繰り返されるタイムスリップ

第5話 アナとシンのタイムスリップ ~浴室編~

――白くボンヤリとした空間。……霧がかかっているのだろうか? 周囲の様子が分からない。……なぜ私はこの場所に立っているのだろうか? ……駄目だ、頭が上手く働かない。

 何か音がする。――水だ。水の音が聞こえる。……ここは川? 私は川原に立っているの? ……違う、ここは川原ではない。だって、そもそも匂いが違う。この場所は甘い匂いが充満している。……この匂いは石鹸だろうか?

 眼が慣れてきた。周囲に何かが見える。……これは壁? そうだ、私は周囲を壁に囲まれている。頭の上、天井には淡い明かりが見える。……ここは川原ではない、屋内の狭い空間だ。……うん、私の足下も裸足だから屋内で間違いない。

 頭の中の霧も少し晴れてきた、もう少し周囲を詳しく見てみよう。壁は……薄いピンク色をしたタイルだ。私の正面、壁の下の方……銀色の物体、これは? 蛇口みたいな感じ。――これはカランだ。……だとすると、カランの前に重ねて置かれているのは桶と椅子? ……そうだ、これはお風呂で使う桶と椅子だ。しかもこの桶と椅子、どこかで見覚えが……。そうだ、シンが子供の頃にお風呂で使っていた物と全く同じだ。茶色い花柄の桶と椅子――ここはシンの家のお風呂だ! 私はシンの家のお風呂場に立っているのだ! ……って、ちょっと待って、ここは病院の分娩室ではない! シンの生まれた瞬間ではない! 私はシンの生まれた一九九〇年九月九日の午前三時〇七分に戻っていない! 私は全く別の時間にタイムスリップしてしまった!


「あれ、何で! 何で風呂に入っているんだ!」


 私の右側、浴漕の所で誰かが叫んだ。――シンだ! 裸のシンが湯船から立ち上がって両手を交互に眺めている。――あれ、どうして? シンの姿、生まれたばかりの赤ん坊でもなければ大人でもない! シンは小学校低学年くらいの姿をしている!

「何でこんな所に俺は……。俺は死んだ筈じゃないのか?」

――俺は死んだ筈って? まるでシンも私と一緒にタイムスリップしてきたみたいじゃない。二〇一五年九月二十三日にシンが死んだ瞬間から、私と一緒に……。いや、そんな事はありえない。眼の前のシンは二十五歳のシンではなく、子供の頃のシンなのだから!

「身体が変だ! 声も変だ!」

 シンは、「あーあー」と声を出しながら自分の身体をせわしなく確認し始めた。特に股間が気になるのか、何度もつまんだり引っ張ったりとしている。

 混乱したシンの様子……今までにこんな様子のシンを見た事がない。シンの身体は子供だけれど、中身は二十五歳のシンの様に感じる。だとすると、シンは未来から過去の自分の身体に、「魂」だけタイムスリップしてきたのだろうか?

「……え? どうして!」

 シンは眼を真ん丸にして私の顔を見上げている。……まるで私の姿が見えるみたいだ。

 するとシンは私の顔を指差した。

「さっきのセーラー服の女の子! どうしてここにいるの!」

 私は飛び上がる様にして驚いた。シンには私の姿が見えている!  それに「さっきのセーラー服の女の子」って。――間違いない、シンは魂だけタイムスリップしてきたのだ! 

 シンは何かを思い出した様に、「あ!」と声を出すと股間を隠し、湯船にザブリと浸かってしまった。

「君はどうやって風呂場に入ってきたんだ! ……全く、本当! 油断も隙も……」

 シンは、いつの間にか掴んだシャンプーボトルを握りしめながら騒いでいる。

 私もパニックに陥った。……えぇと、これからどうしていけばいいのかな? あの声が何とか言っていたよね? 私達二人は協力して、その、えぇと……そうだ、「協力しなさい」ってあの声は言っていた! 私はシンと協力しなければいけない! その為には……まずコミュニケーションだ! ……よし、何かシンに質問でもしてみよう!


