3 八雲はどこへ?
その日は朝から鬱々とした天気であった。
しとしとと雨が降り続いている。土砂降りというわけではないが、一向に止む気配も無く、軒から滴り落ちる雨水が一定のリズムで地を叩いている。
情趣を好む者ならば、それも自然が奏でるひとつのメロディに聞こえよう。が、大抵の者は、ただうっとうしいだけで気分が晴れないものである。
今朝の天気予報では、明日の朝まで雨が降り続くとのことだった。
「はぁ……」
教室の席でミコトは大きなため息をひとつ。
「ひどい顔」
いつから目の前に立っていたのか、京華がミコトの顔を覗き込むなり、そう言った。
「ん~? どんな顔してる?」
「リストラされた中間管理職みたいな顔」
「そこまでか……」
ミコトは気怠そうに机に顎を乗せて、またぞろため息を漏らした。
「あんたがそんな顔をしてるなんて珍しいじゃない? 何かあったの?」
「まあ、何もないと言えば嘘になるけど……上手く説明できない」
本音を言えば、事の次第を打ち明けて少しでも楽になりたい気分だ。しかし、内容が内容である。
(八雲があやかしになってるかもしれないなんて事、言ったところであたしがおかしくなったと思われるだけだからなぁ……)
唯一、その事を話せるクズに至っては、まだミコトの中で眠ったままである。
(肝心な時に寝てるんだからなぁ……文字通り『クズ』だ)
クズが起きていたら、「何が文字通りじゃ! ワシの名は葛の葉じゃ!」と怒鳴りつけられそうなところだが、今はそれも無い。
相談も出来ないくらいなら、まだ怒鳴られた方がマシだと思った。
「ひゃっほぉー! 見てくれよ、コレ!」
空気の読めない男が来た。
「なぁに騒いでるのよ、鉄平」
「コレだよ、コレ!」
彼は何やらひと抱えほどもあるビニール袋をミコトの机の上にドンッと置いた。中にはこれでもかというくらい大量のあんパン。
「購買に行ってみたらよぉ。接着不良だか何だかで封が開いてるあんパンが納品されてたらしくてな! 購買のおばちゃんがタダでオレにくれたって訳よぉ! いやぁ、今日はツイてるぜぇ!」
満面の笑みでガッツポーズを決める。
「ええ~? 大丈夫なの? それって毒とか入ってるんじゃない?」
「購買のおばちゃんがそんな事する訳ねぇだろ! これはオレに対する日頃の感謝の気持ちさぁ!」
「何を感謝されてるんだか……」
一人で舞い上がっている鉄平に、京華は半ば呆れ顔だ。
「脳天気で良いな、おまえは……」
ミコトがボソッと呟いたが、それも彼の耳には届いていないようだった。
「毒が入ってるなんて言ってる京華には絶対にやらないからなぁ」
「開封済みのあんパンなんて要らないわよ。大体、それ全部一人で食べきれるの?」
そこで突然、鉄平の顔色が変わった。
「いや、待てよ? 仮に毒が入ってるんだとしたら……オレは購買のおばちゃんに恨まれてるって事かぁ?」
「なにも毒を混入するのが購買のおばちゃんとは限らないでしょ……」
一人で暴走する鉄平にもはや突っ込む気にもなれないミコトは、机に突っ伏したまま、そっぽを向いてしまう。
そこで初めてミコトの様子がおかしい事に鉄平も気付いたらしい。
「ん? どうかしたのか?」
「おまえは悩みが無さそうで良いなって思っただけだ」
顔も上げずに吐き捨てたミコトに対し、当の鉄平は照れ臭そうに頭を掻きながら、
「そんなに褒めるんじゃねぇよ。照れるじゃねぇか」
笑って返す。
「誰も褒めてないって」
皮肉を言われた事すらわかっていないようだった。
「元気無いんなら、あんパン分けてやってもいいぜ」
「いらん!」
あっさり突っぱねられ、さすがに鉄平も京華に、
「何かあったのか?」
という仕種をして尋ねるが、京華の方もお手上げポーズで返すだけであった。
ふと、ミコトはある事に気付いた。
「あれ? 八雲は?」
「え?」
京華と鉄平が八雲の席に振り返る。彼の席は椅子が無造作に引かれた状態で無人のまま放置されていた。
