4-4 海猫の家で
また今年も『雨が降らない』という天気予報を聞く頃になる。
母親の恵里が無事に退院をした。
海の朝は早い。船の汽笛で目が覚める。
海猫も鳴いている。
微かな波の音が聞こえる中、珠里はそっと素肌のまま身体を起こした。
珠里のすぐ隣、彼もゆうべのまま、素肌で眠っている。
夜はもう、ひとりではなかった。どんなに深い夜の海に沈んでも、そこは寂しくもなく冷たくもない。ずっと彼と一緒。そして朝も。
珠里もけじめをつけた。
涼と暮らすにあたって、二宮の家をついに出て行くことになった。
夫と過ごしたベッドルーム。いつもひとりで眠っていたそこに、直人が仕事で着ていた果樹園作業服がある。それを抱きしめて何度眠ったことか。それも置いていく決意をした。
『部屋はそのままにしときい。どうせ毎日畑に来るんやけん。こっちに泊まらなくてはならないこともあるだろうし、嵐で帰れない日もでてくるだろうしなあ』
『実家と思うて、いつでも泊まっていったらええやないの』
カネコおばあちゃんと、紀江お義母さんがそういって、娘のようにしてそのまま送り出してくれた。
お互いの仕事のこと、そして珠里が母の世話をすることも考慮して、いま珠里は島を出て向かい岸の港に住んでいる。
最終的には、涼と一緒に島で暮らすことになる。
東京から帰ってきて、結婚を決め、すぐにふたりで住まう家を探してここに決まった。
結婚前でも、既にふたりは夫妻になった気持ちで暮らしている。
「珠里、起きたのか。今日は畑、休みなんだろ」
「うん」
「もうちょっと……」
一緒に眠ろうと、涼から抱きついてきて、またベッドの中に戻されてしまう。
明け方、海鳥の声が響く中。ふたりのくちづけの静かな音も鳴りやまなかった。
朝日の中、シャワーを浴び、女ではない自分へ戻ろうとする。
古い板張りのリビングに、ソファーセットとダイニングテーブルを置いて、ひとまずの仮住まいがもう整っていた。
開け放たれている扉の向こうは、古い庭。そこに珠里が植えたベコニアや朝顔が朝露に濡れてきらめいている。
紺のスウェットワンピースを涼やかに着込んだ珠里がそこへ行くと、もうテーブルには朝食が出来ていた。
「また涼君ったら。今日は私が休みだから、私が作るって言ったのに」
「ああ、いいんだよ。俺、もう腹減っていたし。ちょっと早めに食べて、少し仕事を片づけてからでかけるな」
食べ道楽の彼は、よくこうして食事を準備してくれる。
カメリア珈琲という大手企業を辞め、真田珈琲という地方経営の会社に転職。真田珈琲の出勤体制は店舗営業時間を中心に回っているので、朝も早かったり遅かったり不規則。時にこのように出勤はゆっくりだった。
「じゃあ。紅茶を煎れてもらうか」
「うん、いいわよ。任せて」
涼は朝食を愛していた。一人きりの時でも、気分が落ち込む日こそ、自分でこしらえて食べていたと聞かせてくれた。
紅茶を煎れ、彼の目の前にヘレンドのティーカップを置いた。眼鏡の涼が新聞を読みながら、そのビクトリアのカップを取る。
彼の角合わせに座る。それが彼の傍にいる時、珠里が安心する場所になっていた。
珠里も同じく、母からもらったヘレンドのカップを手に取り、朝食を取る。
「お母さんのところへ行くんだろう。俺、部屋で書類の整理をしてから出かける。見送らなくていいよ、かまわず出かけていいからな」
「ありがとう」
『うん』と答えた眼鏡の目がもう、仕事の顔になっていた。
委員長は相変わらず、前を真っ直ぐに見て、まっしぐら。方向を見定めたら、信じて疑わずに前へ進んでいく。
そんな彼の熱い想いは、真田珈琲のために貢献し、注がれている。
出勤前に書類をまとめている涼を残し、珠里は玄関に鍵をかけ出かける。
無事に退院をし、ついにこの瀬戸内の住人になった母の新居へと向かう。
婚約をした彼と住まう新居は、海猫の声が良く聞こえる。
一軒家を囲う塀を出て、小さな道を歩いて国道へ出る。少し歩けば、いつものフェリーが着岸する港がある。だからこの家を借りた。
