4章 レモンをどうぞ (side 珠里)
4-1 紅茶をいれましょう。
この人が心配かと聞かれたら、心配だけれど会いたくないと答えるだろう。
「なんなの、この紅茶は! 田舎にお嫁に行って、煎れ方も忘れてしまったの!」
毎度の金切り声も、妙に懐かしく思ってしまうから困ったものだった。
「煎れ直します」
意地悪な姑とかよく聞くが、実母こそその意地悪な姑ではないかと錯覚してしまう。
コンロが使えない病院で、給湯器の湯で紅茶を煎れたのが間違いだった。
なんとかして沸かし立ての湯を用意できないかと看護師に相談したところ『電気ケトルはいかがですか』と教えてもらい、家電量販店まで探しに行くことにした。
なんとなく覚えている道を行き、用事を済ませ、一時間ほどで母の元へ帰る。
湧かした湯をすぐさまティーポットに注がないと、あの人には解ってしまう。少しでも温度が下がった熱湯で煎れると、茶葉の抽出が緩くなる。湯が茶そのものになるような味ではなく、湯に溶けだしただけのような混ぜものの味になる。香りが弱くなる。それをあの人は嗅ぎ分けてしまうのだ。給湯器のお湯など、熱湯だといっても風味も含めて以ての外といったところだろうか。
「まったく。紅茶の一杯を煎れるのに何時間待たせるのよ」
「ごめんなさい」
だが、今度はティーカップを傾け、母は静かに飲むようになった。つまり、電気ケトルで湧かした湯でも及第点をもらえたようだった。
「つかれたから横になるわ。もう今日はいいわよ。帰りなさい」
母は心筋梗塞で倒れた。元々要注意の兆候はあったのだが、今回は度重なるストレスも要因していたのではと医師から聞かされた。
最愛の息子が結婚すると言いだして、憤っているうちに、負担になっていたのだろうか。
入院生活は明らかに、母をやつれさせていた。いちいち憤る性格は変わっていないが、顔に精気がなかったのだ。
母も『美人』と言われてきた人で、珠里は母親そっくりに生まれた。いつも品良く整えていた母のやつれようを一目見た時は、やはりショックだった。
「また明日、来るね」
洗濯物などを紙袋に詰めこみ、この日は母の病室を後にした。
バスで三十分ほどのところに、実家がある。いまはそこから病院に通っていた。
夕方、実家に帰っても一人だった。父はどこに行ったのか帰ってこない。
弟に聞けば、もう定年退職前で、暇さえあれば有給休暇を消化しながら、富士五湖に入り浸りだそうだ。
女がいるとか? ふとそう呟いたけれど、珠里は弟と一緒に笑い飛ばしてしまった。父は子供のような人。女性に興味を持つよりも『子供のような遊び』に夢中になる。昔からなにかに熱中していて、そればかり。つまり『オタク気質』なパパだった。
父にとって、女は面倒くさい存在なのだろう。あれをして欲しい、こうして欲しい。鬱陶しいに違いない。『僕はいま夢中なものがある、頼むから邪魔しないでくれ』と思うのだろう。
実家でひとり、簡単な夕食を済ませ、明日でかける準備をして、ひと息ついた。
一人きりの実家、その夜も珠里は密かに涙をこぼしていた。
七月一日、その日までには東京を出て行かねばならない。彼に会わないように……。
玄関が閉まる音がして、珠里はハッとする。
「お、お父さん」
「珠里。帰っていたのか」
釣り人の姿で、しかもあまりにもにこやかだったので珠里は唖然とした。
妻が倒れたのに。なかなか退院できずにやつれていく一方なのに。どうしてそんな暢気に自分のことばかり出来るのだろう!
