第4話 いつもとは違うシンの死

 シンは加速と減速を繰り返し、曲がりくねった坂をどんどん下っていく。薄暗く道幅も狭い坂には所々ぬかるんだ個所もあるけれど、シンは上体を低くし、上手く障害物を捌きながらライン取りをしてコーナーを攻めていく。

 普段、峠を下る時のシンはこんなにスピードは出さない。むしろかなりゆったりとしたスピードで安全に下っていく。でもこの日はなぜか無表情のままでロボットの様。これは通常通りの出来事だけれど、なぜこんな下り方をしたのか、こんな表情をしていたのか今でも良く分からない。

 私は、シンがコーナーを曲がり、視界から消えた際に起きる瞬間移動を繰り返して移動している。さすがに特異な存在の私でもシンの後を走って追いかける様な芸当は出来ない。トップスピードはどれくらい出ているのだろう? 相当なスピードの筈。

 突然、ロードバイクの後輪が、「ブシュ!」と大きな音を立ててガタガタと揺れだした。一瞬バランスを崩しかけたシンだったけれど、上手くリカバリーして緩い右コーナーを抜けた。

 シンはガタガタと揺れるロードバイクを停めるとサドルから下りた。後輪を調べるとタイヤの空気が抜けている。――パンクだ。これはロードバイクに乗っているとよくあるトラブルで、この出来事自体もいつもの出来事。

 シンは無表情のままアイウェアを外すと、二本のつるの部分をヘルメットの通気孔にそれぞれ固定しヘルメットを脱いだ。タイヤのチューブを交換するのに邪魔になると思ってヘルメットを脱いだのか、単純に暑くて脱いだのか分からないけれど、このヘルメットを脱いだ事がシンの命取りになる。

 シンはヘルメットを道路の脇に置いた。そして、サドルの後ろにくくり付けている小さな黒いバッグを開けた。シンはそこから新しいタイヤチューブと、樹脂製のレバーを三本取りだした。樹脂製のレバーは、ホイールからタイヤチューブを取り外す際に使用するものだ。

 シンが作業を始めようとした時、サドルにくくりつけたバッグの中から白い紙の様なものが落ちた。すぐにシンは紙を拾おうとしたけれど、紙は風に煽られ、坂を下る様に二メートルほど転がっていってしまった。

 バッグから落ちた紙はコンビニのレシート。以前、コンビニで弁当とかお茶とかを買い物した時の内容が記されている。私は、「何度も」その紙を確認しているから分かっている。

 シンはサイクル用の歩きづらいシューズでふらふらと歩きレシートの方へと向かう。シンの履いているシューズは「ビンディングシューズ」と言ってシューズとペダルを固定する事が出来る。固定する為にはシューズの裏に、「クリート」と言う部品を付けなければいけないのだけれど、これが割と厚みがある。だから歩こうとすると不格好な感じになってしまう。

 シンは不安定な姿勢でレシートを拾った。でも拾った瞬間、足がもつれ尻もちをついてしまった。するとシンは何を思ったのか、坂の下の方を向いたまま両足を伸ばし、身体が後方に倒れない様に両手をアスファルトに着くと、その場から動かなくなってしまった。別に痛くて動けなくなったとか疲れて動けなくなったという訳ではなさそう。じっと前を見つめたまま何かを考えている。一体何を考えているのだろうか? 今でも分からない。

 今、周囲は音もなく風もない。時間が止まり全ての物が静止してしまった様な錯覚すら覚える。シンはふぅーっと息を吐くと天を仰ぎゆっくり眼を閉じた。

 ……そろそろね。シンが死んでしまうまでせいぜい五分程。……少し緊張してきた。いや、シンが死ぬ事に対してではない。シンの死はもう何度も見てきているので、言い方は悪いけれど慣れている。そうではなくて、私の存在にも影響を与える何か重大な出来事が起きるのではないかという不安が私を緊張させている。シンはいつも通りに死ぬのだろうか?

――聞こえてきた! バイクの音、シンを跳ねるあのバイクの音が聞こえる。上の方から、坂の上の方からバイクが走ってくる音がする。「キュイーン!」という音は大きくなったり小さくなったりとしながら段々と近づいてくる。シンは全く動こうとしないけれど、この音は聞こえているだろう。

 音はもっと大きくなった。バイクの走行音だという事がはっきり分かる。シンは後ろを振り返ると、二十メートル程坂を上った所のコーナーを見た。バイクがやって来る事に気付いたのだろう。でもシンはその場から逃げようとはしない。それどころかシンは、元の姿勢に戻って動かなくなってしまった。……自殺行為だ。何で逃げないのだろう。このシンの行動も通常通りの出来事だけれど、なぜ逃げないのかさっぱり分からない。

 コーナーから赤い大型バイクが颯爽と現れた! サーキットでレースをする様な大きなバイク! 赤いバイクは「キュイーン!」と加速し、シンに一直線に向かってくる。――あと十メートル! 

