4-2 やっぱり、委員長は最低!

 今夜も雨。夜の静寂しじまに、サラサラと優しい雨の音。

 雨の音は落ち着くとよく聞くが、いまの珠里は落ち着かなくなる。雨足に風の程度が気になってしまう。ネットで詳しい天候を調べてしまう。

 レモンは雨に弱く、傷つきやすい。実がなると天候に気遣う。だけれど、あの瀬戸内はほんとうに温暖な気候で、雨が少ない地域。

 香川で溜め池が多いのはその為。愛媛も夏になれば、毎年『雨が降らない。もう何十日目、このままでは水不足。節水制限』と天気予報で耳にするほど、渇水に追い込まれやすい地方。人の生活に支障をきたしても、それを恵に変える実りがある。瀬戸内が柑橘に向いているのは、あの気候のおかげでもあるのだろう。

 島の自宅にいれば、農協からネット配信されている害虫情報などもわかるのに。いまそれがない。

「レモン……」

 と呟き、珠里はゲスト用のベッドの縁で項垂れ、涙をこぼした。

 恋しかった。なにもかもが。畑の空気も、夫の匂いが微かに残っている部屋も、おばあちゃんとお義母さんも。そして……。

「真鍋君……」

 もし、あのあと。彼と恋仲になったとしてどうなったというのだろう。



 

 涙もろいな。冷めた顔して、涙はいっぱい出てくるんだな。

 笑顔が苦手だから、涙のほうが感受性強いのかな。

 

 黒縁眼鏡の朗らかな微笑みの彼ばかりが、珠里の中で蘇る。

 

「委員長、真鍋君……」

 

 ひとりきりだから、言ってしまおう。誰も聞いてないから、言ってしまおう。

 

「好きって抱きしめたい」

 

 人柄そのまま、飾り気ない真っ直ぐ熱血な彼の想いが、もう珠里の心を焦がしている。


 雨の音が激しくなり、むせびなく珠里の声も雨音にかき消されていく。

 

 涙が枯れる。これをずっと繰り返して徐々に畑に帰る気持ちも整い始めていた。

 七月一日。この日が過ぎたらすぐに帰ろう。それまでに両親のこと、特に母のことはどうするか考えなくては――。

 


◆・◆・◆


 


 母が発作を起こしてから数日が経っていた。あのあと、医師の処置によりすぐに落ち着いたが、母は言葉通りに珠里を拒絶するようになっていた。

 その間、父は家を出る準備を始めていて、御殿場の新居に行ったまま。弟の成実からも連絡があった。『彼女を連れて行くと、母さんは大変な勢いで憤るので、いまは会いたくない。でもその後、大丈夫だろうか』と彼らしい案ずる声を届けてくれた。

 弟には母が発作を起こしたことは黙っておいた。言えば弟も駆けつけてくるとは思う。でも母は拒絶するだろうし、もし彼女が一緒だったら気に病み、それをキッカケにせっかくの縁談が破談になっても困る。いま母は誰とも会おうとしないのだから、弟であっても、お嫁さんになる彼女であっても関係がないだろうから。

 

「来なくて良いといったのに。何故、来るの!」

 その日も、母がどういう態度を取るかよくわかっていても、珠里は病室を訪ねた。

「ティーポットとティーカップを持ってきたの。こちらでいいわよね」

 同じヘレンドの違うシリーズを持ってきた。ヘレンドが名を馳せた『ビクトリア』。人気パターンの『ウィーンの薔薇』より、母はこの『ビクトリア』を多く持っていた。

「それじゃない。いますぐ持って帰りなさい!」

 もうなにをやっても、否定される。

 だが珠里は黙って聞き流した。そして、嫌気がさしていた。母にではない、自分に。ああ。私はこうやって畑に来た委員長をなにがなんでも追い出そうとしていたのだと。きっと母と同じ酷い態度で彼を傷つけて、追い返していたに違いない。本心とは違うのに。

