1-5 もう、いっぱいいっぱい

 チャンスを掴んだ。

 これをしっかり掴んだら、またあの頃のように上昇できる! そんな確信を持って、涼は島から市街にある会社へ戻る。

 企画営業部。いくつかの課に別れている。業務用珈琲材料を売りさばく営業をサポートする企画部、茶器やキッチンウェアを売りさばくための企画部など。その中で涼が所属しているのは、この企画部でもエースと言われるカフェ企画課。この珈琲メーカーが営む『カフェ店舗』の販売を支える企画を提案実行するのが職務。カフェ課は3チームに分かれていて、涼はそのうちの1チームの指揮を執っているチーフだった。

 珠里から譲ってもらったレモンの籠を手にオフィスに戻ると、部下に後輩達がびっくりした顔で出迎えてくれる。

「チーフ、それ。もしかして……」

 チームひとかたまりで向かい合わせているデスクの島。その上座にある自分のデスクにその籠を置いた。

「二宮果樹園の方が、これでどこにも負けないスイーツをつくってくれるなら契約しても良いと言ってくれた」

 えー、すごい。さすが、真鍋チーフ!

 部下達が笑顔に輝く。まず、涼がこのレモンを引っ張ってこないことには彼等も先に進めず、計画通りに仕事が出来なかったからだろう。

「だが、まだそこまで。十日後に再度、二宮果樹園の方が試食をされるので、今の企画以上のサンプルを打ち出さなければならない」

「え、あれでは駄目でしたか」

 珠里に食べさせたスイーツすべて。この部下後輩達と考案したもの。そして昨夜は、パティシエに徹夜で作ってもらった。島から帰ってきた涼からの突然の指示でも『おばあちゃんの島レモンをゲットするなら、それぐらいの無茶も必要』と心得えてくれ、昨夜は午後から奔走、チームメンバーもパティシエも素直に従ってくれたのに。懸命に提案、準備、製菓までやったのに『どれも却下』。いま、彼等はその結果を突きつけられたところ。当然、途端に気落ちした顔が涼の目の前に並ぶ。

「果樹園まで持っていって果樹園主に食べてもらって、俺も気がついたんだ」

 自分たちが企画したサンプル、それを噂の果樹園主人に試食してもらってチーフが持って帰ってきた答え? それは? 部下達の目線が涼に集中している。

 心苦しいが、涼は彼等に告げる。

「正直。おばあちゃんのレモンの力を借りてどこかにひとひねり加えただけの、それがなければ『出来が良くて当たり前の、美味くて当たり前の』すべてが平均的なものだったと……」

 カステラにレモン。パンナコッタにレモンピール。ごろっとレモンの果肉を大胆につかったロールケーキ、生クリームもレモンテイスト。レモンブラウニー。レモンのグラニテ。レモンのブラマンジェ。レモンのクラフィティ。どれも既存の菓子に『おばあちゃんのレモンを入れたから、すごくおいしいよ』という押しつけに過ぎなかった。それを腕の良いパティシエが綺麗にデコレーションすれば、それは美しく仕上がって当たり前。

「外に持ち出して、俺も、彼女に食べてもらって彼女の顔を見て、『カメリアさんの白いお店では綺麗に映えるでしょうね』と言われて初めて思った」

 部下の顔を一人一人眺め、涼は改めてはっきり言う。

「うちの店から出たら、なんとも平凡なスイーツだった。どこの店が出していると聞かれて、どこの店でも出していると言われてもおかしくないような雰囲気しか感じなかった」

 彼等の表情が愕然としたものに次々と崩れていくのを見て、涼も口惜しい思いを噛みしめ目をつむる。確かにどこか甘く見ていたかもしれない。企画室の中だけで、自分たちだけで盛り上がって自己満足に自己完結をしていたかもしれない。

 あの田舎の、島の片隅、農家宅。そこで農業姿の女性に手に持ってもらってあのスイーツは輝いていたか? 涼は首を振る。素敵なスイーツはカフェを出ても輝いている。田舎の雰囲気の中ならば、もっともっと輝いているはずなのだ。なのに……。確かに、カメリアの白い城を出て行ったあのスイーツ達は逆に輝きを失っていた。

 ――『負けるよ』。

 冷めた目でありながら、どこか心配そうに崩れていた珠里のあの眼差しも、ずっと心に残っている。

 なんだろう。あの目。『負けるよ』。誰に?