 すると赤いヘルメットをかぶったライダーはシンに気付きバイクを右に切った。バイクは「ガシャン!」と大きな音を立て転倒すると横滑りしてシンに襲いかかった。シンは後ろを振り向きもしない。

 シンの後頭部や背中にバイクが直撃した。シンはすごい勢いではじき飛ばされゴロゴロと転がると数メートル先で仰向けになったまま動かなくなってしまった。バイクのライダーとバイクは、シンにぶつかると右に逸れ、ガードレールの切れ目から杉の木が茂る急斜面に飛び出し、「バリバリ!」という音と共に落下していき見えなくなってしまった。


――静寂。まるで何事もなかったかの様な静けさ。私は坂道を数メートル下るとシンの横に立った。

 シンは坂の下の方へ頭を向けた状態で仰向けになり、ボンヤリと両眼を開けている。後頭部がパックリと割れているのだろう、頭の周囲に赤い血が広がり坂の下の方に向かって流れていく。右腕はおかしな感じに曲がっている。サイクルウェアは所々破れ、擦れて血がにじんだ皮膚が覗いている。……特に通常と違った出来事は起こらなかった。シンはいつも通りに事故に遭い、いつも通りに傷を負っている。

 周囲は本当に静かだ。風も吹かず何の音も聞こえない。シンはこの峠の坂道で、あと三分もすると死んでしまうだろう。


 人間の命なんて呆気ない。元気に生きていたと思っても、何かの拍子に突然死んでしまう。突然、「死」はやって来る。人間はいつか必ず死ぬ運命にある。

 人間にとって死は恐怖なのだろうか? どの人間も何食わぬ顔をして日々を生きているけれど、どこかで死の恐怖を感じているのだろうか? 考え出したらキリがないから、敢えて考えない様にしているのだろうか? それともいつかは死ぬ事が出来るから、恐怖に怯える事もなく日々を生きているのだろうか……?

 私は死というものを羨ましく思う。いつか必ず死という終わりがやって来る、それは幸せな事の様に思う。私の人生には終わりなんてない。私は死よりも恐ろしい、「永遠」という魔物に取りつかれているのだ。私はおそらく死なない。いや、私は死なないし死ねない。私は自殺すら出来ない。……実際、私は何度も自殺に失敗している。

 私はこの世界の誰にも見られていなければ、物を持ったり動かしたりする事が出来る。だから私は包丁を持つ事も出来る。でも、その包丁を自分の心臓に突き立てる事は出来ない。だってその包丁は、私の身体をスリ抜けてしまうのだから。

 私は自分で自分を傷つけたりする事が出来ない。――リストカット? 手首なんかを切って生の実感を得たり、自分に罰を与えたりする若い人がいる様だけれど、そういう行為も私には出来ない。

 包丁を使わなくても同じ。どんな方法でも私は自殺出来ない。例えば車を運転しているシンの横、助手席に私が座っていたとしよう。シンがハンドルから両手を放し窓の外を見たとする。私が「今だ!」とばかりにハンドルを握り、大きく切って壁に激突させようとしてもそれは出来ない。ハンドルを握る事は出来る、でもハンドルは全く動かない。やはり私は自殺なんて出来ないし、自分自身を傷つける事すら出来ない。

 それに、そもそも私はシンの運命を変えたり、世界に影響を与えたりする事は出来ない。

 私はこの世界に存在しているけれど、この世界とはほとんど交渉出来ないのだ。

 私は死ぬ事すら出来ない。ほとんど主体性もなく、永遠にシンの傍で生きていかなければならない。だから私は死を……死という可能性を――そうだ、可能性だ、私はその可能性が羨ましい! だから私は人間の持つ死の可能性が羨ましいのだ。


 シンが「ゴボッ」と音を立てて泡の様な血を吐いた。シンの口の周囲がねばねばとした血に染まる。……あんまり見ていたくはない。でも、私はシンが通常通りの死を迎えるまで屈みこんでシンの顔を見ているつもり。

 シンはバイクが向かって来ていることを分かっていたのに、なぜその場から離れなかったのだろうか? ……もしかしたらシンは死にたかったのだろうか? 中学生の時の心の傷、ルカのこと……。大学を中退して社会人になっても傷は癒えていなかったのかもしれない。私にはこの辺りの細かい事情は分からない。でも、そういう事なのだろうか?


