エピローグ

 八雲に宿っていたタタリモッケが祓われてから丸一日が経った。

 今日も学校があり、ミコトは決まり事のようにいつもの茶の間で母と弟、祖父の四人で朝食を取っている。いつもの何の変哲もない日常が戻っていた。

 あれほど雨に打たれてずぶ濡れになっていたのに風邪をひかなかった事は不幸中の幸いだったと思う。

 ミコトのお尻から生えていた尻尾も今はもう無い。


「じゃあ、私は先に出るわね。あなたたちも遅れないようにしなさい」

「はい」

「うん」


 普段の出勤時間まで、まだ余裕がありそうなのに、静江は慌ただしく家を飛び出して行った。


「ママ、どうしてあんなに急いでるんだろう?」

「職員会議だって。昨日、夕飯のときに言ってただろ」

「そうだっけ?」


 我が弟ながら、相変わらず人の話を聞いてないな……と思う。


「あ、ぼくも今日は日直だったんだ!」


 今になって思い出したらしく、リュウトは朝食の食器もそのままに、慌てて席を立つと彼にしては珍しいくらいの早さで家を飛び出して行った。


「まったく……あいつはもう少し喝を入れてやらないと駄目だな……」


 ミコトは特にいつもと変わらないので、普段通りに朝食を済ますと傍らに置いてあった鞄を手に立ち上がった。

 が、妙に視線を感じる。ふと、祖父の方へ目をやると、彼はじっとこちらを見つめていた。


「ど、どうしたの? おじいちゃん」

「いや……。どうやら悩みは解消されたようだな」

「え? う、うん……」


 どうして悩んでいたと知っているのだろう? 確かに妖怪についての質問はしたが、悩んでいるという事はひと言も言った覚えはない。


「あ、あの……どうして、あたしが悩んでたと?」

「ん? おめぇにしちゃあ、珍しく腐ってたからな。今朝は久しぶりに晴れやかな顔に戻ってる。長年、おめぇと一緒に暮らしてるんだ。それくらいの事、気付かない俺じゃねえさ」


 まあ、そう言われれば納得だが、それにしてもこの祖父には何もかも見透かされている気がする。自分たちの事は全てお見通しなの

 ではないかという気すらさせる。


(やっぱり、おじいちゃんには敵わないなぁ……)


 ミコトにとって母と同様に頭の上がらない相手。結局は祖父がそういう人物だからという事にあった。


「こんなところで油売ってると、おめぇも遅刻するぞ」

「あ、うん。行ってくるね」


 ミコトはそそくさと逃げるように出て行った。

 居間に一人取り残された平造は、ふぅっとタバコの煙をくゆらす。


「まだまだなところはあるが、おめぇの死を本当の意味で受け容れる事が出来ただけでも大きく成長したようだな……」


 答える声は無い。

 しかし、平造は何かに反応するように、「クックッ……」と笑った。


「俺にあちらのモノが見えている事を伝えなくて良いのかだぁ? 必要ねぇよ。それをミコトに伝えたところで何の意味もねぇ。元々、普通の現代人には見ることのできねぇ存在だ。必要以上にあちらのモノと関わってはならねぇもんだろ? ならば、あいつにもこれ以上、関わってもらいたくはねぇし、あちらとの接点が身近にあることを教える必要もねぇさ」


