第2話 見知らぬ雷
――夜中。私は存在の基点となる家の二階、シンの部屋にいる。外では雨が降っているけれど、部屋の中にいるから眼には見えない。でも、こうして壁に寄りかかって耳を澄ましていると、窓を叩く雨粒の音や車のタイヤが水を跳ね上げて行く音が聞こえる。だから雨が存在していると分かる。雨は確かに存在している。
自分の存在についての話しは厄介だ。話すのが難しい。私は昨日から、自分の存在についての話しをしているけれど、いざ話し始めてみると何をどこから話したらいいのか分からないし、どう話しを区切ったら良いのかも分からない。昨日の話しも中途半端なところで終わらせてしまった気がする。シンのことについても、シンと私の関係性についても全然説明していなかったし。
そもそも、なぜ自分の存在についてあなたに聞いてもらいたいと突然思ったのか自分でも良く分からない。今まで長い時間そんなことを思わなかったのに。でも、私は自分のことを聞いてもらいたいと強く思っている。――よし、思うままに話そう。手探りになるだろうけれど前に進んでいこう。私に付き合って欲しい。
シンはベッドの上で横になったまま身じろぎもしない。仕事のあと、同僚とお酒を飲んで帰って来たシンはまだ背広のまま。――眠ってはいない、ぶつぶつと何かを呟いている。考え事をしているのか、部屋の電気も消さず二時間程そのままでいる。
シンは高校を卒業した辺りから独りごとが多くなった様に思う。頭の中で黒須ルカと会話でもしているのだろうか? 高校時代の恋人、黒須ルカと……。
シンは現在二十五歳。新宿の小さな人材派遣会社で正社員として働いている。元々は正社員ではなく、ただのアルバイトだった。でも、この会社の社長に気に入られ、大学を中退したと同時に正社員として雇われる事になった。基本は営業職だけれど現場で肉体作業をしたり、イベント会場で物を売ったりと必要な仕事は何でもこなす。他の社員からの信頼も厚く、シン自身も家庭的な雰囲気のこの会社を気に入っている様に見える。
窓が少し開いていて風が入って来る。幸い雨は入ってこないけれどシンは少し肌寒いだろう。でもシンは風邪を引きはしない。別にシンの身体が丈夫だからではない。むしろ、シンは風邪を引きやすい。でも私はシンが風邪を引かないと知っている。
私はシンの誕生から死までの出来事を全て知っている。シンは一九九〇年九月九日の午前三時〇七分に生まれ、二〇一五年九月二十三日の午後一時三十分頃に死んでしまう。享年二十五歳、約二十五年の人生……。私はこの期間にシンに起きた事を全て知っている。私はシンが生きている間、ずっと離れず傍にいるから全てを知っている。
シンは「私を規定する存在」と言ったけれど、シンが死んでしまうと私の時間もそこで終わり。シンは私の生きられる時間も規定している。私はシンが生まれてから死ぬまでの約二十五年の間しか存在出来ない。シンの生きている間だけ私も存在出来る。私はシンの生きている間ずっとシンの傍にいたから、シンの全てを知っているのだ。
私の話し、論理的におかしいでしょ? 今、もしかするとあなたは私に反論したくなっているかもしれない。それはこんなふうにじゃないかな?
