7 ミコトの異変

 八雲の瞳に生気が戻る。

 打ち付けられていた釘が全て外れたかのように、一瞬にして身体の自由が戻り、ガクンと両膝をついた。


「八雲!」


 ミコトは八雲の身体を支え、顔を覗き込んだ。

 八雲の傍らには全身ずぶ濡れになり、潤んだ瞳で泣いて良いのか微笑んで良いのか困っているようなミコトの姿があった。


「ミコト……ありがとう……」


 八雲は両手両膝を地につけたまま、顔だけこちらに向けて笑みを浮かべた。その顔は疲弊しきっているようだったが、それでもミコトを安堵させるには十分過ぎるほどであった。


「ミコトの声……聞こえてたよ……。ミコトが僕を呼び戻してくれたんだね」

「そ、そうだ……。おまえの事はあたしが守ってやるって言ったことあるだろ。有言実行だ! てか、あんな恥ずかしいこと二度と言わないからな!」


 ミコトは頬を赤らめ、どことなく気恥ずかしくなって八雲から視線を逸らす。

 そんなところがミコトらしい。そう、八雲は思った。

 不器用で寂しがり屋。強がってはいるけど、昔と何も変わらない可愛らしい女の子。そんなミコトの居る場所へ戻って来られたことが八雲は何より嬉しかった。


「ははは……」

「な、何が可笑しいんだ! あたしを馬鹿にするのか?」


 八雲が急に笑い出したものだから、ミコトはさらに顔を赤くして慌てふためく。立ち上がって両腕をブンブン振る様は、まるでゼンマイ仕掛けのオモチャのようだ。


「やれやれ……説得としてはも一つじゃったが、八雲が聞き届けてくれたようなので良しとしようかのう……」


 ここへ来て、なおもクズが憎まれ口を叩いた。姿は見えないが、苦笑を浮かべているのは見るまでもなく分かる。


「う、うるさい奴だなぁ……結果オーライだろ!」

「しかし、ミコトよ……まだこれで終わった訳ではないぞ」

「え?」


 確かに八雲はタタリモッケから解放された。八雲の身体にまとわりつく影はもう無い。が、ミコトたちの目の前には、依然として大きな骸骨が暗がりで何かを探し求めているかのように手を伸ばし蠢いている。無論、四方八方に伸びる影も健在だ。