 平造は全て知っていたのだ。

 彼と話をしているのは……恐らく平造自身以外に知る者はいないだろう。


「俺はおめぇの代わりに、ミコトやリュウトを見守ってやれば良い。それだけさ……」


 短くなったタバコを灰皿に押しつけると、平造は縁側から望める広い庭を遠い目で眺めていた。

 庭に植わっている桜の木も、花はほとんど散ってしまい、そろそろ新緑の季節を迎えようとしていた。



 ミコトは英語の単語カードに目を通しながら学校へと向かっていた。

 近々、英語の小テストがあるという事で、その対策には余念が無い。が、ずっと単語カードを見ながら歩いていたものだから、


「ぶぎゃっ!」


 前方不注意で前を歩く誰かとぶつかる。全く無防備な状態で顔面をぶつけたので、カエルの潰れたような声をあげてしまった。


「……ったぁ……」


 ミコトは思わず鼻を押さえて顔を上げた。


「ん? あ、ミコト。大丈夫?」


 ぶつかった相手は八雲であった。彼は苦笑いを浮かべながら、ミコトを気遣って顔を覗き込む。


「うう……。おまえ、後方不注意だぞ!」

「そ、そんな、ご無体な……」


 責任転嫁。ほとんど言いがかりと言っても良い。それでも、いつものミコト節が戻っているようなので、八雲は安堵の表情を浮かべた。

 そして二人は並んで歩き出す。


「今回はミコトとあの白い狐に助けられたよ。ありがとう」

「う……」


 突然、お礼を言われた事に照れ臭くなったのか、ミコトは頬を薄桃色に染め、


「ふ、ふんっ……当然だな」


 そんな減らず口を叩いた。が、顔色を悟られぬよう、八雲に視線を向けず顔は前を向いたままだ。


「何と言っても、あたしは完全無欠の絶対王者だからな! はぁ~っはっはっはっはっ!」


 などと、例によって高笑い。尊大な態度も健在だ。


「ミコトも元気が戻ったみたいで良かった」

「う……」


 それを言われると弱い。ミコトはさらに顔を赤くする。

 八雲とて嫌味でミコトの痛いところを衝いているわけではないのだが、ミコトにしてみれば人前で取り乱した事など汚点でしかなく、当然、思い出したくもない。

 あの場では八雲を助けるのに必死で、自分の心に従って素直な思いを口にしていたが、長い間染みついていた尊大で、決して他人に弱みを見せようとしない態度というものは、そう簡単に無くなるものではない。

 それどころか八雲に対して決定的な事を言ってしまった気がする。その事を思い出しただけでも顔に火が点きそうなくらい恥ずかしい。できることなら、その部分だけでも無かった事にしたい。そんな思いがミコトの中で忙しなく駆け巡っていた。

 八雲がさらに何かを続けようとすると、


「う、うるさい!」


 と、急に怒り出し、八雲の膝を蹴飛ばした。


「痛っ! な、なんだよぉ……」

「あのときの事は忘れろ! 記憶から抹消しろ! あれはおまえの見た夢だ! 幻覚だ! 今すぐ忘れろ! 一〇秒以内に忘却しろ!」


 矢継ぎ早にまくし立てた。


「相変わらず、無茶苦茶言うなぁ……。でも、困ったときは、やっぱり支え合わないと……」

「黙れ! 助ける役はあたしだ! あたしは人に助けてもらう必要なんて……」


 無い……と言おうとして、言葉を呑んだ。

 どのような思惑があったのかはわからない。それでも……ミコトはそれ以上、頑なに否定しようとはしなかった。


「とにかく、あたしはあのクズって迷惑な狐が居なくなって清々してるんだ。あいつが居たときの事なんて思い出させるな」

「そっか……」


 相変わらず不機嫌そうだったが、それでもどこか……いままでのミコトとは違う。そんなふうに八雲には感じられた。


(やっと元通りの生活に戻ることができたんだ。これで良い……)


 ミコトが己の心にそう言い聞かせていた、その時だった。


「なんじゃ? つれないのう」


 ミコトの頭の中に響いてくる声。耳障りな……でも、妙に安心感を覚える少女のような声。

 ミコトの体に、ふっと何かが入り込んで来た感覚があった。


「なっ……?」


 お尻に違和感がある。


「ミ、ミコト……そ、その尻尾……何?」

「えっ?」


 八雲に指摘され、ミコトは慌てて自分のお尻を見る。そこには以前と同じ、白いフサフサとした尻尾が生えているではないか。


「な、な、なにぃぃっ!」

「ほほう……八雲にはまだ、その尻尾を見るだけの力が残っておったか。これは興味深いことじゃ」


 などと、慌てふためくミコトを尻目に、声の主はマイペースにカラカラと笑う。


「クズ……な、なんで?」

「なんで……とはご挨拶じゃのう。おぬしに与えた課題はまだ終わっておらぬからのう。こうして舞い戻って来てやったのじゃ」

「いやいやいや! だって、おまえ……あちらの世界に行って戻って来られないんじゃ……」


 ミコトはほとんど半狂乱といって良いほど取り乱している。ミコトや八雲とは別の通学中の学生たちが、その様子を好奇の目で見ながら通り過ぎて行く。

 八雲はそんな彼らに、「何でも無いよ」と誤魔化すのに必死だ。


「戻って来られないと明言した覚えはないがのう……。しかしまあ、そう容易くは戻って来られぬだろうとは思っておった。が、地獄の門番が意外にも話のわかる奴でのう。こうして戻って来られたわけじゃ。ありがたく思うが良いぞ」

「要らんわ!」


 ミコトはクズ本人に当たることもできず、人目も気にせず地団駄を踏んだ。


「おぬしはまだまだ未熟じゃからのう。なんなら、八雲との仲を取り持ってやっても……」

「うがぁぁ! とっとと出て行けぇぇ!」


 ミコトの嘆きが日だまりの中にこだました。

「あはは……」


 そんな彼女に八雲は複雑な表情で微笑みかける。

 きっと、これからもこの女の子に振り回され続けるであろう事を知りつつも、それが変わらず続く騒々しい今、そしてこれからに感謝しながら……。


                                 完

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