第14話 ルカとの出会い

 二〇〇六年六月十八日、朝の八時三十分十一秒。今日は日曜日だけれど、私は既に起きてベッドの端にじっと座っている。今日の午後二時頃、私は七王子駅の近くでルカと初めて出会う事になっている。別に会う約束をしている訳ではない。そういう運命になっている。二時にはまだ早すぎるけれど、緊張して寝てはいられない。

 高校の入学式から二ヶ月、私は相変わらずシンの体の中にいる。私はシンの姿のままだ。シンもモノノリもアオノリも来やしない

 この二カ月、慣れない人間の体で私は何とか生活してきた。家庭、学校、全てシンと同じ様に行動してきた。細かいところでは違った行動もあったけれど、世界を変える事なく過ごしている。だから今日、私は必ずルカと出会う筈。

 ルカに会おうと思えばいつでも会える。住んでいる家も通っている高校も分かっている。ましてや通っている高校は同じだ。学科が違うだけ。でも、敢えて会わないようにしている。偶然に出会うところから全てを始めなければいけない。だからルカの事を調べたりもしていない。ていうか、それどころではなかった。私は人間の体に慣れるだけで精一杯だった。

 人間というのは大変だ。すぐにお腹が減る。お腹が減ると何かを食べなければならない。今まで私は物を食べた事もないし飲んだ事もないから最初はうんざりした。でも、慣れると楽しみの一つにもなってきた。

 ただ、食べたり飲んだりした後の排便、排尿はうんざり。辺り構わず出せるものではないから、わざわざトイレに行かなくてはならない。我慢出来ないような時には本当に生きた心地がしない。もし、教室で漏らしでもしたら世界が変わってしまうだろう。

 体がすぐに疲れてしまうのも煩わしく思う。以前の私はずっと走り続ける事も出来た。でも、シンの体でそんな事は出来ない。ある程度走ると息が切れて走れなくなる。なんて効率が悪いのだろう。汗もたくさんかく。そうだ、この汗ってヤツは本当に不快。どんどん溢れてきて服を濡らし体も冷える。乾いたら乾いたで臭いを放つ。服もしょっちゅう取り替えなければならない。排泄って言うの? 排便も排尿も同じだよね? もっと小規模に、自分でも知らない間に行われないものだろうか?

 眠くなるっていうのも疲れからくるのだろうか? 夜になるといちいち眠くなる。八時間は眠らないと体がスッキリしない。無駄な時間。一日の三分の一は脳や体の回復にあてなければいけない。

 夜だけではない、昼間も眠くなったりする。授業中に襲ってくる睡魔は我慢し難い。眠らずに活動出来たら人間の世界はもっと繁栄していると思う。それこそコタッツ銀河の生命体みたいに、ブラックホールを扱える頭脳を手に入れているかもしれない。そうしたら、この体内ブラックホールも簡単に捕まえられるのに。

 人間はすぐ疲れて眠くなるくせに、どうでもいいお喋りをずっとしている。高校のクラスメート達もずっと喋っている。

 シンの傍に存在していた時もクラスメートのお喋りを聞いていた。その時は別に何とも思わなかった。でも、シンとしてその場にいてお喋りを聞いていると凄く疲れる。必要最小限の内容に留めてエネルギーを温存しておけばいいのにと思う。もっとも、シンは高校のクラスメートとほとんど喋らない人間だったのでそこは助かった。私は黙って机に座っていたり窓の外を眺めていたりすればいい。下手に喋ったりして世界を変えてしまっても困る。世界を変えるのはルカと会ってからにしなければいけない。


……何だか愚痴っぽくなってきた。こんな話し聞きたくないよね? 今日はとうとうルカに会わなければいけないからイライラしていた。ごめんなさい。

……そう言えば、自分の話しをするのは久しぶり。いや、今までも自分の話しはしていたけれどそんな気がする。シンの死からこっち、タイムスリップを繰り返して目まぐるしく状況が変化していった。マシンガンの様に言葉を連射するだけで精一杯だった。

 ていうか、私も話しなんかしないで黙っていれば良いのに。エネルギーを温存しておけば良いのに。……いや、無理だ。うん、やっぱり無理だ。私も話したい、私の話しを聞いてほしい。何だ、私も結局クラスメート達と一緒だ。

 無駄な話しだろうが必要な話しだろうが、我慢せず自由に話しをする。これって生きていくうえで必要なのかもしれない。

 