 しかしながら、先程とは様子が違う。

 タタリモッケはどこか苦しんで喘いでいるようにも見える。


「あいつ……まだ残ってるのか」

「八雲が本来の心を取り戻した事で、母親の縛りは無くなったが……亡者たちは八雲の母親をそう容易くは解放してくれないようじゃのう」

「母さんが?」


 八雲が悲鳴に近い声をあげた。

 その事にミコトは目を丸くする。


「八雲……おまえ、クズの声が聞こえるのか?」

「クズ? 何だかよくわからないけど、不思議な声は聞こえるし、今、目の前にいる大きな骸骨だって見えてるよ!」


 今までタタリモッケと同化していた上に、母親の危機という事実を知らされたためか、眼前の非現実的な光景も八雲はあっさり受け容れているようだった。


「ふむ……今まで長い時間、強い霊的な力に晒されていたために、一時的ではあるじゃろうが、ワシの声が聞こえる程の強い霊力が残っておるのじゃろう」

「そんな事よりも、どうしたら母さんを救い出せるの? 僕が助かっても、これじゃあ……」


 八雲はグッと拳を握り締め、歯噛みする。今の自分にはどうする事も出来ない。その事が分かっているだけに歯痒くてならないと言わんばかりに……。


「ワシが亡者どもから母親の魂魄を引き離し、彼奴らを本来居るべき、あちらの世界へ押し返そう」

「クズが? そんな事できるのか?」


 するとクズは「フフン」と鼻で笑った。


「ワシを侮ってもらっては困るのう、ミコトよ。神の眷属たるワシにかかれば、そのような事は造作も無い。が、それにはおぬしの身体から離れる必要がある」

「え……?」


 ミコトはドキリとした。クズが身体から離れる……その事に一抹の不安がよぎる。


「おぬしはまだまだ未熟じゃ。本来ならば、一人前になるまで見届けねばならなかったのじゃが……そうも言っておられまい……」


 クズの口調はいつになく寂しげであった。


「ま、待て! あたしの身体から離れたら、おまえはもう居なくなっちゃうのか?」


 本当なら喜ばしい事だ。今までずっと、クズが自分の身体から離れてもらいたいという事ばかり願っていたのに……いざ、居なくなると思うと、不思議と胸が締め付けられる思いに駆られる。


「彼奴らをあちらの世界へ押し戻すのじゃ。それにはワシもろとも力尽くで冥土に送らねばならぬ。まあ、ワシを煙たがっておったおぬしには好都合ではないか?」


 クズはそう言ってイタズラっぽく笑った。


「そ、そんな……。あたしはまだ、あやかしを一〇八体祓ってないんだぞ! まだ、おまえに教わってない事が沢山あるんだぞ! 途中で投げ出すなんて……無責任じゃないか!」

「仕方があるまい? このままタタリモッケを放置しておけば、負の瘴気はこの世に飛散して、より多くの者たちが八雲と同じ状況に陥る。負の念が負の念を呼び、やがて収拾がつかなくなる。それだけは避けねばならぬ」

「で、でも……」


 ミコトはいたたまれない気持ちであった。

 本当なら、まだ一〇八体のあやかしを祓っていないだの、教えてもらってない事が沢山あるなど、そんな事はどうでも良い。もっと言いたい事があった。一番言いたい事……。


(もっと一緒に居てほしい)


 お互いに憎まれ口を叩きながらも、一緒にいるうちにクズが居るという事が当たり前になっていた。そしていつからか、どことなく居てくれると安心感を覚える友達のような存在になっていた。


(だからこそ離れたくない)


 でも、その言葉がどうしても口から出て来なかった。


「確かにおぬしはまだまだ未熟……。しかし、今回の事でおぬしの心は格段に成長したとワシは思うぞ。それを見ることが出来ただけでもワシは良かったと思っておる。ここから先はミコト、おぬし次第じゃ」


 そう告げるとクズは「むんっ」と気合いをひとつ入れた。

 ふっとミコトの身体から何かが抜けた感じがした。


「ミコトよ……これからも様々な苦難が待ち受けておるじゃろうが、達者で暮らすのじゃぞ」


 ミコトのお尻から生えていた尻尾は既に消えている。

 そして目の前には自分の体と同じくらいの大きさはあろうかという真っ白な狐が立っていた。

 ただ純白の狐というだけではなく、黄金色の瞳と全身を白い光に包まれているような姿はなんとも神々しい。


(キレイだ……)


 これが葛の葉狐の本来の姿であった。

 これまで散々憎まれ口を叩いて来たあのクズが、このような美しい姿などと想像もしなかった。神の領域とも言えるその秀麗な姿容には思わず目を奪われる。

 ミコトはしばし、ぼぅっと見惚れていた。

 ミコトは気付いていなかったが、葛の葉狐が自分の体から抜けたのに、まだこの世のモノでない存在を見ることが出来ている。これも八雲の場合と同様で、長いこと葛の葉狐が自分の魂と一体化していたことで、彼女の残り香ともいうべき強い霊力が残されているためだろう。


「さぁて、まずは負の念から八雲の母を解放してやらねばな」


 葛の葉狐はミコトたちに背を向けると、体勢を低くして身構える。

 タタリモッケの方も葛の葉狐の姿を目の当たりにし、危機感を覚えたのだろう。四方に広がっていた影の触手が本体である大髑髏に集まり、威嚇するかのように葛の葉狐に対して攻撃の構えを取った。