「アタシがさっき来たときには居たはずだよねぇ?」
「トイレでも行ってんじゃねぇのか?」
確かに休み時間であるから、八雲がどこへ行こうと不思議はない。が、ミコトは妙な胸騒ぎを覚えた。
間近にいながら、誰も八雲が席を立ったことに気付かなかった。それだけじゃない。今朝、八雲を見てから、彼は一度たりとも言葉を発していなかった。
彼が元気を無くしてからは口数が減ったことは確かだが、これまで一度たりともミコトたちに挨拶もしないという事は無かった。
ほかの学生ならいざ知らず、八雲に限って全くの無言というのは、この上なく違和感を覚えてならない。
「あたし、ちょっと探してくる」
そう言って席を立った。
「ちょっと! もう授業始まるよ、ミコト!」
しかし、京華が呼び止めるのもミコトの耳には届いていなかった。
どこを探すのか……特にこれといって宛があるわけでもない。ミコトはただ闇雲に校内を走り回った。
(ただの取り越し苦労なら良いけど……)
やがて始業のチャイムが鳴った。
しかし、ここへ来るまで八雲とはすれ違っていない。どこかへ行って、教室に戻るのなら、必ず途中ですれ違う……そんなルートを通って来ている。
無論、途中の男子トイレでも出て来た学生から八雲の所在を聞いている。彼らの返事は「知らない」だけであった。
ならば八雲は未だ教室には戻っていない。
「どこに行ったんだ?」
廊下を疾走していると、曲がり角で誰かにぶつかった。
「痛っ! コラッ! 廊下を走る人がいますか!」
ミコトも相手の肘あたりに思いっ切り鼻がしらをぶつけて、「うぐぅ……」と呻いている。そして顔を上げるなり、全身が硬直し
た。
「ん? ミコト、あんた何やってるの? もう授業は始まってるわよ!」
「マ……じゃなくて……筑波先生!」
ミコトは「ママ」と言おうとして、慌てて訂正した。激突した相手はよりによって、ミコトの母である静江だったのだ。そう……ミコトがこの世で最も恐れる存在である。
「ど、どうして高等部の校舎に?」
ミコトの頬を冷や汗がツッと伝う。
「高尾先生が欠勤という事で代役を頼まれたのよ」
高尾先生とは高等部の国語を受け持っている教師なのだが、丁度、ミコトたちのクラスはこれから、その国語の授業を受けるところであった。
事態は最悪だ。
「あなたこそ、こんなところで何をしているの?」
静江がズイッとミコトの顔に迫る。
ミコトは一瞬たじろいだが……しかし、消え入りそうになる声を力の限り絞り出し、
「や、八雲を見なかった?」
そう尋ねた。
ミコトが静江の質問を遮って別の質問をぶつけるなど、今までには無かったことだ。絶対的な主従関係にミコトなりに精一杯抗ったと言っても良い。
「八雲君? いいえ、見なかったけど……どうかしたの?」
「いつの間にか教室から居なくなってて……まだ戻ってないから……」
静江は至って普通に問いかけたのに、ミコトはやはり声が小さくなってしまう。別に恐縮するようなところでもないのに、圧倒的な主従関係の前では縮こまってしまうしかないのだ。
「それをあなたが探しているという訳ね……」
ミコトはコクンと頷く。
「まあ、彼も何か訳があるんでしょう。あなたはこのまま教室に戻りなさい」
「で、でも……」
引き下がろうとしないミコトを母は厳しい目でキッと睨みつける。
そのとき……ビリリッとミコトの尻尾に電気が走った。
かなり強烈なあやかしの気配。
「マ、ママ……」
ミコトはギュッと目を閉じ、そして意を決したようにカッと見開いた。
「ごめんなさい! お説教はあとで受けます!」
静江の脇をすり抜け、気配のする方へと駆け出した。
「ちょ、ちょっと、ミコト!」
ミコトの姿はあっという間にその場から消えていた。
いつもとは全く異なる……今までに見せたことの無いミコトの様子に、静江はただただ呆気にとられて佇んでいた。
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