第四話

 二月も後半に差し掛かり、寒さが肌を刺してくるような日の間に、やんわりと暖かさが届いてくる日が現れ始めた。と、言っても外に出るにはコートにマフラー、そして雪を凌ぐための分厚い長靴がまだまだ手離せない。

 水曜日の晴れの日、防寒具と長靴で身を固めた私は扉を開ける。

 外に出た途端、キンと冷えた空気が鼻から入り込んできて、肺よりも先に目のあたりを冷やす。力強く目を閉じるとうっすらと涙が滲んでくる。次いで肺が冷やされてぎゅっと縮むような感覚が襲う。目を開くと白い雪から照り返された光がすっと入ってくる。

この土地の冬は嫌いではない。東京の寒さとは比べものにならないほどに厳しいが、鼻腔の広さや肺の大きさを実感できる感覚は悪くない。東京で暮らしていたころのように、他人と比較することでしか自分自身の体積もわからない生活を続けていても仕方がない。他人との差異の中でしか生きらないくせに、差異を見つければ見つけるほど、自分が持つ意味の範囲がどんどん削られていく。私のオリジナリティは消失しつづけ、もともと空っぽだった自分が、器ごと消えていく。他人は消えていく私を食べながら、差異の中で膨張していく。消えた私は、その膨張していく他人の間の中でおしくらまんじゅうにされて、そしてさらに消え去る。そんな生活よりも、自分の中から自分を実感できる、この土地が私はおそらく好きなのだ。

足を前に出し、ぎゅっぎゅっと雪を踏みしめる。

すると、いつものように犬の鳴き声が聴こえてくる。声の方向に視線をやると、一匹の犬がしっぽを振りながら私の方に近付いてくる。私は足を止め、犬がやってくるのを待つ。犬は深い雪の中を飛ぶように駆け、私の下に辿り着くとすっと頭を下げた。私は雪の上にしゃがんで手袋をした手で犬の頭をぐしぐしと撫でつける。

どこから現れるのかわからないが、私が館を出ようとするとどこからともなくこの犬は現れる。首輪をつけていなかったり、御世辞にも艶がいいとは思えない毛並みを見る限り、家で飼われている犬ではなさそうだ。柴犬のような佇まいではあるが、何かの犬種と混ざりあっているように見える。

名前は特につけていない。名前をつけるということはその犬に私の想いが反映されることになる。

私はひとしきり犬の頭を撫でたところで立ち上がり、また雪の上を歩き始める。背後から、わん、と一つだけ鳴き声が聴こえ、広大に広がる白に音は溶けていった。

肺を中心に、気管支をきゅうきゅうと縮めながら歩き続け、「山の食堂」に向かう。

最初、瀬戸口さんにその店の名前を聞いたとき、てっきり定食屋か何かと思っていた。しかし実際は食事を提供してくれるわけではなく、食料品、生活雑貨などを扱いながら、山で採れた山菜などを販売する小さな個人商店だった。先生に提供する食材のすべてはそこで賄われる。「山の食堂」の店主さんは、一ケ月に一度訪れる瀬戸口さんを除けば、この土地で唯一会話をする人物だった。三日に一度、この店を訪れて買い物をしながら店主と話すことで、私は私の声を確認する。

少し歩くと、「山の食堂」が目に入ってくる。田畑の中にぽつんとその店はある。平屋の日本家屋。瓦屋根には白い雪が分厚く被っている。

「山の食堂」に到着すると、まず一つ引き戸を開け、その奥にあるもう一枚の扉を開ける。冬の寒さに備えて、二重構造になっている。

「いらっしゃい、藤沢さん」

 店に入ると、店主である鮫島さんのはきはきとした声が聴こえる。

「どうも」

 私は毛糸の帽子を外して小さく頭を下げる。

 ソバージュがかかった白髪をゆったりと一つで束ね、きっちりと分けた前髪の間からは柔和な笑顔が覗いている。いつもと同じ、少しくすんだ赤いエプロンを身に纏い、私に視線を向けている。かなりの高齢のようにも見えるが、老婆という言葉を当てはまらないような気もする。柔和だが、どこか若さが垣間見える。

「三日前に頼まれたもの、一通り手に入ったよ」

 そう言って鮫島さんは店の奥に入っていった。私はコートのポケットから折りたたんだ二つの買い物袋を取り出し、広げる。もう片方のポケットからはガマ口を取り出す。

「ほい。とりあえずこれだけね」

 鮫島さんはレジ台に大きなバスケットをどんと置く。中には白菜などの野菜、牛、豚、鳥などの肉、鮪や鰹などの魚介類、さらにバルサミコ酢などの調味料まで詰まっている。それだけではなく、包丁の研ぎ石、三角コーナー用のゴミ袋、トイレの消臭材、風呂の排水溝に溜まった髪の毛を溶かす溶剤など、生活用品も入っている。こんな辺鄙な土地でここまでの多様な品物をどうやって揃えているのかは想像するのが難しい。

「ありがとうございます。いつも助かります」

「そんなお礼言われるほどじゃないさ。これだって立派なビジネスだからね。顧客の要求には応えてこそ商売なんだから。藤沢さんがいなけりゃあたしだって食えないんだから、ギブアンドテイクだね」

 鮫島さんは横文字を多用する傾向があり、こんなところも若さを感じさせる要素なのかもしれない。

「藤沢さんも偉いもんだよ。あんな陰気なお屋敷で働くなんて。作家先生だって滅多に家から出て来ないんだろう? いくらお仕事だからってそんな声も聴いたことのない主人の下で家事手伝いやらなきゃいけないなんて。あたしだったら絶対無理だね」

「意外と楽しいんですよ。掃除のし甲斐だってありますし、毎日どうやったら効率良く掃除できるか、なんて考えると一日があっという間に過ぎていくんです」

「ポジティブだねぇ、藤沢さんは。ほら、袋貸して」

 鮫島さんは私から買い物袋を受け取ると、膨大な品を器用に詰めていく。鮫島さんは少しの隙間さえも無駄にせず、そして商品を傷めることなく袋詰めをすることにかけては名人の域に到達している。一つの袋には食料品、もう一つには生活雑貨を手早く、それでいて丁寧に詰め込んで、私に差し出す。

「はい、出来あがり」

 私はガマ口からお金を取り出し、支払いを済ませる。

 紛れもなく、この「山の食堂」は先生と私の生命の源だった。田畑で農業を営むことをしない私たちにとって、食べ物を供給してくれる場所はこのお店しかない。このお店で手に入れた食材を私が調理し、このお店で手に入れた雑貨で生活を整え、そして先生に提供をする。すべての源は、私を媒介して先生へと届けられる。

「じゃあ、三日後の予約もお願いします」

 私はガマ口に入れておいたメモ帳を渡す。そこにはまた同じように様々な食品と雑貨が書きこまれている。今回は少し冒険をして、朝鮮人参を注文しておいた。こんな珍味を三日後にきっちり用意できるのだろうか。鮫島さんはメモの内容などろくに確認もせずに、

「はいはい。あたしがなんでも揃えてあげるよ」

とにんまりと笑顔を浮かべて、言った。

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