「ふふん……悪しき心の者たちが凝り固まると、こうも醜い姿に成り果てるか……。人間の業とは底が知れぬのう。じゃが……」


 無数の影が葛の葉狐に掴みかかるかの如く、その禍々しい手を伸ばしてきた。

 しかし、彼女は危なげなく、それらの攻撃をヒョイヒョイと躱していく。躱しながら徐々に間を詰めていった。


「ワシがこれまで出会った者たちは皆、清い心の持ち主であった。皆一様に不器用であったり、己を制御できず、負の感情を抱いてしまったりするものじゃが、それは人が神や仏と違い、不完全な生き物であるが故……。それでも多くの者は己を律し、与えられた命の中で精一杯生きていこうと努めておる。そこな二人とて同じじゃ……」


 葛の葉狐は僅かに視線をミコトと八雲に向ける。しかし、誰に語っているのか、言っていることはまるで独り言のようであった。


「ワシはそんな不完全な人という者たちが愛おしくてならぬ。なればこそ、人の世を乱すモノはワシらの手で排除せねばならぬ」


 葛の葉狐は右前方にある墓石にピョンと飛び乗り、それを踏み台にすると勢いよく大髑髏の懐に飛び込んだ。


「悪業を重ねし魂たちよ……なおも浮き世にて罪業を重ねるつもりか! 自ら犯した罪に対して贖うこともせず、罪無き魂をその手で汚そうとは不届き千万! 不浄の輩が現世に戻れると思うな!」


 己の懐に向かってくる白い狐を撥ね除けようと影の触手が集まるが、刹那、葛の葉狐の全身がまばゆいばかりの光を放った。


「ううっ……!」


 その強烈な光にはミコトたちも目をあけていることができず、腕で顔を庇いながらギュッと目を閉じる。


 おおおおああああぁぁぁ…… 


 地の底から湧き上がるかのような不気味な呻き声が辺りに響き渡る。

 いや……それが果たして声であるのかどうかも定かではない。地鳴りのようであり、または無数に群がる人々が地を這いずり回りながら苦悶しているかのような……そんな声にも聞こえた。

 光が納まり、ミコトと八雲が恐る恐る目を開けると……二人の目の前には白無垢の髪の長い女性が立っていた。


「母さん……?」


 八雲は絞り出すような声で眼前の女性に問いかけた。

 ミコトにも見覚えはあった。いや、見覚えというどころか、何度も会ってよく知っている。紛れもなく、八雲の母親であった。

 彼女は薄く笑みを浮かべると、こちらに一礼する。

 言葉を発することは無かったが、「ありがとう」と言っているようだった。

 そして、八雲の表情を覗うように見つめて、ひとつ頷くと……そのままスゥーっと消えて行った。


「あなたはもう大丈夫……」


 そう言っているのだとミコトには感じ取ることができた。恐らく八雲にも伝わったはずであろう。


 八雲はひとこと……


「さよなら……母さん……」


 と、呟いただけだった。

 一方で、タタリモッケは依然として、その場に残っていた。しかし、先程とは明らかに様子が違う。

 大髑髏は完全に姿を消し、凝り固まった影だけが、あたかも一朶の雨雲よろしく不気味に蠢きながら宙に浮かんでいる。


「クズ……あれは……?」

「宿り木を失った亡者たちの集合体じゃ。もはや、形を維持することさえ叶わなくなっておる。が、それ故に一刻も早く、亡者どもをあちらの世界へ押し戻す必要がある」


 そうだった……。

 このまま放置しておけば、形を維持できない亡者たちは散り散りになり、より多くの犠牲者を生むことになる。それはわかっている。しかし……。


「そうするしか……無いのか?」

「うむ。もはや躊躇っている時間はない」


 そう告げるなり葛の葉狐は一直線に黒い影の塊に突進した。同時に影の背後にある空間がグニャリと歪み、やがてポッカリと大きな穴を空ける。

 その穴こそが、あちらの世界への入り口なのだろう。

 葛の葉狐は歯を食いしばり、渾身の力を振り絞って、亡者たちをその穴の中へと押し込もうとしている。

 亡者たちも必死に抵抗しているのか、影の塊はすぐに穴に入って行こうとしない。溺れる者が何かを掴もうと必死にもがいているかの如く、あらん限りの力で触手を伸ばそうとしているが、形が維持できない影の触手は伸ばそうとする度に霧散してゆく。が、影は黙って冥府に戻る事を拒み続けている。

