2 妖怪談義

 結局、その日はそれ以上の異変が起こることもなく、ミコトはいつも通りに帰宅した。

 しかし、八雲のことはやはり気懸かりであった。八雲からあやかしの妖気が発せられているということはどういう状況を意味するのだろう?

 八雲から発せられていたとは言っても、八雲の近くにあやかしの姿は見られなかった。通常、人があやかしに憑かれている場合、その人のすぐ近く、あるいは肩に負ぶさっているような事が多い。つまり、今のミコトであれば、その姿を視認することはできるのだ。

 だが、そのあやかしの姿が見られないとなると、どういう事が考えられるのだろう?


「クズ……」


 部屋で勉強机に向かいながら声をかける。が、彼女からの返事はなかった。

 そう言えば、そろそろクズは眠りにつく頃合いだ。三日起きて、二日眠るというサイクル……。つまり、これから二日間はいくらこちらが呼びかけても、クズからの応答は無くなる。


「……ったく、タイミングの悪い奴だなぁ」


 こうなっては聞きたい事も当分聞くことができない。


「誰か相談できる相手がいれば良いんだけどなぁ……」


 ミコトにしては珍しく弱きな発言だった。ふと、その事に気付き、邪念を振り切るかのようにブルブルと首を振る。


(完全無欠であるはずの、このあたしがそんな弱腰でどうする! ああ、クソッ!)


 そうやって自らを奮い立たせてはみたものの、やはりあまりにも情報不足である事は確かだ。

 困り果てて机に突っ伏すと、何気なく、すぐ脇の本棚に目をやる。そして、ある本に目が止まった。

 それは随分と日焼けして、ほこりを被ったくたびれた本。『妖怪大図鑑』と書かれている。ミコトが幼い頃に祖父の平造から買ってもらった子供向けの妖怪図鑑だ。


「まだ、こんな本残ってたのか……。そういえば小さい頃、こういうお話に興味あったんだっけ……」


 今は特に興味があるわけでもないが、懐かしさも働いてか、気晴らしにその本を手に取ってみる。裏表紙に黒いサインペンで『つくば みこと』と書いてあった。いかにも小さい子供が書いた実に拙い字で、昔の自分が書いたことながら可愛く思えた。

 ミコトは「クスッ……」と笑うと、ペラペラとページを捲っていく。そして、あるページで手が止まった。


〈人が妖怪になってしまうお話もあるんだよ。鬼婆になったり大蛇になったり、色々なお話があります〉


 そう書かれていたのだ。

 挿絵は子供向けということもあってか、おどろおどろしさは無く、いわゆる昔話の絵本にあるような優しいタッチで描かれているが、やはりそれでも幼い子供が見るには少々怯えてしまうような……人が鬼婆に変身して

 いく姿がわかりやすく描かれていた。


「人が妖怪に……。ま、まさかな!」


 そんな馬鹿な話があるはず無い。そう自分に言い聞かせるが、かと言って確証があるわけでもない。

 むしろその事が八雲の件とダブって見えて、最悪の結末が脳裏に浮かぶ。心の中にどんよりとした暗雲がむくむくと膨らんで行き、かき消そうとしても不安だけが広がっていく。


「そうだ!」


 ミコトは思い立ったように立ち上がると慌ただしく部屋を飛び出した。



 一階の居間ではミコトの祖父、平造がちゃぶ台に向かって何やら物書きをしていた。灰皿にはほとんど灰だけになったタバコが忘れ去られたかのように、頼り無い煙を上げている。

「おじいちゃん」と、声をかけることもなく、ミコトは無言で彼の向かい側に座った。

 平造の方もミコトを一瞥するだけで黙々と書き物に集中している。何点かある別の資料をもとに書き進めているようだ。

 資料の方には『今昔物語集こんじゃくものがたりしゅう』、『元亨釈書げんこうしゃくしょ』、『道成寺縁起絵巻どうじょうじえんぎえまき』とあった。

 ふいに平造が、


「なんだ?」


 と、顔も上げずに尋ねる。


「何か用があって来たんだろ?」

「う、うん……」


 ミコトは少々躊躇っていた。

 これまでの事を洗いざらい全て話すつもりは毛頭ない。かと言って、質問したい内容があまりにも突飛で、変な目で見られそうな気もする。そのため、どう切り出したものか……と思案していたのだ。


「あやかしに関する質問なら、わかる範囲で答えてやる」

「えっ?」


 全く予想もしていなかった、あまりにも意外な言葉にミコトは完全に虚を突かれた形となった。


(見透かされてる?)


