黒須ルカ
第13話 シンの高校時代 ~アナの決意~
――体が動かない。私はうつ伏せになっている。この格好のまま動けない。……いや、動ける。でも、動きたくない。出来たらこのままでいたい。心地良い。何、この感覚?
鼻から肺に空気が入りこんでくる。そう思ったら、今度は肺から鼻を通って空気が抜けていく……。その度に鼻の奥が詰まる。鼻の奥は細かく震えて豚の鳴き声みたいな音を立てる。
……私の意識はなくなったり戻ったりしている。一体、私はどうしてしまったのだろう? お風呂の水をかき混ぜた様に頭の中がゆっくりと回転している。
……私が顔を乗せている物は何? ……スポンジ? 口元がべたべたとしているけれど、ふわふわして柔らかい。大きくて厚みのある布に全身が包まれている。私は今どこにいるの? それにさっきから全身に生じているこの感覚は何? 何て表現したらいいのだろう? 細胞が安心して弛緩している様な感覚? いや、やっぱり心地良い感じとしか表現出来ない。全身でこんなに何かを感じた事はない。……これって「温度」や「気温」を感じているって事? でも私は熱さや冷たさ、暑さや寒さを感じたり出来ない筈。
――何かの臭いが微かにする。……目玉焼き? そうだ目玉焼きだ。味噌汁の匂いも微かにする。……なぜだろう? 口の中に唾液が溢れてきた。胃の辺りがグーと鳴る。これはどういう事? 目玉焼きを口の中に入れたい衝動にかられる。私は体に必要がないから食べ物を食べた事がないけれど、半熟の黄身が口の中でとろけたら美味しいだろうなと思う。
私は眼をつむったまま右手を前方に伸ばして辺りをまさぐってみた。何か四角いものを掴んだ。ちょうど片手で掴める大きさで細長く軽い。今、体全体に生じている感覚とは逆、キュッと手の平全体が引き締まる様な感覚。これは「冷たい」って言う感覚?
すると突然、手に持ったその細長い物が大きな音を立てて小刻みに揺れだした!
私はびっくりしてその物体を放り投げた。その物体は少し離れたところにゴトンと転がった。それでも音を鳴らし続けている。
「何かの曲だ……音楽だ」
私は呟いた。――え? 何だか声が変だ。いつもの声とは違って太い声。
「あーあー、私はアナです」
私は声を出してみた。やっぱりヘンだ! 男の声、シンの声に似ている。……シン? ……そうだ、私はモノノリにタイムスリップさせられた! そう、シンの高校時代に! シンはどこ? 布の外にいるの?
私は布の間から外に飛び出した。でも布が体に絡まって足がもつれた。私は地面から数十センチの高さの場所で布に包まれ横になっていたらしい。そこから転落する様な形で右肩から地面に叩きつけられた!
「きゃ!」
私は思わず声をあげた。相変わらず太い声。右肩が一瞬硬くなった。とっても不快……。布に包まれていた時とはまるで別の感覚。細長い物を掴んだ時の手の平全体が締まる様な感覚とも別。これは「痛い」っていう感覚? いや、ありえない。私は肉体的な「痛み」とか「苦しみ」は感じないのだから。
私は呻き声を洩らしながら右肩を押さえて立ち上がった。……ん? さっき地面って言ったけれど、どうやら私はフローリングの床の上にいるらしい……。
ぼんやりとした明るさ。……朝なのかな? 星のイラストを配した青いカーテンの隙間から陽の光が差し込む。
見覚えのある部屋の様子が眼に入る……。雑誌やコミック、哲学の解説書で散らかった勉強机、キックボードやインラインローラースケートが無造作に置かれたオープンクローゼット、黒で統一された液晶テレビとテレビ台。テレビ台には整髪料の缶が数本並べられ、下のガラスの開きからはテレビゲーム用のコントローラーが顔を覗かせている。それから何やら黒いゴムの跡が付いたフローリングの床、そして、テープを剥がした跡や拳大の穴が一ヶ所開いた白い壁。――ここはシンの家のシンの部屋だ! でも、おかしい。シンの姿が見えない! こんな事はあり得ない!
あれ? このベッド……。そうだ、私はシンのベッドから転落して肩を打ったらしい。高さから考えて間違いない。ていうか、私は何でシンのベッドで横になっていたの?
「シン! どこにいるの!」
……シンの返事はない。……そうだ、私は時間と空間の入り乱れた場所でシンの腕を離して……。思い出した、私とシンははぐれてしまったのだ! 私だけがシンの高校時代にタイムスリップ、モノノリの言う「時間移動」をしてしまったのだ!
大変な事が起きた! シンはどこに行ってしまったの? モノノリは? モノノリはどこ?
「モノノリ、聞こえる! 私よ、アナ! アオノリも聞こえる?」
モノノリの返事もアオノリの返事もない。どうしよう、私だけがシンの高校時代にタイムスリップしたって仕方ない! 主役のシンがいなければ世界を変えられない!
――音楽がうるさい! あの音楽が流れている物体は携帯電話だな。スマホではなく、その前に流行った折りたたみ式の携帯電話。とりあえず音楽を消そう。そして、これからどうしたら良いのかしっかり考えよう!