 車に乗って、フェリーに乗って。潮風の中、遠ざかっていく島を眺め……。港について、オフィスビルが建ち並ぶ市街へと車を走らせている間。涼はずっとそのひっかかりがなんなのか考えていた。気になって離れなかった。

 そして自分がどうしてここまで『不安』を感じているかに思い当たる。『まるで彼女の中で、誰かと比べられているような気がする』。そんな相手がいるように思えてきた。

 その時、やっと……。彼女が『ごめんなさい。どうしてもだめなの』と心苦しそうに、カメリア珈琲との契約は出来ないと言い続ける訳が浮かんできた。

『誰かが既に二宮のレモンでなにかをしようとしていて、既に約束をしている?』

 そんな考えに至った。涼と同じように。一歩先に、もうカネコばあちゃんの島レモンで、何かをやろうとしているのだと。

 ――『こんなものじゃ、負けるよ。どこに出しても絶対に負けないものを作ってきて。それならば……』。

 どこにも負けないものではないと、契約は出来ない。つまり、やっぱりどこかの誰かが『もっといいものを、二宮のレモンで作ってくれる約束』をしているのだ。

 いや、まだだ。彼女は『この日に持ってこい』と指定までしてくれた。その日に『負けないものを叩き出す』ことが出来れば間に合うと言ってくれている。遠回しに暗にほのめかしてくれていた?

 そんな気がしていた。そして涼の脳裏にくっきりと浮かんだものがある。

『真田だ。あの社長が、もう動いている』。

 そんな気がした。あるいは、もっとすごいものを企画した同業者が現れたのか?

 だとしたら。ここはこの意気込みで向かうべき。『真田に勝つつもりの商品を企画する』だ。

「もう一度、ミーティングから立て直しだ。今から資料を集めるなり、アイデアを出すなり、各自まとめてくれ。二時間後にミーティングを開く。一からやり直しだ」

 彼等に『一から』と言うのは簡単なこと。部下達は既に疲労感を漂わせている。だがここでチーフとして涼はもう一声。

「この街でカネコおばあちゃんのレモンにぴったりの菓子を一番最初に売り出すのは、カメリアだ。いいな」

 『自分たちの仕事が一番になる』。その一声で彼等の表情が一気に引き締まる。『はい』という毅然とした返答があり、涼は密かにほっと胸をなで下ろした。

 そんな自分も『一から考え直し』だ。


 


 ◆・◆・◆


 


 五日ほど経った。珠里に指定された日も、あと五日。折り返し地点に来たというのに、なにも思い浮かばない。

 目覚めると、ネクタイを首にかけシャツを着たままベッドで寝ていた。二日ぶりに家に帰ったというのに、シャワーを浴びたいから帰ってきたというのに。

「ちくしょう」

 ボサボサに寝癖がついた黒髪をがりがりかきむしり、涼はワイシャツとスラックスの姿のまま起きあがる。

 眼鏡をどこに置いたかもわからず。眠る時の定位置であるナイトテーブルにもなかった。どこで外したのかベッドから降り、あたりを探すと、パソコンデスクの上にあった。

 黒縁のスクエア眼鏡、それをかけひとまずシャワーを浴びに行く。

 洗面所の鏡に映っている自分を見てびっくりする。とんでもない寝癖に無精髭。こんな姿になったことなど、もうずっとなかったはず。

「なんでだ。なんでこんなに追いつめられている」

 洗面台に手をついて、涼は項垂れる。

 あれから五日、涼のチームは良い結果に一向にたどり着けないでいた。

 やはりアイデアを搾りきった後、さらに新しく……はなかなか出来なかった。

 連日のミーティング、テストキッチンでのパティシエとの格闘。

 ――『真鍋、本当に大丈夫なのか』。

 課長と部長が様子を眺めている声。涼が島へ出向いて二日ほどで、レモンを持って帰ってきたこと、二宮果樹園と条件付きではあるが契約をする約束を取り付けてきたことは『さすがだな』と言ってもらえた。