 しかし、これ以上平造の言葉を待っても、こちらから言葉を投げかけない限り、彼の口は開きそうになかった。


「おかしなことを聞くと思うかもしれないけど……人が妖怪になることってあるの?」


 返事が返ってくるまで間があった。それはほんの一〇秒ほどだったのだろうが、ミコトにはそれが一時間にも二時間にも勝るくらい長く感じられた。


「今な……まさにおめぇが言った事と同じような内容の説話に関しての考察を論文にしている」

「説話?」


 どうやら、何点か並べられている資料の内容を比較しているようであった。が、それらはどれもミコトが質問した、いわゆる人が妖怪に変じるといった内容のお話が書かれているらしい。


安珍清姫あんちんきよひめの話は知ってるか? 浄瑠璃や歌舞伎の題材にも使われている話だ」

「あんちん…きよひめ…???」


 ミコトは知らないと答える。さすがに浄瑠璃や歌舞伎までに興味を持ったことはない。


「大まかな話はこうだ……」


 そう言って資料のひとつを開いて見せた。それには浮世絵のような挿絵も入っているが、文章は行書体で書かれているうえ、どうやら文体も昔のものであるらしく、ミコトにとってもそれは難解であった。

 当然、平造もミコトには難しいという事は理解しているらしく、口頭で語り出す。

 熊野詣での最中であった若い僧侶安珍に清姫が恋心を抱き、安珍は「帰途、あなたのもとに立ち寄る」と約束をしたのだが、結局、彼は清姫のもとに立ち寄る事は無かった。そのことに腹を立てた清姫は怒りによって大蛇に身を変じ、安珍の後を追う。そして、道成寺の釣鐘に隠れていた安珍を鐘もろとも焼き殺してしまった。


「資料によって、多少の違いはあるが、こういった内容が通説だ」

「ほとんどストーカーだ……」


 ミコトは苦笑いして呟く。


「現代風に言や、そういう事になるな。要は……」


 平造は新たにタバコに火を点けると、粒子の粗い煙をくゆらす。


「人は心に抱く感情によって、鬼にも化け物にもなるという事さ。負の感情をいつまでも抱き続けることは悪の道に踏み込むことになるといった、言わば道徳教育の材料として妖怪が使われたって訳だな」


「道徳教育かぁ……」


 それならわからないでもなかった。今ほど様々な知識が溢れていなかった時代、未知の存在が信じられていた時代などでは、こんな悪さをすると鬼や妖怪などに出くわしたり、あるいは妖怪そのものになってしまうといった、未知の存在から受ける恐怖心を利用して教育を施すという手法も画期的な手段だと頷ける。しかし……。


「でも、人が妖怪になるのって、怒りや恨みといった感情が原因なんでしょ?」

「負の感情ってのは、なにも怒りや恨みだけじゃねぇ。悲しみ、絶望、猜疑、慳貪……そういったもの全てが負の感情だ。この清姫に関しても言うなれば執着という負の感情であり、仏教の教えで言えば十悪業でもある。仏教世界の視点で見れば畜生道や餓鬼道、地獄に堕ちるなんて話さ。例えば……」


 平造はタバコの灰をポンッと灰皿に落とすと、背後に無造作に置かれた鞄から一冊の本を取り出した。紫紺の表紙には『安達ヶ原』とあった。


「これは能の演目にもなっている話でな、安達ヶ原あだちがはらの鬼婆の話だ」


 平造は「知っているか?」という視線をミコトに送るが、無論、ミコトが知るはずもない。彼女は首を横に振って、祖父の言葉を待った。


「少々残酷な話なので掻い摘まんで話すが……岩手という老婆が生き別れになった実の娘と知らずに娘を殺害してしまい、その事実を知って鬼婆になってしまうという内容だ」

「つまりそれは、絶望から鬼婆になったっていう事?」

「まあ、岩手がそれまで行ってきた事が妊婦を次々殺すといった行為であったから、すでに化け物じみてはいたんだが、要は娘と知らずに殺害したことで悲しみ、絶望した事が化け物に変じるきっかけと言って良いだろうな」