私は携帯電話を拾い画面を開いた。シンが高校時代に使っているのを何度も見てきたから私にも使い方は分かる。アラーム音が鳴る様に設定されていたみたい。時間は六時三十分。私はボタンを操作して音楽を消した。……あれ? 私は今、当たり前の様に携帯電話のアラーム音を消したけれど、こんな操作は出来ない筈! 私は世界の誰にも見られていなければ携帯電話を持ったり開いたり出来る。でもアラーム音は消せない筈だ。それは世界に影響するから。
何だか世界がおかしい。今までと全く違う世界に見える。おそらく今はシンの高校時代だろう。部屋の感じもその頃と一緒だ。でもなぜか知らない世界に見えてしまう。頭と体にも今までにない刺激を受ける。声だって変わってしまっている。
壁に掛けられたカレンダーは二〇〇六年の四月。――やっぱりシンの高校時代だ。シンが高校一年生の時だ。四月という事は私のセーラー服は冬服になっている筈……。
「きゃああ!」
私は思わず太い声で叫んだ。……おかしい! 夏服を着ていない! だからと言って冬服でもない! 黒いトレーナーに黒い長ズボンを履いている。これはシンが高校一年生の頃に自宅で着ていた服だ。何で私がシンの服を着ているの? 足下も白い靴下ではなくて裸足だ!
私は両手の甲を眺めた。血管が浮き出て骨張っている。……何か変だ。おそるおそる髪の毛をさわった。あれ? 髪の毛がない! いや、なくはない。ある! でも、短くなっている! おかしい! 変だ! 私の姿が変わってしまっているみたい!
私はドアの脇に置いてあるスタンドミラーの所へ向かった。私は世界の誰にも見られていなければ鏡に自分の姿が映る。自分の姿を確認――
「うわああああ!」
何で、どういう事! 私はシンだ! 鏡にはシンが映っている! 私の姿はシンになっている! どういう事だろう? まさか、私はシンの体の中にタイムスリップしてしまったの? そうだ、そういう事だ。どうしよう……。アナ、しっかりして! いや、シンの中のアナしっかりして! ……あぁ、ややこしい!
私はシンの体から逃げ出そうとぐるぐる回ってみた! 自分の尻尾を追いかけて回り続ける間抜けな犬みたいに。……駄目だ。何、この感じ? めまいってやつ? 世界が波打っている。……あれ? これってタイムスリップする時と似た感覚! もっと回ってみよう! そうしたら別の時間にタイムスリップして元の状態に戻れるかもしれない! シンの傍で存在する私に!
私は必死に回り続けた! ……駄目だ! 私は尻もちを着いた。この感覚は何? 「気持ち悪い」ってやつかしら? 胃の辺りから何かが上がってきそう。……どうやら、回転してもタイムスリップは出来ない様だ。
私は膝を抱えて床の上に座った。どうしよう? 私はこれから独りで生きていかなければならない様だ。……そんな事出来るかしら? いや、シンの過去は全て把握している。どんな風に行動すれば良いかは分かっている。大丈夫よ、世界を変えずに済む! でも、待って、私はシンの世界を変えなければいけない。シンとルカに不幸が起きない様に。という事は、経験していない出来事がたくさん起きる筈。……そんな無茶よ! 独りじゃ無理だ! ……神様、どうすればいいの?
「早く起きなさい! いつまで寝ているの!」
――答えた! 私は思わず立ち上がった! ……神様?
――違う、ケイコの声だ! シンの母のケイコだ。そうか、階段の下から呼んだのね。よく、ああぁやって大きな声でシンの――
その時、部屋のドアが勢い良く開いた!
「起きてるじゃん! もう七時よ、入学式に遅刻したらどうしようもないじゃない! 早くご飯食べな!」
ケイコはエプロン姿で菜箸を振り回し怒鳴り散らした。
「あ、あぁ……」
私は立ち上がると、どぎまぎして返事をした。
「全く馬鹿なんだから!」
ケイコは捨て台詞を吐くと、ドアも閉めずにドタドタと階段を下りて行ってしまった。
入学式……そうか、今日は高校の入学式がある日、二〇〇六年四月七日だ! シンにとっては門出の日になる。……門出か、私も新たな門出を迎えてみようか……。
ねえアナ、姿はシンになってしまったけれど、このまま家出でもして自由気ままに暮らすっていう選択肢もあるのよ? 家出しなくても、ルカの事なんて無視してやりたい事をやってもいいのよ? いつ体内ブラックホールが天の川銀河を滅茶苦茶にしてしまうか分からない。そうしたら私の存在だってどうなるか分からない。多分、消えてしまうのかな? でも三千年も変な人生を送ってきたのよ? 少しくらい楽しんだっていいと思わない? まぁ、多くの人達が不幸になってしまうけれどね……。
そうか、全ては私次第なのね? 私の選択で全てが変わってしまう。だから神様は私に世界を変えない様に命令しているのかな? もしかしたら神様は困っていて私にお願いしているのかもしれない。全知全能でも出来ない事があるのかもしれない。
そう言えばモノノリが私にこんな事も言った、「新たな希望」って……。こんな私が新たな希望って……。
私は両手でお尻をバシッと叩いた。
よし、シンとしてしばらく生活していこう。腹をくくろう。やれるところまでやってやる。ルカと出会う日が前の世界と同じままなら六月十八日、日曜日。まだ、二ヶ月以上先だ。それまでにシンの体に慣れておこう。どうも人間の体というのはしっくりこない。色々な刺激が多すぎてとっても疲れる。早く慣れないと。それに、もしかしたら二ヶ月も経たないうちにシンがこの体の中に戻って来る事も考えられる。私も十四歳の女の子に戻れるかもしれない。モノノリもアオノリも戻って来るかもしれない。
「シン、早くご飯食べなさい! いい加減にして!」
台所からケイコの怒鳴り声が聞こえる。
私は部屋の入り口に目を遣った。開け放たれたドアの向こうには未知の世界が広がっている。一体、どんな出来事が私を待ち構えているのだろうか?
「今、行くよ! ケイコ……お母さん!」
私は部屋を飛び出した!
意志だ。意志を持てば何とかなる! きっと大丈夫!
私はそう自分に言い聞かせると、階段を「一段飛ばし」しながら駆け下りて行った。
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