 いまの母は、私と同じ。だから全然平気。ただ情けないだけ。母の有様も自分にも。

「わかった。明日は違うものを持ってきます」

 こうして何度もティーポットとティーカップを持ってきては持って帰っていた。

 ティーポットもティーカップもなしでお茶を飲んでいるのだろうか? 母が茶器を使わないお茶を飲むなんて決してない。だったらもう何日も紅茶を口にしていないはず。母とはいえ、あまりの強情さに娘の珠里ですら業を煮やす。

「母をよろしくお願いいたします」

 ナースステーションを通る時、付き添うことも拒否されているので、家族として頼んでから帰る。

 詰めているナース達にも母の気性と家族との不和はもう知れているようで、ただ微笑みしか返ってこない。

 主治医からも『暫く、お母様の思うとおりにそっとしておいても良いかもしれません』とも言われていた。

 だから珠里も無理して傍にいることはやめた。ただ瀬戸内へ帰る前に、あの人が日常を取り戻して生活していけることを見届けたいだけ。

 だけれど、いまの様子では無理のような気がした。

 ――どうしよう。七月一日が来てしまう。委員長が東京に来てしまう。

 きっともう、珠里が何故、畑を置いて実家にいるか知っている頃だろう。東京に行ったら珠里に会いに行ってみよう。涼ならそう思うような気がする。

 会ってしまったら……。もう……。

 こうなったら、やはり父ともう一度話さなくては。実家に戻り、ひとりの寝室で珠里は御殿場にいるだろう父親に連絡をしてみた。

『ああ、珠里』

「お父さん。私、七月になる前に畑に戻りたいの」

『ああ、いいよ。そうしなさい』

「お母さんのことだけれど。お父さん、時々でいいから、様子を見に来てくれない」

 沈黙があった。その間に珠里は絶望を感じた。

『彼女が一人で生きることを選んだんだよ。遅かれ早かれ彼女も私もあのようにして病院の世話になるだろう。その時、お互いに子供に迷惑をかけず一人でなんとかすることを決めたんだよ。私たちの離婚はそういうものなのだよ』

「でも! まだお母さんもお父さんも年寄りじゃないわよ! まだそんなこと決めるのは早いと思うんだけれど!」

 説得するのに上手い言葉が出てこない。こんなことしか言えなかった。だから父には通用しなかった。

『うん。彼女も私も若いから、まだ大丈夫だ。珠里、安心して畑に帰りなさい。じゃあ、お父さん、いまから人に会うので急いでいるから』

 無情にもぷつりと、父から切られてしまった。

 まったくもって。父の言わんとしていることが理解できない。離婚を決めたら、こんなにあっさりと母のことを放っておけるだなんて。信じられない。

 

 もう、どうして良いかわからない。

 

 だが珠里の答えももう決まっていた。

 あんな母だけれど……。やはり放っておけない。そう、退院するまでよ。するまで。そうしたら島に帰る。

 仕方がない。七月が来ても、そばにいよう。

 

 翌日、珠里は何度目のトライか。ダメモトだと趣向を変え、母が以前愛用していたミントンのヴィクトリアストロベリーを持参した。

 

 だがこの日、珠里は母の病室に出向き驚愕する。

 そのベッドに人がいない。母がいない。

 ベッドは既に、新しい白いシーツでかっちりとメイキングされ、もう誰が来てもいいような状態にされている。母の気配が一掃されていた。

「どうして」

 思わず駆け込んで、あちこち確かめた。引き出しも、個室クローゼットも、ベンチの衣装箱にも、なにも入っていない!


 


◆・◆・◆


 


「あの、三枝ですけれど。母は、母はどうしたのですか」

 ナースステーション。お馴染みのナース達が、驚いた顔を揃えていた。皆が顔を見合わせ、そして、年長らしきナースが困ったように珠里のもとに来てくれる。

「あの、失礼ですけれど。なにもご存じではなかったのでしょうか」

「え、私が、このことを知らなかったということですか」

 ナースも戸惑いが隠せないようで狼狽えていた。だが、珠里が娘であることはかわりがないと思ってくれたのか、躊躇いながらも教えてくれる。

「お父様とご相談の上、転院されました。少し前からお父様とお母様が担当医師と手続きを進めていましたけれど……」

 転院!? 父と母が、お互いにあんなに素っ気ない素振りを見せていたのに、二人で揃って決めていた?