 少し話しが脱線しちゃった。ベッドに置いた時計の針は九時〇〇分〇五秒を差している。ルカと会うまでにまだ五時間はある。あなたに話しをする時間は十分にある。朝ごはんはまだだけれど、緊張しているせいかお腹も減っていない。――よし、シンの話しをしよう。

 シンの中学時代までの話しと人材派遣会社で働いている話しはしたよね? 最後にシンの高校時代の話しをしよう。この時期の話しが一番大事なのよね。体内ブラックホールが一番活発になる時期なので大事だという意味もあるし、単純にシンの人生の中で一番楽しく、そして苦しかった時期だから大事だという意味もある。

 よし、はじめよう。なるべく分かりやすく話そうと思うので聞いてほしい。


 二〇〇六年三月二十四日に中学校を卒業したシンは、二〇〇六年四月七日に都立倉方くらかた高校に入学する。七王子駅からもそう遠くない場所。シンが十五歳の頃だ。

 シンは高校生活に特に夢も希望も抱いていない様だった。何となく登校し、何となく授業を受け、何となく家に帰る日々の繰り返し。もちろん、陸上部に入る事もなかった。

 クラスメートとも特に仲良くなろうとはしていなかった。入学当初は多くのクラスメートがシンに話しかけてきた。でも、シンの素っ気ない態度のせいで段々とクラスメートは寄って来なくなった。シンは嫌われたりいじめられたりしている訳ではないけれど、六月頃には孤立した状態になっていた。

 シンはクラスメートに一目置かれている部分もあった様に思う。五月の体育の授業で「一五〇〇メートル走」を行った。その時、シンは陸上部の人間達を抑えて一位になった。かなり苦しそうではあったけれど、それでも一位だ。クラスメート達は「すげえ」「速い」と口ぐちに言って驚いていた。でも、体育の授業の後、誰もシンを称賛する者はいなかった。皆、どうシンに触れたら良いのか分からなかったのだと思う。

 因みにシンが一位になってしまったせいで、私もこの一五〇〇メートル走で一位を取らなければいけなくなったのは言うまでもない。何とか一位になったけれど、あんなに苦しい思いはもうしたくない。心臓から口が飛び出そうだった。……あれ? 間違っている?

 

 六月も後半になった十八日の日曜日――要するに今日、シンは七王子駅の近くを歩いていた。特になぜという事もない。何となく電車に乗って七王子駅まで行き、辺りをふらふらしたかったのだろう。駅ビルの「CELBO」はまだ存在してなく、「そうご」という名前のデパートが存在していた時代だ。

 シンは七王子駅北口の駅前通りを歩いていた。後年、人民解放軍から逃げる為に間宮や田嶋と一緒に走ったあの通りだ。

 すると、「ふざけるなよコラぁ!」という怒鳴り声が路地の奥から聞こえてきた。シンが声のした方を見ると、頭を金髪に染めた高校生くらいの二人の少年に、二人の女の子が絡まれていた。女の子は高校生くらいの子と小学生くらいの子。金髪の二人に凄まれて抱き合って怯えている様だった。

 シンは足を止めてその様子を眺めていたけれど、首を左右に振ってその場から去っていこうとした。

 すると一人の少年が高校生くらいの女の子を突き飛ばした。女の子は叫び声を上げて路上に転倒した。それを見たシンは再び足を止めると、「ゴクリ」と唾を飲み込み路地の奥に向かって歩いて行った。

 突然、小さな女の子が一人の少年に掴みかかった。少年は激高して女の子の頭を平手打ちし、身体を突き飛ばした。女の子は路上に倒れると声を上げて泣き出した。

 それを見たシンは何かが吹っ切れた様に走りだした。そして少年の手前で高く飛び上がると、そのまま少年の胸に飛び蹴りを喰らわせた。少年は弾かれた様に遠くへ飛んでいった。

 シンは呆気に取られて立ち尽くすもう一人の少年を両手で突き飛ばすと、女の子達の手を掴みその場から走り出した。

 シンは女の子達の手を引いて七王子駅に向かって走った。シンは何度か後ろを振り返っていたけれど、金髪の少年達は追いかけて来なかった。

 暫く走ると七王子駅北口の交番が見えてきた。三人は交番の前に辿り着くとその場に倒れ込んだ。

 交番から出てきたお巡りさんが不審そうな眼を三人に向けた。

「君達、マラソン大会?」

 お巡りさんがシンに尋ねた。するとシンは何やら可笑しくなってきたのか声を上げて笑い始めた。二人の女の子はバツの悪そうな顔をしていたけれど、そのうち一緒になって声を上げて笑い始めた。お巡りさんは首を傾げると交番の中に戻ってしまった。

