第16話 アナの初恋
二〇〇六年七月二十二日、土曜日。高校一年の夏休み二日目。腕時計の針は午後十一時三十五分二十秒を指している。天気が良く青空に白い雲が浮かんでいる。
私は白い半袖のTシャツに黒い七分丈のパンツ、黒い三本のラインが入った白いスニーカーを着用し自転車に乗っている。自分の家から南大川駅に向かっている途中だ。
ルカがシンの家を訪ねて来た日からちょうど一カ月が経った。私は相変わらずシンの体に閉じ込められたままだ。シンもモノノリもアオノリもまだ戻って来ない。でも、私の心は暗くなったりしていない。むしろ明るい。今日も暑いけれど、私は鼻歌を歌いながら自転車を漕いでいる。時折、前カゴに入れたミリタリー調のショルダーバッグが跳ねて飛び出しそうになるけれど、そんな様子も何だか愉快だ。
私が乗っている自転車は、後年シンが乗る事になるロードバイクではない。この自転車はいわゆる「ママチャリ」だ。ラクな姿勢で乗れてカゴや荷台が付いているやつだ。
一か月前にルカとユーロランドに行ったけれど結果は上出来だった。デートなんてした事がないからどう振舞って良いか分からなかったけれど、ルカの妹のサヤが私達の間を取り持ってくれたおかげもあってルカと親密になれた。
ユーロランドに行った次の日の六月十九日から私はルカと一緒に通学する様になった。今までのシンの世界ではルカが堀之下駅でシンを待ち伏せしていた。今の世界でもそれは変わらない。ユーロランドに行った次の日、ルカが堀之下駅の改札前で待ち伏せしていた。それから毎朝、二人は堀之下駅から手を繋いだまま倉方駅まで電車に乗った。
手を繋いでいる時の様子は今までのシンの世界とは少しだけ変わっていた。前の世界では無言のまま手を繋いでいたけれど、今の世界では会話をしながら手を繋いだ。会話といっても満員電車の中なのでベラベラと喋ったりはしていない。でも、クスクス笑ったり眼を見つめ合ったりしていた。傍から見ても二人はカップルにしか見えなかっただろう。
前の世界では六月二十二日からルカと手を繋いでの通学が始まった。今の世界ではその始まりが三日だけ早くなっている。でも、大きな問題は世界に起きていない。
手を繋いでの通学は、夏休み前日の七月二十日まで続いた。前の世界と同じ七月二十日まで。つい一昨日の話しだ。
ルカはシンの生徒手帳を拾って家まで届けてくれたけれど、わざわざ家まで届けに来た本当の理由も私は聞いた。ルカは私に……じゃなかった、シンに会いたかったからと言っていた。
五月、ルカは写生の授業で校庭にいた時に、例の一五〇〇メートル走でシンが一位になった場面を偶然見ていたらしい。そういえば、あの時女子生徒達がワーワー騒いでいたかもしれない。苦しかったせいかあんまり覚えていないけれど。
その場に居合わせた美術科の女子生徒全員が陸上部のイケメンを応援していたけれど、そのイケメンを振り切って一位になったシンの姿を見たルカは電気が走ったらしい。電気が走るって好きになったって事でしょ? 実際、ルカは私に……シンに一目惚れしたって言っていた。
その頃には静岡への引っ越しが決まっていたから、何か行動を起こそうとはしなかったみたい。でもそれから一カ月程経った頃、倉方駅でシンの生徒手帳を偶然拾った時に心に決めたらしい……シンと一度デートしてから転校すると。
だから拾った生徒手帳をわざわざ家まで届けに来たって事。そして二人きりではないけれど、ユーロランドに一緒に行けたからルカの願いは叶ったらしい。
因みに何で私がそんな話を知っているか分かる? それはね、私とルカが付き合う事になったからなの! 私とルカは一回だけデートするどころか恋人同士になったの! だから私はルカが考えていた事を詳しく知っているの。全部ルカが教えてくれたの。
夏休み前日の七月二十日、一昨日。私とルカはいつもの様に堀之下駅から倉方駅まで手を繋いで電車に乗った。倉方駅に着いて電車を降りた私は、思い切ってルカをデートに誘った。港区の「お
そして夏休み初日の昨日、七月二十一日に私達はお代場でデートをした。
楽しかった! 私達はご飯を食べたり洋服を見て回ったりした。ショップのお姉さんに、「可愛い彼女ね」と褒められた。二人で寄り添い、二人が入った写真を携帯電話でたくさん撮った。ふざけた姿でプリクラも撮った。
ルカの格好も可愛かった。赤い花や緑の葉がたくさん散りばめられたエメラルドグリーンのワンピース。白くて袖の短い薄手のカーディガン。黒いリボンがついた麦わら帽子。踵の高い茶色いサンダル。……夏らしい服装がよく似合っていた。私もこんな格好をしてみたいと少し羨ましくなったくらい。
私はシンの体に閉じ込められてから、半分は男の子になってしまったみたい。以前とは違った視点でルカの事を見ている。ルカの胸や太腿を何度も見てしまう。その度に下半身に力が入り、ルカに抱きつきたい衝動に駆られてしまう。
私はシンの傍に存在していた時、男の人を性的な視点で見た事はなかった。……ルカはどうなのかな? ルカも私みたいな視点でシンを見ていたのだろうか?