 だが。そこから進まない様子の真鍋チームを眺めていた課長と部長が昨日から案ずる声。

 そこで、課長にこっそり言われた。

 ――『期間内に上手く運べなかった場合は、梶原の案を代替えにして進めると、部長が言いだした』

 とんでもない状況ができあがっていると知り、涼の中に今までにない焦りが生じた。それが昨日の夕方。

 もう甘い菓子は食べ飽きた。舌がおかしくなりそうだ。どれが美味いのか甘いのかわからなくなってきた。それほど試作品をつくりまくった五日間。会社に泊まり込み、自分でも菓子を焼いた。

 だが、自分が焦っている動揺していると認めた時――。涼は肩の力を抜いてしまう。

『やめよう』

 昨夜、日付が変わる頃。ネットを検索したり、菓子の資料を眺めたり、涼と共に菓子を試食したり奔走していたメンバー全員に仕事をやめさせ帰宅させた。

 そして涼も、帰るなりスイッチが切れた……ということらしい。

 再び鏡に映る自分を見る。ぶつぶつとした髭で真っ黒な顔。

 『はあ』と溜め息をこぼし、首に巻き付いたままのネクタイをひっぱり、しわくちゃになったワイシャツを脱いだ。

 

 熱いシャワーを浴び、いつもの小綺麗な自分に戻る。やっと自分を取り戻した気になる。

 久しぶりにゆっくりの朝食。珈琲を淹れ、カッテージチーズとスモークサーモンとレタスのベーグルサンドを作ってみる。涼自身、料理は嫌いではない。その気になれば、菓子だって作る。実家近くのマンションで一人暮らしだが、冷蔵庫にはそれなりに食材も揃え自炊している。

 今日は傍らに、先日、珠里からもらった『カネコおばあちゃんオリジナル』のお手製マーマレード。それをプレーンヨーグルトにかけて食べてみる。

「うまい」

 爽快な酸味と香り。目が覚める。気分もほぐれる。同じもののはずなのに、真田が販売している『おばあちゃんのマーマレード』と、あの農家キッチンで本物のカネコおばあちゃんの手が作ってくれたオリジナルは、ほんの少し味わいが違う。

 ラベルもない無印の瓶を手に持ってみる。

「なんでだろ。同じレシピのはずなのに」

 甘みの優しさが違う気がした。手作りという先入観?

 久しぶりの『自分で作った朝食』を堪能。こんな時間が涼は好きだった。それで元気が出る。

 気持ちを切り替え、淡いレモン色の無地シャツに、カフェモカチェックのネクタイを今日はコーディネイト。ダークグレーのスーツを着込み、ジャケットの襟を姿見の前で正す。

 身なりが整ったのを確かめ、涼は自宅マンションから軽快に出勤した。

 

 会社に到着し、毎朝のミーティング。午前の業務が落ち着いてきた頃。少しは休めたのか、ゆったりとした表情になっている後輩部下に涼は告げる。

「島に行って来る。今日は資料集めやヒントを探して待っていてくれ」

 一時休戦。今日は頭を休めよう。そう告げたのだ。

「もう日がありませんけど」

 彼等にもそんな焦りは残っている。涼もわかっている。

「まだ五日ある、だろ」

 リーダーはこんな時、密かに弱っていても強気でなくてはならないと思っている。

 それで後輩部下達がさらにホッとした顔になる。涼がキリキリしていれば、彼等もキリキリするに決まっている。今日はゆるく行こう――、そう決めてきたから。

「そうですよね。わかりました。なにかいろいろ探して、皆で話し合っておきます」

 頼れる後輩に留守を託し、涼は一人企画室から出て行く。


 


 ◆・◆・◆


 


 今日は『チーフ業』も一時休戦。穏やかな波間をゆくフェリーの甲板で、涼はぼんやりと晴れ渡った青空を見上げていた。

「なにしているんだ、俺」

 よくよく思い返し、どうして、いまフェリーに乗っているのだと――。どうして島に行こうだなんて思ってしまったのかと自分で首を傾げている。

 部下達は『差し迫った日程延長の交渉かも』とか『果樹園を見渡して、なにかヒントを探しに行くのかも』とか。チーフとしての涼の心情をそんなふうに察してくれていることだろう。

 でも涼の中では不思議な気分。もちろん『島に行けば気分転換になって、なにか思いつくかも』という気持ちがあるのも本当なのだが。何故か、朝食を食べた瞬間から『島、行きたい』とうずうずしていた。カネコばあちゃんのマーマレードのせいだろうか?