 詳しい内容は知らないが、どうにも気味の悪い話のようだ。


「疑心暗鬼を生ずって言葉があるだろう? あれだって同じ事さ。疑心があるとあたかも鬼が暗がりに居るように思えてくる。それは転じて、疑うことによって猜疑という化け物を心に生み出すという事でもあるんだ」

「じゃあ、妖怪っていうのは人の心と密接なつながりがあるっていう事?」


 すると平造は先程の『安達ヶ原』という本を畳の上に置くと、再び書き物の続きに取りかかった。そして、咥えタバコのまま、顔も上げずに話を続ける。


「全てがって訳じゃねぇが……大方はそう理解して良いだろうな。少なくとも江戸時代に入って妖怪譚が人々の娯楽に変化して行くまでは、人の心に巣くう負の感情ってやつが妖怪を生み出すもとになった話が多い」

「そうなんだ……」


 ミコトは俯いて、スンッと鼻息をもらす。

 まだ何とも言えないが、もし八雲自身があやかしになろうとしているのであれば、考えられる原因はひとつだ。


(お母さんを失った事が原因の喪失感と絶望感か……)


 こればかりは厄介な問題だ。

 これまでミコトたちが何をしても、彼の心が癒える事は無かった。八雲が立ち直るには、八雲自身が自分の気持ちに整理をつけなければならない。しかし、今の彼は立ち直るどころか、ますますふさぎ込んでいる始末。


(どうしたものかな……)


 ふと、ミコトは視線を感じて顔を上げた。

 見れば平造がペンを止めて、じっとこちらを見据えている。


「お、おじいちゃん?」

「……まだまだのようだな……」


 そう言って視線を下ろすなり、またペンを走らせる。


「ん?」


 何が「まだまだ」なのだろう? と、ミコトは首を傾げるが、平造はその事に関して一切触れることはなかった。

 ミコトは茶の間をあとにしようと立ち上がり出て行こうとするが、最後に一点だけ気になる事があり、顔だけ平造に向けて尋ねた。


「おじいちゃん、あたしがこんな質問する事に気付いてたの?」

「あん?」


 平造は怪訝な顔をこちらに向ける。


「だ、だからつまり……妖怪の事を質問するって気付いてたような口振りだったから……」


 ミコトはどことなく気まずそうに目を泳がせる。


「昔からそうだろう? おめぇが俺に聞く事といやぁ、あやかしの事って相場が決まってる」

「あ……」


 言われてみれば、そうだったかもしれない。

 まだ、ミコトが幼く、平造とよくおしゃべりしていた頃……ミコトが祖父にする質問と言えば、決まって妖怪の事だった。ある程度成長して思春期を迎えた頃には妖怪への興味も薄れ、次第に祖父と話をする機会も減っていったように思える。


(こうやっておじいちゃんとちゃんと話をするのって、かなり久しぶりだったかもなぁ……)


 ミコトは幼く無邪気だった自分を思い出し、ウフッと可愛らしい声を漏らして笑う。


「なんだ?」

「ううん。おじいちゃん、ありがとう」


 少し照れ臭そうに笑いかけると、逃げるように二階へと上がって行った。

 そんなミコトの消えた先を見つめながら、フッと平造はため息をついた。


「あの様子じゃあ、まだまだだな……」

 

 しばし沈黙が続く。そして、


「なぁに、ここが正念場だろうが心配はいらんさ。お狐さんに任せておけば良い」


 周囲には誰も居ない。無論、平造の言葉に返す声も無い。


「おめぇも心配性だな。ちと癖のある奴らしいが、まがりなりとも神さんの眷属だ。それにあの歴史に名を残す陰陽師、安倍晴明の母親でもある。お手並み拝見と行こうじゃないか」


 そう言って薄く笑うのだった。


 

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