第15話 追いかけるアナ ~シンとルカ、そして世界の為に~

 一体、どういう事だろうか……? ルカが私の眼の前に立っている。

 少し吊り上がった大きな眼、膨らんだ涙袋、しっかりとした一本眉、綺麗に伸びた鼻筋、口角の上がった薄い唇、肩にかかった黒髪……。眼や鼻といった部分だけで見ると派手な印象を与えるけれど、全体としては儚げな印象を与える独特な佇まい。――ルカだ、私の眼の前に立っているのは紛れもなくルカだ、間違いない!

 でも、どうして? シンとルカは今日の午後に七王子駅の近くで偶然出会う筈。何でルカは自らシンの家にやって来たの? 

 それにルカのこの格好は何だ? 黄色いTシャツに白いスキニーパンツ、踵の高い茶色いサンダル――こんな格好をしたルカを見た事がない! ただでさえ背が高いのに尚更背が高く見えたワケだ。

 突然の訪問と言いルカの格好と言い……。私は今、不測の事態に見舞われている!


「黒井シン君ですか?」


 私の眼を見てルカが尋ねてきた。……えぇと、何て言って返事をしたらいいの? まぁでも、「はい!」って言うしかないよね? 私は今、黒井シンだし! 「違います。アナ、十四歳です」とは言えない。

「……はい、そうです。黒井シンです」

 努めて冷静さを装い私は答えた。するとルカは二コリと笑った。

「良かった。あの、実はこれを拾って……」

 ルカは左肩に下げた白いトートバッグから何かを取り出すと私に差し出した。

「これ、黒井君の生徒手帳! 昨日、学校から帰る時に倉方駅のホームで拾ったの。あ、私の名前は黒須ルカ。黒井君と同じ倉方高校の一年。普通科じゃなくて美術科だけどね。駅に預けようかと思ったけど、中を見たら住所が書いてあって。家も近いし明日は日曜日だし、そう思って黒井君の家まで届ける事にしたの。私の家は南大川だから近いし。ヒマだし。ま、月曜に学校で渡しても良かったけどね」

 ルカは私の眼を見て可笑しそうに笑っている。

 私はルカから生徒手帳を受け取った。中を開くと一ページ目に「黒井シン」と名前が印字され顔写真も貼られている。

 なぜ、生徒手帳を落としたのだろう? 通学用のリュックサックの奥深くにしまっている筈だから落としようもない。駅で取り出す訳もないのだから。しかも、住所って何? 住所なんて印字されていない。

「ごめんね。いきなりやって来てびっくりしたよね?」

 私が黙って生徒手帳を眺めているから気まずくなったのだろう。ルカは私の顔を覗きこんでいる。

 私は顔を上げてルカに尋ねた。

「住所って、どこに書いてあったの?」

「え? 一番後ろのページ。貸して。――ほら、ここ」

 ルカは生徒手帳を手に取ると、一番後ろのページを開き私の顔の近くに掲げた。そこには手書きでシンの家の住所が書かれていた。シンがシャーペンで書きこんだの? でも、シンが生徒手帳に住所を書きこむところなんて見た事がない。……だからと言って、他の誰かが書きこむ事も考えづらい。

「そこに住所が書いてあったから家が分かったの。別にストーカーじゃないからね」

「なるほど。……確かに」

 私はよく分からない返事をした。

 シンとルカの様々な出来事が変わっていこうとしている。おそらく体内ブラックホールの仕業だ。先制攻撃を仕掛け、シンとルカの出会いの場面を変更させてきた。シンの中に入りこんだ私に気付いたのだろう。きっと私に警告しているのだ。「邪魔するなよ」って。ルカに不幸が起きなくなってしまうと、体内ブラックホールは栄養を吸収出来なくなってしまうから。

 何かが玄関のたたきの上に落ちた。――生徒手帳だ。ルカがうっかり落としてしまったらしい。ルカは膝を屈めて生徒手帳を拾った。――一瞬、ルカの胸の谷間と白いブラジャーが眼に入った。

「ごめんね。落としちゃった」

 ルカは生徒手帳の表紙を手で払っている。

 なぜだろう? 下半身に力が入ってきた。……何これ? 心臓がドキドキして顔も熱い。そういえば、ルカは私と比べて身体つきも大人っぽい。胸はそんなに大きくないけれど、私よりは大きい。背も高いし足も長い。良い匂いもする。……ていうか、何でルカの体の事をこんなにも観察してしまうのだろう? 今はそんな事をしている場合ではないのに。


「お姉ちゃーん! まだ?」

 

 玄関の外、庭から女の子の声が聞こえてきた。――ルカの妹のサヤだ。小学校三年生の女の子。外にはサヤもいるらしい!