「シンは二〇一五年の九月二十三日に死んでしまう。アナはその死を知っている。その話しを信じるならば、シンは既に死んでいる筈。アナがシンの死を知る為には、シンは死んでいなければならない。そしてアナはシンの生きている間だけ存在するのだったら、アナも既に死んでいる筈。シンが既に死んでいるならアナは存在出来ない。でも今、シンもアナも生きている。シンはベッドで横になり、アナは話しをしている。話しが矛盾している。二人は死後の世界にでもいるの? 二人とも死んでしまい幽霊として生きているの?」
……こんな風に思っていない? こう考えても全然おかしくない。でも私は嘘を言っているわけではないの。私とシンは死後の世界なんてところにはいないし幽霊ではない。そもそも私には、「死」という終わりがあるのかどうかも定かではない。
どういうことか説明するね、作り話しではないから信じてほしい。私はシンが誕生した瞬間から、シンの傍で十四歳の少女のまま過ごしていく。そしてシンの誕生から二十五年経ちシンが死んでしまうと、私はシンが誕生する場面まで戻り、再度シンの傍で過ごしていく。こうして私は、シンの約二十五年の人生を既に百二十回繰り返して生きているの。――百二十回、要するに三千年。私はシンの傍で三千年という長い時間存在しているの。樹齢が二千年以上と言われる屋久島の縄文杉よりも生きている時間はおそらく長い。人間の寿命が八十年だとしたら、私はその約三十八倍の時間生きている。それも全く歳を取ることもなく……。私の身体は成長もしない。身長も百五十センチのままで髪の毛も爪も伸びる事がない。
私の存在はいつまで続くのか全く分からない。もしかしたら永遠に続いていくのかもしれない。不老不死の無限ループ。――あぁ、主体性なんてまるでない存在なのに! 神の意図はどこにあるのだろう!
そういうことだから、私はシンがいつ死んでしまうか知っているし、私はシンが死んでしまっても死にはしない。私はシンの生きている時間をずっと繰り返して存在しているの。だから私の話しは矛盾しないし嘘でもないの。こんな私の存在、出来れば嘘であってほしいけれどね……。
雨が強くなってきた。窓を叩く雨粒の音も大きくなってきたし、窓を覆うカーテンも風
で波打って揺れている。雨粒も少し部屋の中に入ってきてしまっている。壁に掛けられた時計の針は十一時三十二分〇四秒を指している。そろそろ暗い部屋全体が一瞬白く光り、地を裂くような凄まじい音が轟く頃。それは雷の光と音。雷は、シンの家から五十メートル程離れた小さな公園の片隅にある道祖神に直撃する。お地蔵さんの姿をした道祖神は、衝撃で胴体と頭が真二つになって吹き飛んでしまう。吹き飛んだ胴体は公園の砂場で、頭はシンの家の庭にある柿の木の上でそれぞれ発見されることになっている。
次の日――要するに明日、近所の人たちが道祖神のあった場所に集まり、ぬかるんでいるけれど黒く焦げた妙な地面を見ながら、「良くないことがあるかもしれない」等と口ぐちに言い合っているのを私も見ている。
道祖神にとっては災難かもしれないけれど、私は少し羨ましくも感じる。道祖神の頭と胴を切り離した様にシンと私の存在も切り離してくれるのなら、私にも雷が直撃して欲しいと強く思う。
私はシンの傍にいる事になっているという話しは前にもしたと思うけれど、これはシンの傍から物理的に離れられないという意味なの。――精神的な話しではなく物理的に。
私はシンと同じ空間内でしか存在することが出来ない。シンから離れ一人で自由に動きたくても、ある一定の範囲内でしか自由に動くことは出来ない。シンが私のいる空間から離れた瞬間、私はシンと同じ空間に強制的に瞬間移動させられてしまう。
――そうだ、私の「移動」がどんなものか、実際に見たら良いのだ。百聞は一見にしかずと言うし。……少し待って。立って待ち構えていよう。
十一時五十分三十秒、三十一秒、三十二、三十三、三十四、三十五! ――今、部屋全体が白く光った! そして轟音! 身体中がびりびりとする。何度体験しても、世界の全てが自分に向かってくる様な迫力だ。
シンが跳ねる様に飛び起きた。「何! 何!」って叫びながら乱暴に窓を開ける。いつもの動き。シンは横になっていただけで眠ってはいなかったのでびっくりしただろう。風と雨粒を顔面に受けながら、窓から身を乗り出してきょろきょろと外を眺めている。――物が焦げた様な臭い。シンの鼻がひくひくと動いている。シンも臭いを感じているのだろう。