「こんにちは。シンは今、何歳?」


 私はロボットの様に抑揚のない言い方でシンに尋ねた。シンはきょとんとした表情をしている。――あぁしまった、馬鹿な質問! こんな質問どうでもいいじゃない!

「な、何歳? ……二十五歳だよ」

 シンはシャンプーボトルに隠れる様にしながら恐る恐る私に答えた。

 そう答えるよね、そうだよね! 身体が子供だとしても二十五歳って答えるだろうね! シンは状況をまるで飲み込めていないのだから! 

「君は一体、誰? 何で今も俺の前にいるの?」

「……『今も』?」

「だって、俺がバイクに跳ねられた時も君は俺の前に現れた」

「どうしてシンの傍にいるのか、それは私にも分からない。それよりも天からの声、シンにも聞こえた?」

「『世界を変えるな』っていう声? 俺にも聞こえたよ? ……ていうか、君は何で俺の名前を知っているの? それに俺は今、何でここにいるの!」

――あぁ、二人の会話は噛み合わない! 会話ってこんなに難しいものなの?


「シン! 何を一人で騒いでいるの!」


 風呂の外、私の右側から大きな声。――ケイコだ! シンの母のケイコだ!

 まずい……もしケイコが入ってきて私の姿が見えたりしたら世界が変わってしまう気がする! シン以外に私の姿を晒すのは、あの声の意図に反してしまう!

 浴室の中折れ戸が勢い良く「バン!」と開いた。私は驚いて背後の壁に張り付いた。

「全くうるさいね! お風呂くらい静かに入れない?」

――ケイコだ! やっぱりシンの母のケイコだ! ……あぁ、私はケイコの前に姿を現してしまった。私は世界を変えてしまうのだ!

「何を一人で、『あーあー』言っているの? 近所迷惑でしょ!」

 ケイコは腕を組んでシンを睨みつけた。――あれ? ケイコには私の姿が見えていない? 

「いや、一人って……。お母さんのすぐ眼の前に知らない女の子がいるじゃん!」

 シンは私を指差しながらケイコに訴えた。

「親をからかわないの! あんた一人に決まっているでしょ!」

 ケイコは腕を組んだままシンを叱りつけた。――やっぱりだ、ケイコには私の姿は見えていない! 

「え? え? 一体、なんで!」

 シンは困惑した表情を浮かべて私とケイコを交互に見ている。するとシンは突然、笑いだした。

「なるほど、そういう事ね! はいはいはい。お母さん、これってドッキリ的な感じね?」

 シンはケイコの顔を見てニヤリと笑った。

「ドッキリ的?」

 ケイコは組んでいた腕をほどき、怪訝そうな表情をシンに向けた。

「お母さんさぁ、その顔って特殊メイク? 若い頃の自分に化けているつもりだろうけどさぁ、もともとの顔が大した事ないから驚き感に欠ける!」

 シンはケイコの顔を指差して大笑いしだした。

「お前はお母さんの事をババアって言いたいの?」

 ケイコはそう喚くとサンダルを履いたまま洗い場に下りた。――ケイコとぶつかる! ――と思ったら、ケイコは私の身体の一部をスリ抜けてシンの正面に立った。――ケイコは私の身体に触れられないのだ!