 ルカは開け放ったままの玄関から首だけ外に出して言った。

「もう終わりだから待って!」

 ルカは私の方に向き直った。

「妹が一緒なの。これから『ユーロランド』に連れて行かなきゃいけなくて……」

 ユーロランドは子供向けの屋内型テーマパーク。堀之下駅の隣、「多田タダセンター駅」のすぐ近くだ。

「実は私達ね、来月静岡に引っ越しちゃうの。妹はユーロランドに行った事がないから思い出作りとしてね」

 私の顔から血の気が引いた。……静岡に引っ越しって何! ルカは東京からいなくなるの? シンとルカは付き合わなくなるって事?

 ルカは私の顔をじっと見つめた。

「シン君とこうやって会えたのも良い思い出になる」

「そう。どうも……」

 私はルカの視線を受け止めるのが恥ずかしくなり眼を逸らした。顔が熱い。

「さようなら」

 ルカはそう言い残すと私に生徒手帳を渡し、玄関の引き戸を閉めて出て行ってしまった。

 

 私は暫くその場に立ち尽くした。

 ルカがシンの生徒手帳を拾って家までやって来た。そして去って行ってしまった。七王子駅の近くで出会う筈がこうなった。しかも静岡に引っ越してしまうらしい。……私はどうしたら良いのだろう? シンとルカが付き合えなくなってしまう! 

 私はたたきに置いてあったサンダルを履くと玄関から飛び出した。もしかしたら、もう会えなくなるかもしれないし何とかしないと! 

 私は庭を駆け抜け、門から道路に出た。左右に伸びた道路の右の方に、ルカとサヤの後ろ姿が見える。二人は堀之下駅方面に向かって歩いて行く。私はルカを呼びとめようと大きな声を出そうとした。でも、私はふっと思い直してルカを呼ぶのをやめた。

 そうだ、別にルカと付き合う事にならなくても良いのか。もし、今後二度とルカと会わなくなっても問題はない。ルカに不幸が起きない様にする目的は、シンに悲しみや苦しみを与えない為。ルカと付き合いもせず再び会う事もなければ、シンが悲しみや苦しみを感じる事もなくなる。ましてや来月の七月に静岡に引っ越すのだったら、ルカが結局死んでしまったとしてもシンがそれを知る事もない。  

 ルカが死ぬのは二〇〇七年三月三十一日。おそらく私が何か手を打たない限りはこの日にルカは死ぬだろう。シンとルカの出会い方は大きく変わってしまったけれど、二人が出会う日は今までと同じ二〇〇六年六月十八日のままだった。だからルカが死んでしまう日も、おそらく今までと同じ二〇〇七年三月三十一日のままだと思う。でもシンとルカが恋人同士にならなければ、ルカの死はシンの心に何の影響も及ぼさない筈。……そうだ、それでいいじゃないか。世界を変えてしまう事で、ルカは火事で死ぬよりも悲惨な死を迎えるかもしれないけれど……。

 ルカとサヤは右に曲がり坂道を下って行った。二人の姿は見えなくなった。

「……さようならルカ。生まれ変わったらシンと付き合って」

 私は玄関に向かって歩き出した。

 これで良い。世界を救う為だ。体内ブラックホールをやっつけないと多くの命が失われる。……でも、何だろうこの気持ち。心臓が乱暴に掻きまわされる様だ。「わー!」と叫びたくなる。

 私は足を止めた。ルカの笑顔が眼に浮かぶ。

 中学で色々な事があって精神的に病んでいたシンを助けたのはルカだった。ルカの存在がシンを大きく変えた。ルカもシンと一緒にいると楽しそうだった。……二人をこのまま離れ離れにしちゃっていいの? ……いや、今までのシンとルカの出来事は体内ブラックホールに作られたもの。偽物の出来事。二人はもともと出会いすらしない存在だったのかもしれない。だったらこのまま離れ離れになってもいいじゃないか。……でも、やっぱり……やっぱり……。

 私は回れ右をすると門を飛び出し走りだした。

 ルカと付き合わなくちゃ! 東京と静岡の遠距離恋愛でもいいじゃない。何とかなる! シンも賛成してくれる筈! いや、何とかして静岡に引っ越しをさせなければいいのだ! このままルカを死なせる訳にもいかない! そうだ、サヤだって一緒に死んでしまう。とにかく何か理由をつけて今日はルカと一緒にいよう! 