 シンが私の眼を見つめている……様に見える。見つめている筈はない。だって私の姿は見えないのだから。……でも待って、本当にシンは私の眼を見つめている様な気がする。私が身体を横にずらすと、シンの眼もそれに合わせて動く様に見える。


「私の姿が見えるの?」


 私は五百年振りにシンに声をかけてみた。今までも何度かこの質問をした事があるけれど、シンが返事をした事なんて一度もない。どうせ今回もそうだ、返事なんてする訳がない。どうせまた、私の錯覚――


「君は誰?」


 え? 今シンが喋った! 

 私は思わず立ち上がった。シンが返事をした! 

 シンはじっと私の眼を見ている。


「私の姿が見えるの? 声も聞こえる?」


 私はシンを見下ろしたまま再び尋ねた。


「……見えるよ。……声も聞こえる」

 

 シンは私の顔を見上げながら、苦しそうに答えた。

 私の心臓が激しく波打つ。……これは雷や道祖神どころの話しではない、大事件! 三千年という長い間、シンに私の姿は見えなかったのに、会話なんてした事ないのに……。やっぱりこれから何かが起きようとしている! 今までに経験した事のない出来事が私とシンに絶対に起きる! 

 私は屈みこみシンの顔を覗きこんだ。シンは私の眼を見つめている。

 急に空が暗くなり強い風が吹きだした。たくさんの杉の木がわさわさと大きく揺れ、私の長い髪の毛とセーラー服のスカートも風に煽られる。完全に今までの世界とは変わってしまった感じ。こんなふうに天気が急変した事も今までにない。

――突然、周囲が白く光った! 大きな雷鳴が轟く。……何かが起きる。……シンと私に何かが起きる!


「協力しなさい。世界を変えてはならぬ」


 突然、天から大きな声が聞こえた! 私は立ち上がり天を仰いだ。「協力しなさい。世界を変えてはならぬ」そうハッキリと聞こえた。心の中に直接響く様な不思議な声! 男性とも女性とも取れない不思議な声! ……一体誰の声? 誰に向けてのメッセージなの? 


「わぁ、何て事だ! 大変だ!」


 すぐ近くで声が聞こえた。

 峠の頂上でシンと話していた中年ライダーがシンの姿を見て叫んでいる。中年ライダーは跨っていたロードバイクを放り投げると右往左往し始めた。……この出来事は通常通り。峠の頂上からロードバイクで下って来た中年ライダーが、倒れているシンを発見したのだ。

 中年ライダーに私の姿は見えていない。中年ライダーはスマートフォンを背中のポケットから取り出すと、「大変だ! 大変だ!」と叫びながら震える指でタッチパネルを操作している。


「協力しなさい。世界を変えてはならぬ」


 また天から声が聞こえた! 一体、誰の声なの!

 中年ライダーに天の声は聞こえていない様子。天の声は私にしか聞こえない様だ! ……神様? この声は神様の声なのかしら? 神様が私に向けてメッセージを発しているのだろうか? ……あり得る話しかもしれない。だって私は普通の人間じゃないのだもの! 三千年も生きている精霊みたいなものだもの! 神様と交信出来たっておかしくない!

……でも協力って何? 世界を変えるなって何?


「……今の声は? 声が聞こえた……」


 シンが震える指で天を指差し呟いた。

 私は屈みこみシンの顔を覗いた。


「あなたにも声が聞こえたの?」


 シンは力なく腕を下げると返事をせずに眼を閉じてしまった。

 天の声はシンにも聞こえたらしい。だとするとあの声は、私とシンの二人だけに向けられたものだろうか?

 シンがゆっくりと息を吐いた。――もうシンに残された時間は僅かだ。


 天から聞こえた声、あれはやはり神様からのメッセージなのだろうか? ……分からない。そうだと思えばそうかもしれないし、そうではないと思えばそうではないだろう。   

 でも取りあえず……取りあえず私は、あの声は神様が私に向けたメッセージだと考えて行動していく事にしよう。……そう思うしかないのだもの。

 私は間もなく、シンが生まれた瞬間まで戻る。新しいシンの人生は、確実に今までのシンの人生とは違う筈。起きた事のない出来事が起きる筈。私はシンと協力して世界を変えない様にしてみよう。新しいシンの人生、そこでの私はシンとコミュニケーションが取れる様になっている……筈。

 私には予感がする……。この先、私が存在する理由が明らかになっていく予感が……。私の人生は、きっと……きっと今から……。

 突然、強いめまいに襲われた。……いつものめまい。再び、シンの生まれた瞬間に――

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