 葛の葉狐ほどの霊威を持つモノでも、悪あがきをするタタリモッケを容易に押し戻せるものではないようだ。

 しかしながら徐々にではあるが、影の塊は穴の中へ確実に押し込められて行っている。


「葛の葉!」


 ミコトはたまらず叫んだ。

 こんな……あまりにも突然な別れが来るなど、考えてもみなかった。あれだけ煙たい存在だったのに、いざとなると別れたくないという気持ちの方が強くなってくる。


「フフ……おぬしがワシの名前をちゃんと呼んでくれるのは初めてかもしれぬのう……」


 葛の葉狐はさも可笑しそうに笑う。

 そしてひと言……ミコトの今にも泣き出しそうな顔を見て、誰に言うでもなく呟いた。


「人というのは、まこと面白き存在じゃ……」


 そしてさらに全身に力を込めた。

 影の塊はほぼ、あちらの世界へと飲み込まれている。が、完全に消え去ろうとした、ほんの一瞬であった。

 塊の中から小さな、小型犬ほどの大きさの影が抜け出し、あろうことかミコト目がけて猛進してきたのだ。


「しまった!」


 葛の葉狐がギリッと歯噛みする。しかし、もはや自身もあちらの世界へと消えて行こうとしており、戻ることは叶わない。


「なっ……?」


 虚を突かれたミコトは躱すこともできず、小さな影はそのままミコトの体へと吸い込まれるように消えた。

 次の瞬間、


「うううう……ああああああぁぁぁぁ‼︎」


 ミコトは地面に両膝をつき、発狂したように頭を抱えて叫ぶ。


「ミ、ミコト?」


 八雲はしゃがみ込んでミコトの顔を覗き込んだ。

 彼女は体を小刻みに震わせ、顔はまるで筋肉が弛緩したかのように涙とヨダレでグシャグシャになっている。

 八雲がいくら呼びかけても、彼女の耳には届いていないのだろう。ただ、ひたすらに、


「あ……ああ……」


 と、苦しそうに喘いでいるだけだ。

 その姿は精神崩壊を起こしてしまった者さながら、傍らにいる八雲には戦慄を覚えずにはいられないほどに常軌を逸していた。


「くっ……ここへ来て取りこぼしとは……」


 葛の葉狐は忌々しげに歯噛みする。


「八雲よ、よく聞くのじゃ。ワシはもはやミコトの心を救う事はできぬ。ミコトがおぬしにそうしたように、今度はおぬしがミコトに呼びかけて、彼女の心を救ってやるのじゃ!」

「で、でも、心を救うっていったい……?」


 八雲には何故、ミコトがこういう状況に陥っているのかがわからない。亡者たちから飛び出した負の念の欠片がミコトに取り憑いたという事だけは理解できる。が、ミコト自身をここまで苦しめるのには、負の念を増幅させる根本的な何か……即ち、普段は表に出てこない、心の底にある傷というものがあるはずだ。

 しかしながら、八雲にはミコトが心に負った傷というものに心当たりが無い。


「ミコトの手を握ってみよ。今のおぬしになら感じ取ることができるはずじゃ。ミコトの心の奥底に封印されし忌まわしい記憶というものがな」

「忌まわしい記憶……?」


 訳がわからないと言った風ではあったが、百聞は一見にしかずでもある。

 八雲は言われるまま、ミコトの手を握った。そして……


「う……。な、なんだ……これ……?」


 八雲の脳裏にそれはなんともおぞましい情景が流れ込んできた。

 それはあたかも、ノイズの混じった古い映画を見ているかのよう。しかし、もちろん八雲にこのような記憶は無い。それがミコトの記憶であることはすぐにわかった。

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