 シンとルカが二人で笑っている姿が眼に浮かぶ。楽しそうな二人の様子。それになぜだろう? ルカが玄関で屈んだときに見えた胸元の映像が何度も脳裏をよぎる。男の人は切迫した時でもこういう事を常に考えるのだろうか? それとも私自身がおかしくなったのかしら?

 私は下り坂を走った。すると信号待ちをしているルカとサヤの後ろ姿が眼に入った。

「ルカ……黒須さん!」

 私は大きな声を出してルカを呼んだ。ルカがびっくりした様な表情で振り返った。

 私は息を切らしながらルカの眼の前に立った。

「どうしたの、黒井君?」

 ルカは眼を丸くして私を見ている。

 えぇと、何を言ったらいいだろう? 何も思いつかない! 考えろ! 

 その時、ルカの妹のサヤが喚いた。

「お姉ちゃん、信号青だよ! 早くユーロランド行こうよぉ」

 私はとっさに思いついた言葉を口に出した。

「あ、あのさぁ、俺もユーロランドに行っていい? 行った事ないから……」

 ルカはポカンと口を開けて眼をしばたたかせた。

……まずかった? 不自然な事を言ってしまった?

「お兄ちゃん、男なのにユーロランド行くの?」

 サヤが面白いものでも見る様に私の顔を見上げている。

「そ、そうだよ。あの、ハローミディー好きでね。カワイイ犬だよね」

「猫だから! 犬じゃないし!」

 そう言うとサヤはゲラゲラと笑いだした。ルカも一緒になって大笑いした。

「駄目かな? ヒマだし……」

 私はおずおずとルカに言った。

 ルカは何も言わずに黙っている。……そりゃ、そうか、初対面の人間にそんな事を言われても困るだけだよね。

 するとルカはニッコリ笑った。

「うん。一緒に行こう」

「え!」

 私は思わず間の抜けた声を出してしまった。

「一緒に行こうよ。ていうか、何でそんなに驚いているの?」

 ルカは声を上げて笑い始めた。

……よし、言ってみて正解だ! シン、どうやらチャンスが巡って来たみたい!

「サヤ、黒井君も一緒に行ってもいい?」

 ルカはサヤに尋ねた。

 サヤは大げさに腕を組み「ん~」と思案している。

「駄目なの?」

 ルカがサヤを突っついた。

「いいよ。おごってくれるならね!」

 サヤはニヤニヤした顔でそう叫ぶと、「お姉ちゃんデートだぁ!」と連呼しながら横断歩道を走って行った。

「もう、何を言っているのかしら。あいつはいつもあんな感じ」

 ルカは顔を赤らめた。

 私も横断歩道を渡ろうとした。するとルカに笑いながら声をかけられた。

「黒井君、その格好で行くの?」

「あ……」

 私は黒い半袖に黒い短パンのまま。足下はサンダルだ。デートする格好ではない。

「着替えておいでよ。堀之下駅の改札前で待っているから」

 信号の青いランプが点滅している。ルカは私に向かって手を振ると横断歩道を走って行った。

 私は上り坂を走って家に向かった。天気も良く風が心地いい。

 何だろうこの気持ち。心が弾むってやつかな? 今日は頑張るぞ。ルカともっと仲良くなり、そして恋人同士になれる様に……。ルカの死も回避しよう、何か打つ手はある筈。

 でも、一抹の不安もある。私はこうしてルカを追いかけて良かったのだろうか? 私の選択は間違ってはいないだろうか? 私はまんまと体内ブラックホールの術中にはまってしまってはいないだろうか? 

 体内ブラックホールは世界を変更してきた。必ず何か意図がある筈。……でも、きっとそのうちシンもモノノリもアオノリも戻ってくる。大丈夫。何とかなる。体内ブラックホールもただ混乱しているだけかもしれない。シンの中の私に脅威を感じているだけだ、きっと。そうだ、きっとそう。

 

 私は不安な気持ちをかき消す様に、さらにスピードをあげて坂道を上って行った。

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