動いてしまいました。なにしろ、先生が体調を崩されるのは初めてだったもので」

『とりあえず、快復に向かっているようで安心しました。これから六月に入ると気温も湿度も上がりますし、普段よりも先生の体調に注視してください』

「わかりました。ただ、お医者さんが体調が万全になるまではなるべく誰とも会わずに安静にしておいた方がいい、とおっしゃってたので、瀬戸口さんのご来訪も少し遅らせることはできませんか?」

 また瀬戸口さんは少しの間口を噤む。

『そうですね。では、今月分の原稿はこちらの会社まで郵送していただけますか。締切はどうしても守らなければいけないので。おそらく、先生は僕が来る予定だった日には原稿をあげて封筒にいれておいてくださると思うので、そのまま封筒に住所を記入して送ってください』

「わかりました」

『では、くれぐれも先生の体調管理をよろしくおねがいします』

 瀬戸口さんはそう言い残して電話を切った。

 私もゆっくりと受話器を電話に戻す。なかなか受話器から掌が離れようとしない。私は左手で無理矢理右手を受話器からひき剥がし、そこで深く息を吸った。一気に肺の中に空気が入り込み、思わず激しく咳込む。涙が出る。この涙はいつ出たものだろうか。

 私は、瀬戸口さんに嘘をついた。

 その罪悪感が私の中で大きくなり、心を締めつける。

 しかし次の瞬間には罪悪感は先生への想いによって握りつぶされる。

 これで、先生は外界との交信を一切持たなくなる。

 新たな手紙の言葉も先生には侵入しない。

 瀬戸口さんが醸し出す落ち着いた空気も、先生を犯さない。

 先生の中に入るのは私という空気と、私が作る料理だけだ。

 その二つを摂取して、先生は言葉を紡ぐ。

 先生は純化し、濾過され、洗練される。

 先生は、変わっていくのだ。

 電話から離れ、階段を昇り、自室に戻る。

 窓の外では、春が終わっていく。穏やかな日差しはしっとりと湿り気を帯び、からりとした空気は高く昇る日によってじりじりと暖められる。

 二階に辿り着いたところで、書斎の方に視線をやる。

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