柿の木の枝には道祖神の頭が挟まっている筈だけれど暗くて確認出来ない。シンも全く気付いてはいない様だ。
因みに今、私はシンの顔から数十センチという近い距離でシンの顔を眺めているのだけれど、シンが私に気付くことはない。シンには私の姿は見えない。
「どっかに落ちたな、雷」
シンはいつもの様にそう呟くと窓を閉める。そして、私をスリ抜け歩きだす。
人間は私に触ることが出来ない話しはしたよね? 全ての人間は私をスリ抜けてしまうの。今、私はふざけてシンのお尻を蹴り上げようとしてみたけれど、それも勿論当たらずスリ抜けてしまう。人間と私は光と同じ、重なり合う。
シンはベッドの枕元に乱雑に置かれていたフェイスタオルを手に取り、頭と顔を拭き始める。いつもお風呂上がりは頭をドライヤーでは乾かさずフェイスタオルで拭いて乾かしているから、枕元にはそのフェイスタオルが置かれたままになっていることが多い。因みにシンの母の黒井ケイコは毎回ドライヤーで頭を乾かしているみたい。――こんなことはどうでもいい。話しは今から。
シンは首にフェイスタオルをかけると部屋のドアを開き廊下に出て行く。シンがドアを開け放ったまま、廊下という空間に移動し視界から消えた――
――瞬間! 私の身体は、トイレに向かって廊下を歩いているシンのすぐ後ろに「移動」している。
シンが廊下側にあるトイレの電気のスイッチを点けドアを開き中に入る。シンがトイレのドアを閉める――
――瞬間! 私は立ったまま用を足そうとしているシンの真後ろに「移動」している。
トイレのドアが閉まる事で、トイレという空間と廊下という空間が切り離される。その瞬間、私は廊下という空間からトイレという空間へ強制的に「移動」させられてしまう。
トイレは空間として狭い。シンの背中の側と私の正面の側は少し重なり合っている。もし空間が人間一人分のスペースしかない場合は、シンと私の身体はほとんど重なり合うことになるだろう。
用を足し終えたシンはトイレの外に出てドアを閉める――
――瞬間、私は廊下にいてシンの背中を見ている。
シンが部屋の中に入りドアを閉める――
――瞬間、私は部屋の中にいて、ベッドに向かって歩いているシンの背中を見ている。
分かってもらえた? 私はシンのいる場所に合わせて存在が展開していくの。逃れたくても逃れられない。私は三千年もこんな事を繰り返している。
因みに同じ空間内でも、シンと私の距離が大きく離れてしまうと、私はシンの傍に強制的に移動させられてしまう。私とシンが離れられる距離はせいぜい三十メートル程度。
ただし、この三十メートルという距離は、シンと私の間に障害物もなくさらに明るい場所においての条件。暗い場所ではせいぜい五メートル、真っ暗な場所では一メートルも離れられない。なぜかは分からない。……これも神の気まぐれなのかな?
そろそろ日付が変わる頃。さっきの風雨が嘘の様に今はどちらも止んでいる。そろそろシンが眠りにつく頃だ。でも私がまだ起きているという事は、シンはまだ眠っていないという事。
私はシンが眠ると同時に眠りにつき、シンが起きると同時に私も起きる。――いや、こう言ってしまうと実際の感じが伝わらないか。私は人間と同じように眠ったりはしない。人間は横になってだんだんと眠りにつくのだと思うけれど、私はシンが眠る瞬間に意識がなくなり、シンが起きると同時に私の意識は戻る。ほんの一瞬の出来事、眠ったという感覚はない。でも、これが私にとっての「眠る」ということなのだと思う。
この意識がない間に――
――突然、部屋全体が白く光った! 凄まじい轟音! ……何これ! いや、雷に驚いたのではない。いやいや、雷に驚きはしたのだけれど、驚いた理由は音や光に対してではない! シンの人生の中でこんな事が起きるのは初めてだ! シンの人生を百二十回も見てきているけれど、今日、二〇一五年九月二十二日の夜中にあった雷は一度だけの筈。記憶違いなどあり得ない! ……どういうこと! 何かがおかしい! 初めて通常ではない出来事を私は今、経験している!
日付が変わった。二〇一五年九月二十三日。――シンにとっての運命の日。どんな日かって? 今から約十三時間と三十分後、シンの命が尽きる事になっている。今日はシンがバイクに跳ねられて死んでしまう日――
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