 無性に、この潮の匂いを嗅いで、フェリーの風を感じて。そして静かな島を歩きたくなった。

 ぼうっとしていると、胸ポケットの携帯電話が鳴った。着信表示は『母』。

『ちょっと涼。あのマーマレード、すっごく美味しかった! 売っているのと違うの。涼も食べた?』

「ああ、今朝。やっと食べた」

『もう~。相変わらず、忙しそうね。連絡してもちっとも返してくれないし』

「ごめん。昨日、やっとゆっくり眠れたんで」

『ちゃんと食べているの』

「うん。今朝は自分でつくって食べた」

 母のホッとした息づかいが、涼の耳に届いた。

 珠里から預かってその日の夜のうちに、実家に届けた。父はあの珠里が島の果樹園の嫁になっていたこと、既に未亡人になっていたことにとても驚いていた。そして二宮の家の男主人達が逝去していたことも。

 それから母に青いレモンとオリジナルのマーマレードを渡すと、美味しいもの好きだけにこの上なく喜んでいた。『本物の、おばあちゃんが作ったマーマレード!』とそれはそれは。

『たまには、うちに帰ってきて夕食を食べてもいいんだよ。連絡くれたら遅くても用意しておくから』

 息子が三十二歳になっても、母はいつまでも母親のよう。東京勤めから、地元に帰ってきた時。どうしてか母がとても嬉しそうで、こうして頻繁に連絡してくる。

「いまさ。またフェリーに乗って、島に行くところなんだ」

『あら。二宮さんのところに。御礼を伝えてね』

「わかった」

 すると母が一時黙った。妙な間を感じた涼は首をかしげる。

『……珠里さん。きっと東京のご実家には帰らないでしょうね』

 いつも明るい母が妙にしんみりした、しかも哀を含める気の毒そうな声。

「どうして」

 彼女も同じように言っていた。『家族と離れてせいせいした』と。それをもう十何年も彼女を見ていないはずの母までもが同じことを言うなんて、そこになにかがあると涼は感じ取る。

『そのうちにわかるかもしれないけれど――』

 母がすこし躊躇いがちに呟いた。

 ――彼女、母親に愛されていないのよ。あの頃から。

 携帯電話を片耳に、涼はゆっくりと目を見開いていた。

 黙った涼を察したのか、母が続ける。

 この後、母から聞かされた『当時の三枝家』の話。子供には悟られないよう交わされていた親達の事情を、この歳になって涼は初めて知る。

 電話を切り、涼は波しぶきが飛ぶ船首へと視線を向ける。もう島は目の前、着岸する港がすぐそこ。

 彼女の冷めた目、美人なのに無愛想な顔、人を馬鹿にしたような目つき。でも……。本当は……。

 籠に、青いレモンを入れている彼女の横顔を思い出している。

 あの時、彼女はちょっとだけ微笑んでいた。


 


◆・◆・◆


 


お母様ね、島暮らしがかなり嫌だったみたい。

如何にも東京育ちのお嬢様といったふうの方で。ご主人は離島暮らしは憧れだったようだけれど、それに付き合わされて『うんざり』とよくこぼしていたわよ。

珠里さんよりも、弟さんばかり可愛がられていてね。珠里さんには辛く当たって、弟さんはとにかく猫かわいがり。偏向的に溺愛している姿を何度も目撃されていたほどよ。

 

 そんな母の話。知らなかった。子供だったから当然だが。当時のあの彼女のお高くとまった雰囲気は、あれは母親の影響だったのか……?

 

 黒いアウディは港から、また静かな島の海沿いを走り、二宮果樹園へ。

 今日も玄関ドアには、ホワイトボードがぶら下がっている。確認すると『果樹園まで』。今日はまた、レモンや柑橘の樹木が立ち並ぶ畑の小道を行く。

「今日はどこなんだよ」

 立ち止まり涼は耳を澄ました。潮風、潮騒、島の声。そして遠くパチンパチンと鋏の音。そちらへ涼は黒い革靴のつま先を向ける。

 徐々に鋏の音が大きくなり、その木陰に脚立を見つけた。今日もその上に、農帽ですっぽり顔を覆い隠している彼女がいる。

「三枝」

 変わらず旧姓で呼ぶと、脚立の上から彼女が見下ろす。

「真鍋君!」

 今日は目に表情があった。そしてどこか血が通っている温かみも感じた。とても驚いている目、大きく開いて、そして涼を写すその黒目には温度ある潤い。

「また来ちゃったんだよ。悪い、アポイントも取らないで」

 今日はカメリアの企画チーフじゃない。同級生の気分で来ちゃったんだよ。そう言いたかったが……、涼を見た途端、彼女があたりをキョロキョロと落ち着きなく見渡し、そして慌ただしく脚立を降りてきた。

