8 昔日の悲劇


 *

 辺りは暗い夜道。街灯はポツポツと立っているが、数は少なく、辺りに民家も無いせいか、ほとんど山道のようにも見える。

 しかし、この場所には八雲も見覚えがあった。

 このまま真っ直ぐに進めば小さなトンネルがあり、その先には藤野稲荷社の境内に上がる階段が見えてくるはずである。

 八雲が見ているものは、誰かの目を通して見ているようであった。

 自分の位置から小さな手が伸びている。どうやら自分は幼い女の子であるらしい。

 そして自動車の後部座席に座っていた。車でその暗がりを走っているらしい。

 運転席には一人の男性が座っている。短めの髪で、時折、ルームミラーに映るその顔は穏やかな好青年といった印象だ。

 彼は歌を歌っていた。同様に自分……即ち、幼い少女も拙いながらも、彼の歌声に合わせて一緒に歌を歌っている。そして時折、彼女は運転席の男性に向かって「パパ」と呼びかけていた。

 ありふれた親子の姿……。

 しかし、それは突如として彼らの身に降りかかった。

 車が丁度、トンネルの入り口に差し掛かったところである。

 右へ左へ、フラフラと方向の定まらない対向車が猛スピードでこちらに突っ込んで来たのだ。

 少女の父親はその対向車を避けようと慌ててハンドルを切る。が、躱しきれずに互いの側面を擦るような形で接触する。

 擦るとは言っても、相手は猛スピードで突っ込んできた車である。少女たちが乗る車は勢いよく弾かれ、二度、三度、反対側の側面をトンネルの壁に激しく叩きつけられた。

 その衝撃で助手席のドアウインドウが砕け散る。

 さらに車は制御不能に陥った戦闘機さながら、グルグルと回転し……そして、天地がひっくり返った。

 そこからはしばらく記憶が飛んでいたのだろう……急に映像が切り替わった。

 狭い空間……。自分の体は上下から何かに挟まれていた。とはいえ、完全に潰されている訳ではなく、這って進もうと思えば動けないこともない。

 自分の腹の下には粉々になった強化ガラスの破片が無数に散らばっている。

 僅かにオイルの臭いがする。


「パパ……」


 父親を求めて呼びかけるが返事は無い。

 本当なら、もっと大きな声で呼びかけたいのに、掠れた声しか出て来ない。

 体を動かそうとするが、体のあちこちが痛かった。


「パパ……」


 もう一度呼びかけ、運転席があると思われる方へ手を伸ばした。そして、人の体とハッキリわかる物に触れた。

 触れた相手が父親であるという事はすぐにわかった。その顔は確かに先程まで一緒に歌を歌っていた人物だ。が、その姿は本当に同じ人物なのかと目を疑うほどに変わり果てている。

 頭からは多量の血が溢れ、顔から襟元までを真っ赤に染めている。座席とハンドルに体を挟まれた状態であり、その体は異様な形に折れ曲がっていた。

 吐き気を催すほど無惨なその姿ではあるが、少女はただひたすらに「パパ、パパ」と彼を呼び続けた。

 既に事切れているのだろう。しかし、幼い少女にはそれもわかってはいない様子である。いや……知るにはあまりにも幼すぎた。

 父親の体を何度も揺り動かすが、当然、反応はない。

 死という概念を認識しているわけではないのだが、まるで返事のない父親に、少女はポロポロと涙をこぼし出す。


「パパァ!」


 一際大きな声で呼びかけたが、やはり反応は無かった。

 やがて、コツコツとこちらに近付いて来る足音が聞こえてきた。


「おい……ヤベェよ、これ……」

「大丈夫かぁ?」


 二つの声がする。どちらも若い男のようだ。

 そして、そのうちの一人が車内を覗き込んだのだろう。


「あ……女の子が生きてるぞ!」


 そう叫ぶなり、少女の体を力一杯掴んで車外へと引っ張り出した。


「パパァ!」


 少女は必死に父親の方へ手を伸ばすが、容赦なく車から引き離される。

 アルコールの臭いがした。

 八雲にはこれが、彼らの酒帯運転によって引き起こされた事故だという事がすぐに理解できた。


「まだ中にいるのか?」


 少女を抱いている男が尋ね、もう一方の男がしゃがみ込み車内を確かめる。そして、首を振るなり、


「マズイなぁ……。ありゃ死んでるみたいだ」


 まるで他人事であるかのように無責任に言い放つ。


「それより、ガソリン臭くねぇか?」

「あ! 火が出てる! ヤベェ、逃げるぞ!」


 二人は慌ててその場を離れようと駆け出した。


「パパァ! パパァ!」


 少女は遠ざかる車に手を伸ばしながら、何度も叫ぶが、やがて……。

 ドオォン!

 今し方、少女が乗っていた車に大きな火の手が上がった。

 ひっくり返り、鉄くずのようにひしゃげてしまった車は、彼女の父親をその体内に抱えたまま紅蓮の炎に包まれる。

 その瞬間……少女の心に何か強い否定の意思が生まれた。

 その思いは八雲にも感じ取る事ができた。しかし、それは八雲でさえも今まで味わった事のない感覚……。


(これは嘘の世界……。現実には起こっていない……)


 そう言っているかのように、心の中にある物事を全て抹消しようとしている。まるでそれまで見てきた光景が、ろうそくの火を消して行くかの如く、フッ……フッ……と消滅してゆく。

 全てがかき消されてゆく……全てが無かったことであるかのように……何もかもが真っ暗な闇の中に消えていった。

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