なんとなく父にそんな希薄なところがあると感じてはいたが、まさか、こんな時にその気質を目の当たりにするとは思わなかった。
「お父さん。お母さんを放って、なにをしているの」
靴を脱ぐ父は、相変わらずニコニコしている。そうこの父の計り知れないところは、たまに的を射たことをビシッと発言することがありながらも、常にニコニコしているところだった。
その父が久しぶりの娘の顔を見る。そのビシッと言う時に瞬時に見せる真顔になったので、珠里はおもわず硬直した。
「泣いていたのか」
慌てて黒髪の中に顔を伏せてしまう。
次に父を見ると、もう笑っていた。
「珠里、もう帰りなさい」
母を一人にしようとしている? そう思った。
父はなにを思っているのか解らないいつもの笑顔のまま言った。
「夫の私も、溺愛していた息子も、気の良いお嫁さんも、お母さんが受け付けようとしないのだよ。帰ってきてくれて有り難いけれどね、どうせまたおまえがそばにいたらいたらで、ネチネチいびっているんだろう。泣くぐらいなら帰りなさい。もういいんだよ。彼女はあれで」
「でも、だからって……」
玄関をあがった父がリビングへと歩いていく。珠里もその背を追った。
「お父さんは、畑にいる珠里が楽しそうでいてくれて安心していたんだよ。悪かったね、珠里。おまえが安心して身を委ねられる実家ではなくて、そこはお父さん申し訳なく思っている」
この通りだ。父に初めて頭を下げられ、珠里は驚きで固まる。
「彼女が、独りになりたいと望んでいるのだから仕方がないのだよ」
リビングにあるサイドボードにひとつの封筒。それを手にすると父はソファーに座った。金の猫足のガラステーブルの上に父がその中身を取り出し広げた。
緑の枠線のその紙を見て、珠里は驚愕する。
「それって……」
「離婚届だよ。ほら、お母さんの氏名が既に記入されている」
だが父の名は記されていなかった。
つまり。母から言いだしたということ!?
「私は応じるつもりだよ」
流石に父もその時は真顔だった。
どうしてこんなことに?
避けていた両親とはいえ、あまりにも突然の決裂に珠里は言葉を失うしかなかった。
◆・◆・◆
紅茶をいれましょう。
貴女が好きな紅茶をいれましょう。
たったひとつ、貴女が毎日求めているものだから。今日も紅茶をさし上げましょう。
驚愕の変化を知ってから、一夜が明け、珠里はまた母の病室へ出向き、紅茶を煎れている。
火で沸かした湯ではないと小言を言われる覚悟で、電気ケトルを病室に持ち込み、母の目の前で紅茶を煎れた。
「昨日の紅茶もそれで入れたですって。あら、それでも充分だってことなのね」
それまでまともな紅茶が飲めていなかったようで、昨日のお茶は久しぶりに家に帰ったようだったと――。母が珍しく、珠里がしたことで喜んでくれたような気になる。
温めておいたティーポットに熱湯を注ぐと香り立つ紅茶。母が胸いっぱいにその香りを吸い込んだ時、かつての麗しい笑みを垣間見せたのを珠里は見逃さなかった。
母は茶葉の香りを楽しむ人なので、なにも加えずストレートで味わうことを好んでいる。
ティーポットとティーカップの数は知れず、彼女の実用を兼ねたコレクション。その中でも取り分け気に入っているこれを日常に使っている。
金の縁が美しい『ヘレンド』のカップが数年前からお気に入りだった。使い込まれたこなれ感が紅茶を煎れている珠里にも伝わってくる。
茶器を愛して使い込む。そこに母の愛が見える気がした。
その時、涙がこぼれてしまった。
父も、母も、好きなことへこれだけの熱情を持っているのに、それがどうして人に向かわないのだろうと。
「いい香りねえ……」
ティーポットに注ぐ。そんな時、かつての母を見た。
そんな顔が出来るのに……。
何故、母は、父は、互いに相手を見ようとしなかったのか。