 二人の女の子は姉妹だった。妹の方がふざけて歩いていたら金髪の二人にぶつかってしまったらしい。でも、金髪の二人は睨んだだけで特に何も言わなかったそう。それなのに妹の方が、「どこ見て歩いてんの!」と少年達を怒鳴った事からトラブルになったのだと言う。

 姉妹の家は七王子市の南の外れ、「南大川みなみおおかわ駅」の近くとの事だった。シンがいつも利用する最寄り駅は「堀之ほりのした駅」、南大川駅とはすぐ隣同士の駅だった。

 シンは姉妹を七王子駅の改札まで送り届けた。シンは名前も言わずに「じゃあ」と言って姉妹と別れると、北口とは反対の南口の方へ歩いて行った。なぜシンは電車に乗ろうとせず南口に歩いて行ったのかはよく分からない。すぐ隣同士の駅だから乗り場も同じ筈だ。一緒に電車に乗るのが恥ずかしかったのかもしれない。

 南口に向かって歩くシンの肩を誰かが叩いた。振り返ると姉妹のお姉さんの方が立っていた。


「本当にありがとう。私の名前は黒須ルカ。あなたの名前は?」


 お姉さんはシンに尋ねたけれど、シンはやっぱり何も言わずに立ち去ってしまった。ルカと名乗る女の子は、シンの背中に向かって何度も「ありがとう!」とお礼を言っていた。

 この時、シンは後々この黒須ルカという女の子と付き合う様になるとは夢にも思っていなかっただろう。

 

 四日後。六月二十二日、木曜日の朝。高校に向かうシンは堀の下駅の改札前で誰かに名前を呼ばれた。シンは「え?」と周囲を見回した。シンを呼んだのは三日前に自分が助けた女の子、黒須ルカだった。

 ルカは制服を着ていた。白い半袖のシャツに胸元には紺色の短いリボン。グレーの格子柄のスカートに紺色のハイソックス――シンの高校の制服だ。「私達、同じ高校だったみたいね!」とルカは笑っている。

 ルカはシンと同じ高校の一年生だった。学科が違うだけ。シンは普通科でルカは美術科。シンに助けてもらった次の日、ルカが普通科の教室の前を通りかかった時に偶然シンの姿を見かけ、それで同じ高校だと分かったらしい。その時は他の生徒もたくさんいて恥ずかしかったので声はかけなかったそうだ。

 ルカはシンが一五〇〇メートル走で一位になった事も知っていた。ルカはシンのクラスの女子生徒からたくさん情報を仕入れていた。

 ルカは、「この前はありがとう。駅も隣同士だし一緒に学校に行こう!」と言ってシンの手を掴んでずんずん歩きだした。「この前、こうやって手を掴んで助けてくれたよね」と言いながら。シンは「ちょっと待てって!」とルカの手を振り払おうとしたけれど、ルカは「だめ!」と言って離してはくれなかった。

 突然のルカの行動にシンは顔を赤くして戸惑っていたけれど、暫くすると観念したのか手をそのままにしていた。

 ルカは電車の中では一言も話さなかった。でも、掴んだ手は離さなかった。

 高校の近くの「倉方駅」で二人は電車を降りた。するとルカは手を離し、「シン君、授業頑張ってね!」と言ってホームの階段を駆け下りて行った。シンは、「一体何が起きたのだろう?」といった表情で立ちすくんでいた。


 次の日の朝、堀之下駅に行ったシンはまた驚いた。前の日と同じ様にルカが手を振りながら待っていた。ルカはシンの手を握るとそのまま離そうとはしなかった。

 その日も二人は電車の中で無言のまま手を繋ぎ、倉方駅で手を離した。ルカは、「授業頑張ってね!」と言ってホームの階段を駆け下りて行った。

 それから毎日、ルカは堀之下駅の改札前でシンを待っていた。因みにルカの最寄り駅になる南大川駅の方が堀之下駅よりも倉方駅に近い。南大川駅から見ると、堀之下駅は倉方駅とは反対方向になる。でも、ルカは毎朝南大川駅から一度堀之下駅に移動してシンを待っていた。わざわざ遠回りをしていた。そこまでしてルカはシンと通学したかったのだろう。