 ケイコの怒りに満ちた背中が私のすぐ正面に見える。私は身体をケイコの左側に移動させた。

「……身体が、身体がスリ抜けた! ……一体、何で?」

 シンは、スリ抜けた母親とスリ抜けられた私を交互に見上げて口をパクパクとさせている。

「何を訳の分からない事を言っているの!」

 ケイコはそう叫ぶと、右手を大きく後方に振りかぶった。

「……早く! ……頭!」

 ケイコにそう促されたシンは「何が何だか」とぶつぶつ呟きながら、浴漕の縁からケイコに向かって頭を突き出した。

 するとケイコは右腕をムチの様にしならせて、シンの頭を平手打ちした。

「分かった? 静かに入りなよ! 後でお父さんに怒ってもらうからね!」

 ケイコは真っ赤な顔でそう叫ぶと、乱暴に中折れ戸を開けてお風呂場から出て行ってしまった。


 どれくらいの時間が経っただろうか? シンは湯船に浸かったまま呆然としている。私も壁によりかかったまま呆然と佇んだままだ。

 ……ケイコに私の姿は見えなかった。私の姿が見えるのはシンだけなのかもしれない。それにケイコは私の身体に触れる事も出来なかった。……シンはその辺りどうなのだろうか? シンも私の身体に触れる事は出来ないのだろうか? 

「ねぇ、シン」

 私はシンを呼んだ。シンは「え?」と声を出して私を見上げた。

「シン、私を叩いてみて?」

 私はしゃがみこみ、シンの眼の前に自分の頭を差し出した。

「……どうして? 今度は俺が叩くの? 頭を叩かれた俺が、今度は君の頭を俺が!」

 シンはとうとうベソをかき始めた。

「いいから、早く叩いて! これは世界の運命に関わる事よ!」

「もう、何がなんだか……。頭と世界、繋がらないと思いますが……」

 シンはおずおずとした様子で私の頭を叩こうとした。けれど、シンの手は私の頭をスリ抜けてしまった。

「叩けないよ、スリ抜けたよ!」

 シンは我慢出来ずに泣き出してしまった。

 どうやら以前と同じく、シンも私の身体には触れない事になっているらしい。

 シンは両手でゴシゴシと涙を拭くと、すっくと立ち上がった。シンは何か言いたそうに口を大きく開けたけれど、出かかった言葉をグッと飲みこんだ。シンは興奮する気持ちを落ち着けようとでもする様に、大きく息を吸ったり吐いたりを繰り返す。もう、股間が露わになろうがどうでもいいみたいだ。

「……えぇと、お母さんには君の姿は見えていなかった。でも……でも君は今、実際にここにいる。ここにいるのだけれど、でも、君はまるで透明人間だ。スリ抜けてしまい身体に触る事も出来ない。……教えてくれ、君は一体誰だ!」

 シンは大きな眼で私の顔を見上げている。

――不思議な感覚。三千年という気の遠くなる様な長い時間、全く私の存在に気付かなかったシン。そんなシンから今、存在についての質問を受けている。……分かったシン、その質問に答えてあげる。あなたにずっと聞いてほしかったセリフを言う事にする。

 私はシンの眼をじっと見つめた。


「私の名前はアナ。十四歳」


 私は生まれて初めて自分の事をシンに伝えた。ずっと、ずっとシンに言ってみたかったセリフを……。なぜだろうか、涙が溢れてきてしまった。これはどういう涙なのだろうか?

「アナ。十四歳……」

 シンは私の顔を見上げながら呟いた。

 シンが浴漕から身を乗り出した。

「教えてくれアナ、俺はさっき事故で死んだよね? でも俺はこうして過去の世界で生きている。俺はこのまま過去の世界で生きていかなければいけないのか?」

「……それは私にも分からない。でもこの時間に戻って来た以上、シンと私はこの時間から生きていかなくてはならないのかもしれない」

「『シンと私』? なんでアナも一緒に生きていくの? それに何でアナは俺の事を知っているの?」

 すると突然、世界が上下左右に揺れ始めた!

「うわ、これは……地震か!」

 シンは慌てた様子で周囲に眼をやっている。

 世界が波打って飛び跳ねる様な、沸騰したお湯の中にいる様な、そんな感じで世界が揺れる! でも自分の身体は全く動かないし周囲の何かが壊れたりする様子もない。

 全てがぐるぐると回りながら混ざり合ってきた! たくさんの色の絵の具を水で溶かしてかき混ぜたみたい! 銀河が高速で回りだした様だ! 再び何かが起きる――

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