――『次の金曜日に、これをお母さんに届けて最後とするよ』。
父の決意も固かった。次に住まう家も決めていて、東京を出て行くという。あの家は母に譲るそうだ。
――『御殿場に住むことにしたよ。湖が近いだろう。いつでもおいで。珠里も成実も、もういい大人だ。私たちは分かつけれど、お前達の父親で母親だよ。いいね』
子供ならジタバタ出来ただろうに。実家を出て瀬戸内に嫁いだまま帰ってこなかったのだから、いまさら帰る場所の状態を変えないでくれだなんて言えなかった。
「まずまずね」
飲み終わったヘレンドのカップを母は満足そうにティーカップに置いたので、珠里もほっとする。
「そろそろお昼ね。貴女、食事でもしてきなさい」
「はい」
母もそろそろ食事だが、一人で食べる方が気楽なようだった。当初は付き添って黙って傍にいたが、また母が苛々して愚痴愚痴と何事にも小言を言い出したので、その場を離れることにした。その方が、母も綺麗に残さず食していると気がついたから。
「ああ、珠里。いつもの雑誌もお願いね」
「わかったわ、お母さん」
気のせいか。徐々に母が落ち着いているように思えてしまった。ほんとうに気のせいだと思う。自分がそう思いたいだけなのかもしれない。
珠里が病室の引き戸を開けた時だった。
ぐ。うぐっ……。
苦しそうにくぐもる声が聞こえ、振り返ると、 胸の浴衣を握りしめ、息苦しそうに俯いていた。
「お母さん、大丈夫!?」
うずくまったその拍子にベッドテーブルに母の身体があたり揺れた。その時、珠里はあっと声を漏らしてしまう。母のお気に入り、ハンガリー製のヘレンドのティーポットとティーカップが傾き、白いベッドに落ちたかと思うとそのまま床へと滑り落ちていった。
ガシャリとした激しい音が病室に響いた。
時が一瞬止まったようだった。彼女が愛してやまないものが、ひとつ、ふたつ、壊れていく。
「うそ、お母さんのティーポット!」
拾いたい、でも、母をなんとかするのが先。ナースコールを押そうとしたその手、急いでいるのにがっしりと母に掴まれてしまう。苦痛に歪む母の顔が、さらに険しくなり珠里を睨む。
「もう結構。そんなティーポットなんてもういらない。珠里もいらない。田舎の島にとっとと帰りなさい。もう出て行った人間なんだから、帰ってくるんじゃないわよ。無責任ね、畑で生きていくだなんて、ただ逃げていただけのくせに大口叩いて!」
力無い手が、労ろうとした珠里の身体を弱くはね除けた。
ナースコールをすぐに押して、それでも珠里は母を抱いていた。
何かを見た気がした。次々と自分の傍にいる人間を切っていく。拒絶する。
それって。私に似ていない? 歩み寄ってきてくれた人々を切り捨て、『私は、貴方達にとっては邪魔なのだ。重荷なのだ』と。
「お母さん、もう、やめて」
「帰りなさい。帰りなさいって言ったでしょう! なにをやらせても中途半端! 神戸の会社も続かず、島にひっこんで畑を真面目にやっている顔をして、困ったことがあるとすぐにそこから逃げるんだから!!」
痛く胸に突き刺さった。本当のことだった。結局、逃げている。実家からも、神戸も、真田社長からも。夫と大切にしていた畑すらも。そして……涼からも。
『どうされましたか!』 ナースが飛び込んできたが、母があまりにも興奮状態なので、さらに数名のナースがやってくる事態となってしまった。
今日はもうそっとしておいたほうがと言われ、珠里はそのまま病院を後にした。
初夏の空は、東京でも綺麗な青で爽やかだった。その帰り道、思った。
母は諦めている。そして珠里も。
私もあの人も、愛を諦めてしまった者同士。すっかり諦めた母を見て、あれは私と同じ姿なのだと珠里は思った。
あんなふうに、委員長を拒絶してしまったのだ。
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