 シンとルカは毎日手を繋いだまま電車に乗った。たいてい車内は満員だったので二人は黙って立っていた。二人は倉方駅に着くとそこで手を離した。ルカは、「授業頑張ってね!」あるいは、「居眠りするなよ!」とシンに声をかけてホームの階段を駆け下りて行った。この行動は七月二十一日の夏休みまで約一ヶ月間、学校のある日は毎日続いた。


……ルカ。少し変わった女の子だったのかもしれない。私はアナとしてシンの傍に存在していた時、このルカの行動を特に変わったものだと思っていなかった。「こういう人間もいるのね」くらいに思っていた。でも、「シンとしての生活を送る普通の人間」としてルカを見ると、やっぱり変わっていると思わざるを得ない。突然、駅で待ち伏せして手を握って電車に乗る。その行動を毎日繰り返す。もしシンが拒否したらどうするの? 同じ高校だし色々と面倒な事になる筈。もしシンが騒いだら? 下手したら警察沙汰だ。人間は色々な制約やルールに縛られている。自分勝手な行動は出来ない。ルカの行動はそれらを完全に逸脱している。自分勝手だ。リスクもあるし単純に面倒臭いし私には出来ない。

 ルカは「恋」をしていたのかな? 恋ってヤツは人を盲目にさせるらしい。ルカは盲目になっていたのかな?

 でも私には恋というものが分からない。だから本当にルカが恋をしていたのかは分からない。でもルカはシンの事が好きだったのだと思う。これは確かだ。私も「好き」という感情は分かるつもりでいる。私はシンの家族が好きだし、うるさいけれどクラスメートもまぁ好きだ。でもこれは恋とは違うのよね? 好きが続くと恋になるの? だとしたら私もシンの家族やクラスメートに恋をするの? 好きと恋の違いは何? 分からない全然。

 恋が何だか分からないし好きと恋の違いも分からない。でもシンはルカの事が好きになっていったのだと思う。

 ルカがシンの待ち伏せを始めた当初、シンは困惑した様子だった。でも日が経つに連れシンの様子が段々と変わってきた。毎日つまらなそうにしていたのが笑顔になってきた。朝も遅くに起きていたのが早く起きる様になった。クラスメートとも少しだけれど会話をする様になった。高校にいる時はルカを探す様にいつもキョロキョロとしていた。実際、何度かルカとすれ違った事もあった。ルカはニコッと笑顔を向けるだけだった。シンは何も言わなかったけれど、その後は嬉しそうにニコニコとしていた。

 私は、「好き」という感情は分かると言ったけれど、やっぱり分からないかもしれない。私はシンの家族やクラスメートが好きだけれど、私を早起きさせたり元気にさせたりしないもん。いや、多少そういう面もあるかもしれない。でもシンの様に分かりやすく過剰に自分に影響したりはしない。それともシンは既に恋をしていたのだろうか? 恋がシンの生活や態度に影響したのだろうか? 七月三日から六日までの四日間、一学期末の試験が行われた。シンは好成績を残し担任にも褒められていた。これもやっぱり恋をした影響なのだろうか?


 七月二十日木曜日、一学期最後の日。シンは朝からそわそわしていた。ルカをデートに誘おうとしていたからだ。なぜ私がそれを知っているかというと、シンがぶつぶつと独り言を繰り返していたからだ。「今日、ルカをデートに誘う」と。でもその日もいつもの様に堀之下駅から手を繋いで電車に乗り倉方駅で降りるとそのまま二人は別れた。シンはホームの階段を駆け下りて行くルカの背中に向かって何か叫ぼうとしたけれど、結局何も言う事は出来なかった。

 なぜシンはデートに誘わなかったのだろう? 既にお互い好き同士だった筈なのに。実際、あと二週間もすると二人は交際をスタートさせる。「勇気」とか「覚悟」といったものがなかったの? ルカもルカで夏休みになったらシンと会えなくなるワケでしょ? だったら、ルカからもデートに誘えば良かったのに。ここまで積極的に行動してきたのだから。……人間ってやっぱり不思議な生き物だと思う。


 シンは夏休みに入るとルカと会えなくなり寂しそうな様子だった。つまらない事で怒ってケイコと喧嘩になる事もあった。

 八月七日、月曜日の昼下がり。シンは堀之下駅の隣、南大川駅の周囲を歩きまわっていた。南大川駅はルカの家の最寄り駅、シンはルカに会いたかったのかもしれない。 

 この日は気温も高く、青空に大きな白い雲が浮かんでいた。シンは暑くてたまらなくなったのだろう、大きな木々が並んだ細い遊歩道に差しかかると木陰のベンチに座った。 

 シンの場所からは左右に伸びる幹線道路が見下ろせる。幹線道路はたくさん車が走っているけれど走行音は聞こえない。蝉の声がうるさいのもあるけれど、幹線道路はだいぶ下の方にあるから音は聞こえて来ない。