夕方、私達はお代場から南大川駅に帰って来た。
私は、「少し歩こう」と言ってルカを散歩に誘った。ルカに「付き合ってほしい」と告白しようと思っていたから。……私はシンの気持ちが少し分かった。自分の思いを伝えるのは勇気がいる。ルカは私の事が好きだっていうのは既に分かっていた。でも、結果が悪かった時の事を考えると怖くて中々話しを切り出せずにいた。
駅の近くにある円形の広場で私はルカに告白しようとした。私は「話しがある」と言って足を止めた。でも、どうしても言葉を口に出せず時間だけが過ぎていった。そんな時、ルカは私に言った。
「実はね、前に言った静岡に引っ越すって話しだけど……」
私は全身から血の気が引いた。もう、明日にでもルカは引っ越してしまうのかなって思った。遠距離恋愛を覚悟してはいたけれど、いざその話しを出されると耳を塞ぎたくなった。
「うん。引っ越しが……どうしたの?」
私はドキドキしながら尋ねた。すると、ルカは何とこう言った。
「うん。実はね、お父さんの都合で引っ越しはナシになったの」と。
私は「本当に!」と大きな声を出してしまった。あまりに大きな声だったのか、近くをほっつき歩いていた鳩達が慌ててどこかへ飛んで行ってしまった。
ルカは「何だかごめんね。私はまだまだ東京にいます」と笑っていた。
まさに晴天の霹靂。……あ、良い意味でね。いや、良い意味の晴天の霹靂ってそもそも言葉としてオカシイか。とにかく、悩みの一つだったルカの引っ越しが何の苦労もしないで勝手に解決してしまった。すごくラッキー!
私は急に勇気が湧いた。
「ルカの事が好きだ。俺と付き合ってほしい!」
私は唐突に告白した。私は頭を下げ、右手をルカに向かって突き出した。返事がオッケーなら手を握って下さいと言わんばかりに。すると、ルカは私の手を握って「お願いします」と答えてくれた。私が顔を上げると、ルカは私の右手を握ったまま、もう片方の手で口を押さえて泣いていた。
ルカは涙を流す程喜んでいた。前の世界でもシンに付き合おうって言われた時、ルカは泣いていた。私は泣いているルカの姿を見て、ルカの思いが分かった様に思えた。今までシンの傍に存在していた時、私はルカの事を何も分かっていなかった。ルカの事を分かろうとさえしていなかった。でも、その時に分かった様な気がした。
ルカの死後にマスコミの報道で知ったのだけれど、この時期、ルカの家庭は冷え切っていた。ルカの父と母は毎日の様に喧嘩をしていた。個人で設計事務所を営む父は、仕事が上手くいかずトラブルが続いていた。そんな父の状況をルカはどれくらい気付いていたか分からないけれど、連日繰り返される両親の喧嘩のせいで精神的に参っていた筈。だから自分が想いを寄せるシンとはどうしても仲良くなりたかったと思う。……それはルカにとって生きる希望にもなるのだから。
堀之下駅で待ち伏せしてシンの手を握るのにどれ程勇気を振り絞っただろうか? 生徒手帳を届けに来るのにどれだけ逡巡しただろうか? すがる様な思いだったろう。
ルカの死後、シンはマスコミの報道を見てルカの思いが分かったのだろう。私は今まで全く分かっていなかったけれど、シンは早くからちゃんと分かっていたのだ。「ルカにとって、自分の存在は生きる希望だった」と。だからルカの死後、シンはあれだけ苦しそうにしていたのだ。
シンにとってもルカは生きる希望だったに違いない。中学時代の傷を高校に入っても引きずり孤立していたシン。そんなシンを救ったのはルカだった。そのルカが火事で死んでしまう。……どれ程苦しかっただろうか? 私はシンの思いも同時に分かった様に思えた。
ルカとシンの思いを頭に巡らせながらルカの泣く姿を見つめていた私は、思わずルカを両手で強く抱き締めた。
「ルカ、好きだ。私が……俺が守るよ」
私はルカに囁いた。ルカは私の胸の中で「うん。うん」と何度も頷いていた。
こうして私とルカは付き合う事になった。引っ越しの件も解決し、今の所は全て順調に事を運べている。今、自転車で南大川駅に向かっているのもルカとデートをする為だ。十二時ちょうどに改札の前で待ち合わせをしている。
私の心は躍っている。すごく楽しい気分! 今日は予定を決めていないから何をしようかな? そうだ、ご飯をどこかで食べたら「アウトレット南大川」に行こう。
ウキウキしている場合ではないと分かっている。今、現在もルカの家庭は冷え切っている筈。折りを見てルカの父と母の件も解決しなければならない。特にルカの父に対しては積極的に行動を起こしていかなければならない。家を放火し、家族全員を殺してしまうのだから……。
でも今は少しの間ルカとの時間を楽しみたい。体内ブラックホールも大人しくしていて。私は三千年も苦しんだ。ほんの一時でいいから生まれてきて良かったと思わせてほしい。
今だけはシンもモノノリもアオノリも戻って来て欲しくない。
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