「すっかりお嬢様もご存じだと思っていました。ここのところお母様に付き添わなくなられたのも、お父様とご一緒に転院の準備をしているからだとお聞きしていましたし、娘と一緒に愛媛へ帰るんだとお父様が仰っていましたよ。お母様の看病と療養を、お嬢様がお住まいの土地と決断をされたのかと思っていました」

 なにもかも聞かされていないことだった。父がそんなことを隠れてしていたとしても、どうして娘に黙っていたのか。

 しかも、そのナースが思わぬことを言い出した。

「お嬢様のお婿さんと仰る方もご一緒でしたよ」

 お、お婿さん!?

 気絶しそうなほど驚いた。誰、それ。父と母に疑われることもなくそう言わせる人っていったい誰!? そんな人知らない。勝手に婿だなんて男に手伝わせて、なにをしようとしているのか!

「そのお婿さんとお父様が付き添われて、お母様、愛媛に転院されることになったんですよ。お父様とお婿さん、ここのところその準備に駆け回っていたようですし、お母様もそれを決意したようで検査を受けたりして、あちらへお任せする手続きを終えたばかりです」

 そこでナースが『ああ、そうだわ』と何かを思い出したようにして、ポケットから名刺を一枚取り出した。

「そのお婿さんが、こういう者ですと名刺をくださったんですけれど……」

 勝手に人の婿を名乗るだなんて、とんでもない男! いったいなんという者だと、その名刺を手に取り名前を確かめた。

 それにも珠里は気が遠くなる。

 ――『真田珈琲 営業  真鍋 涼』

「なに、これ」

 長く名刺を見ていたが、もうなにがなんだかわからなかった。

「お父様がすごく嬉しそうにされて、その眼鏡のお婿さんとご一緒にお母様を連れて、今日、松山まで飛行機で行くんだと張りきっていましたよ」

 眼鏡のお婿さん?

「あの、確かに私、この男性と知り合いです。この真鍋さんはなにか言っていましたか?」

「いいえ。ですが、お母様のご様子をとても気にされて労っておりました。失礼ですが、いつもと違ってお母様もとても気分が良さそうで、嬉しそうに笑っていらっしゃいましたよ」

 ――やられた!

 ここまで話を聞いて、珠里もようやっと把握することが出来た。

「有り難うございました。何故、両親と彼が私に黙っていたのか良く解りましたので、ご心配なく。ご迷惑をおかけしました」

 さらにお世話になりましたと、遠巻きに見守ってくれていたナース達に礼を述べ、珠里はすぐさま病院を飛び出した。

 

 次に珠里が真っ先に向かったのは『羽田空港』。

 勿論、飛ぶ先行く先は『松山空港』!

 

「やっぱり、やっぱり、委員長は最低!」

 

 まだ頭の中の整理がつかない。両親と委員長がいつ接触して結託したかもわからない。

 だけれど、父も母も、あまつさえ涼も、もっと言えば真田社長も……。きっとおばあちゃんも。

 なにもかも、珠里のために仕組まれたことだと理解する。主犯格は誰? やっぱり委員長?

 飛び立った飛行機の座席でひとり。もう珠里は涙を流していた。

 意地っ張りな珠里をどうすればいいか。

 そんなことがわからないのは、私だけだったのだと。

 大事な人たちが、珠里を瀬戸内に向かわせている。

 何故、こんなことを皆がしたのかまだわからないけれど。きっとそう。

 

 小さな島々が浮かぶ青い海、白く長い橋、瀬戸大橋が窓から見えた時、珠里には聞こえた。

 

 おいで。珠里。興居島ごごしまに帰っておいで。

 

 そこに彼が待っている。

 瀬戸内で生きていくことを決めただろう彼が、待っている。


 

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