 幹線道路の向こう側には「帝都大学」の校舎の一部が見える。シンは左側に視線をずらし木々の間から見える陸橋に眼を遣った。幹線道路を跨ぐ長い陸橋、その欄干に手を置いてこちら側を向いている女の子の姿が見えた。――それはルカだった。

 シンはベンチから立ち上がり走り出すと、遊歩道を飛び出しルカの方へ向とかった。

 ルカまであと二十メートル程の所まで行くとシンは足を止めた。ルカは涙を流していたからだ。シンは声をかけようか迷っている様だった。すると、ルカはつま先立ちをして欄干から身を乗り出そうとした。シンは「ルカ!」と声をかけた。ルカはシンの方を見た。「シン君? 何でここにいるの?」ルカはその姿勢のまま動きを止めた。「ルカ、こっちに来い」。シンはルカに手を差し伸べた。ルカは小さく首を横に振った。シンは手を差し伸べたままさらにルカに近づいた。ルカはじっとシンを見つめたまま動かない。シンはルカのすぐ眼の前まで行った。ルカの両眼からぽろぽろと涙がこぼれた。シンはサッとルカの手を掴んで引っ張るとルカの体を抱きしめた。

 ルカは大きな声をあげて泣き出した。蝉の鳴き声も聞こえなくなるくらい泣きじゃくった。シンはルカの頭を撫でながら囁いた。「ルカ、俺と付き合おう」と。ルカは汗でびっしょりになったシンの胸元に顔を埋めたまま、「ありがとう」と何度も泣きながら繰り返していた。

 

 ルカは親と喧嘩をして泣いていたのだと言う。陸橋の欄干から身を乗り出そうとしたのも別に自殺するつもりではなく、「高いな」と思って何となく下を見ただけらしい。そこにシンがたまたま来たのだと言う。「また、助けてもらったね」とルカは涙を拭いながら笑っていた。……腑に落ちない説明だよね? ルカは陸橋から飛び降りようとしていたとしか思えない。シンもそう思ったかもしれない。でもシンはルカの話しを根掘り葉掘り聞く事はなかった。

 

 シンとルカは付き合う事になった。

 夏休みの間、二人は毎日の様に会った。シンとルカは部活もバイトもしていなかったので時間はたっぷりあった。花火大会にも行った。ルカの妹のサヤと三人でデートをした事もあった。サヤはシンの事を「シンにぃ」と呼んで慕うようになった。

 シンは明るくなった。いや、元々明るい性格だったから、明るさを取り戻したと言うのが正しいだろう。

 でも、平穏な時間は一年にも満たなかった。……まさかあんな事が起こるなんて。ルカは二〇〇七年三月三十一日に突然死んでしまうのだ。

 後にマスコミの報道で知ったのだけれど、仕事のトラブルでおかしくなったルカの父が家に火を放ち――

 

「シン! シン!」


 突然、シンを呼ぶ声。……何だ? シンを呼んでいる。……あ、シンは私だ!


「シン!」

 

 ケイコが階段の下から呼んでいる。

 シンとルカの話しはちょっと中断ね。

「何!」 

 私は部屋のドアを開けて階段の下に向かって返事をした。

「誰か来たわよ! 女の子!」

……女の子? 誰だ、全くタイミングが悪い。インターホンに全く気がつかなかった。弟のユウのお客さんじゃないの? 確かユウは隣の部屋で寝ている筈。

「女の子って誰!」

 私は大きな声で尋ねたけれど、ケイコは無視しているのか面倒なのか返事をしない。……全くこんな時に。しかも今は黒い半袖と黒い短パンのだらしない格好だ。

 私は階段を下りた。玄関はすぐ正面。

 あれ? ちょっと待って。女の子が来た? こんな出来事、今までに起きた事ない!

「お母さん! 女の子って誰!」

 ケイコは出かけてしまったのかどこにもいない。……一体、誰が来たのだろうか? 

 私は玄関のたたきに裸足で下りると、おそるおそる引き戸を開けた。


「こんにちは」


 そこには黒須ルカが立っていた。

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