「どうして。約束の日はまだ……」

「そうなんだけど。行き詰まって。気がついたら、ここに来ていた」

「行き詰まって? 気がついたらって?」

 それでどうしてここなのだ――と、彼女も不思議そう。

 今朝、カネコさんのマーマレードを食べたら……さ。そう言おうと思った時だった。

「珠里さん。新種の紅マドンナがいい感じでしたね。お言葉に甘えて、気になったものをもいできましたよ」

 そこに白いコート姿の男。彼を一目見て、涼の全身が一気に硬くなる。

 あちらの男性も、珠里といる涼に気がついた。

「おや。お客様でしたか」

 涼は青ざめていたのだろう。なにせ彼を見て言葉を失っていたから。それを珠里が察知し、その男に答えた。

「同級生なんです。この島の中学校に通っていた時の。彼のお父様は当時、この島の小学校の先生だったんですよ」

 カメリア珈琲の者、ましてや鉢合わせをしてしまったその男とは『同業者』だなんてことは、彼女が機転を利かせ避けてくれたのがわかった。

 細身の中年男。白髪交じりの短髪頭、でも年齢の割にはスタイリッシュな身なり。そして重厚な眼差し。

 涼の目の前に現れた『同業者の男』は、老舗、真田珈琲の真田輝久社長。

 あのやり手『狼社長』が、そこにいる!

「珠里さんの、同級生でしたか」

 狼社長と目が合う。涼の指先が密かに震えている。彼の眼光が鋭く威圧感があるのも本当だが、それ以上に勘は当たっていたことに震えている。

 この『男』、既にこの果樹園に足繁く通っている様子。

 しかも、なにか探している様子。やっぱりこのやり手社長も動いていたという確信に、心も震えている!

 だが涼のことなど知りもしない彼は、悠然としたまま。彼の手には、大玉の柑橘。その橙の皮に鼻先をくっつけ、胸いっぱいに香っている姿。

「これ、試食してもよろしいでしょうかね」

「もちろんです、是非。ばあちゃんの今年一番のオススメなんです。きっとお気に召して頂けると思います」

 農業割烹エプロンのポケットから、珠里が果物ナイフを取り出す。彼の手から大玉の柑橘を受け取り、器用に手の上で四つに割った。

「ここは、いつ来てもいいですね。なにを創ろうかという胸騒ぎが止まりませんよ。いつも」

 柑橘の樹木を見渡すその男の笑みを、涼は初めて見た。同業者の前では決して、そんな和やかな笑みなど見せたことはない。いつも誰かを威嚇して睨んでいる。そういう男なのに。

「真鍋君も、試してみる?」

 あくまで訪ねてきた同級生として、なんとかこの場をやり過ごそうとしてくれている珠里。

 だが、涼にはそれが出来なかった。

 上着胸ポケットから、名刺ケースを取り出し、涼はそれを真田社長に差し出していた。

 傍にいる珠里が、そんな涼を知り、心配そうにみているのが目の端に移った。それでも、涼は狼社長に真向かう。

「わたくし、カメリア珈琲、企画営業部の真鍋と申します」

 オレンジの果肉を頬張っていた真田社長が、目を丸くしている。

 彼にしてみても、突然――であるだろう。目の前に、ライバル同業者、しかも全国大手メーカーの社員が同様に果樹園を訪ねてきているのだから。

 地元で圧倒的支持を得ている個人経営の老舗屋。そして。組織力と資金力で、店構えもバリスタにパティシエも、ハイレベル揃えで地域を圧巻する全国大手メーカー。

 だがこの街では、カメリアの全国的手腕は通じない。地元のこの男一人の手腕に押し切られっぱなしで二番手に甘んじている。

 そんなライバル同士の男が今ここに――。

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