徒歩五分。目と鼻の先。海沿いに高くそびえ立つマンションがある。
父がそこに母が住まうためのマンションを購入した。
『私が住むところを探さなくちゃね。珠里と涼さんの新婚生活の邪魔になりたくないから、一人で暮らすつもり』
精神も落ち着いてきた母は、ひと月ほどじっくり入院生活をするとすっかり体調も良くなり、退院することができた。
それを見越して、住んでいたことがあるとはいえ、ほぼ知らないこの街でどのように娘と暮らしていこうかと、母はあれこれ思い悩んでいた。
『任せなさい。私が探してあげよう。君は療養に専念して、余計なことは考えない。いいね!』
あの父が。自分の好きな趣味のことだけにしか動かないと思った父が、どうしたことか、この瀬戸内の街に暫しとどまって、母の今後のためにあっちへこっちへと精力的に動いてくれた。
その父に任せっきりにしていたら、母が退院する数日前に突然『島が見えるマンションを買うことにしたよ』と、またあの無邪気な顔で報せに来たのだ。
静かな港町で、気ままな生活を始めると、母も徐々に穏やかになっていった。
都会の喧噪を離れ、ただ潮騒に抱かれる日々が、母を変えていく。
そして両親は、今になってやっと穏やかな夫婦になれたようだった。
母がこの瀬戸内に住むと決めた後、珠里は父からいままでの母のことを聞かせてもらえた。
『お母さんはお嬢様育ちだったんだよ。誰も疑わない純真なままのお嬢様を手込めにしようとした親戚がいたらしくてね……』
そう聞いて珠里も驚きを隠せなかった。何故なら、自分も神戸で『美人だ』と女性達に妬まれ陥れられ、仕組まれた場で上司に手込めにされそうになったことがあったから……。それが神戸から逃れてきた最大の原因。
『お母さんは、珠里が自分そっくりに生まれたことをとても案じていた。この子が可愛らしく笑うたびに恐ろしくなる。いつかあの子も食われてしまう。そうなったら私は死にたい、珠里と一緒に死にたいとよく言っていた』
疎まれていたのではなく女性として厳しく育てようとした愛情の裏返しが、精神的に不安定だった母にとっては行き過ぎた険しさになってしまっていたのだと理解した。母はその手の治療も受けていた。父が娘をかばいきれなかったのは、母のこともかばっていたから……ということだったらしい。『珠里、私も悪かった。父親として』、父にまで頭を下げられた。だけれど、もう。
――私、もう子供じゃない。
自分に与えられたものは良いものも悪いものも、珠里のもの。それをどう受け止めて生きていくかも珠里次第。それを同級生とすごした島で知ったから、もう大丈夫と父に伝えた。
新しい家族の蘇生が始まる。
母は料理は得意だが、菓子やパンを焼いたことがない。だから珠里が母のマンションに通い教えている。
「デニッシュパンを自分で焼けるようになったら嬉しいわね、できるようになるかしら、珠里」
「まず基本の丸パンからね。じゃあ、これからデニッシュを目標にしようね」
「焼きたてが食べられる日が楽しみよ」
ゆったりとパンを作ることが、母にとってはセラピーにもなっているのではないかと思ってしまう。
丁寧にきちんと作ること、その時間に無心になることで、また母なりの懺悔をしつつも、そんな自分を素直に受け入れ、そしてまず自分で赦していく。それをしているように珠里には見えた。そしてお互いに喧嘩腰でもはっきりと言い合うようにもなっていた。
静かな港町、夏の日射しがキラキラと海を輝かせる青い午後。
蒼い海、白い船。そして緑の島。潮騒のする美しいリビングに、パンの匂いがいっぱいに広がる。
夕方になれば、釣りに出かけていった父が嬉しそうに帰ってくるだろう。
夜になれば、日曜はこの家で食事をする珠里を迎えに、涼もこの家の食卓を訪ねてくるだろう。
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