4-3 俺に勝てると思うなよ。

 島へ向かうフェリーが、飛行機の窓から見えた。

 青い鏡のような海上を、白波の尾をゆっくりとひいて、港へ向かっている。

 その港から少し離れたところに、空港がある。工場地帯の中に、真っ直ぐにのびている海の滑走路。

 そこに珠里は無事に到着する。

 

 手荷物ひとつで飛び乗った。気持ちはそのまま島に向かっている。

 港に着岸しているフェリーをお見上げ、珠里は思った。

 もう、東京には帰らない。ここを出ていこうだなんて、二度と思わない。

 潮の匂い、潮騒、潮風。すべてに包まれ、珠里はもうこれも私のものだとフェリーに乗り込んだ。

 船首が白波を切って、緑の島へ。伊予小富士がそびえ立つ島へ、もうなにも考えずに向かっている。

 身体の中で、自分が喜んでいるのがわかる。ここにあるなにもかもが……。


 フェリーを降りてすぐに果樹園、二宮の家へと急ぐ。


 


◆・◆・◆


 


 クリームチーズは室温で柔らかく戻す。ビスケットを麺棒で砕く。レモンを準備して、生クリームも。ブランデーに、グラニュー糖に。このキッチンにないものはない。

 レモンの皮をすりおろしていると、爽やかな香りがキッチンに広がった。

 空の雲の端が少しだけ茜に染まる頃。二宮宅スイーツキッチンの扉が開いた。

「じゅ、珠里ちゃん!」

 割烹着、農作業姿のおばあちゃんだった。

 同じく農作業割烹着の姿、変わらずにそこで菓子を作っている孫嫁を見て、絶句していた。

「ただいま。おばあちゃん」

 だけれど珠里はちらりとおばあちゃんを見ただけで、手元に集中した。

「お、おかえり……。どして。市内の病院に行ったかね。お母さんについてなくてええんかね」

 やはり、おばあちゃんも協力者。なにもかも、知っているようだった。

 珠里は暫く答えず、レモンの皮をすった。

「珠里ちゃん、騙したみたいにして、怒っとるん?」

 そりゃあ、怒っているわよ。なにがなんだがわからない状態に、急に引き込まれ、あれよあれよという間にここに帰ってきていた。そういう『強引』なやり方を……、思い付いてくれた、そして、結託をして、珠里をここまで連れ帰ってくれた。その驚きに。

 レモンの匂いの中、珠里はしょっぱい涙を落とした。

「おばあちゃん、ありがとう。私、おばあちゃんの本当の孫になりたいんだけど。駄目かな」

「珠里ちゃん……」

「畑、継ぎたいんだけど。駄目、かな。こんな嫁では駄目よね」

 おばあちゃんがそこから駆けてきた。

 そして珠里の背中に抱きついてきてくれる。

「なにゆうとんの! ばあちゃんだって、二宮の血なんて流れておりゃせん! その血を継いだ息子も、その血をくれた夫も先に逝ってしもうた。そのうえ、まだ若い跡継ぎ孫まで……。ばあちゃんだって、なにも残せやしなかった嫁じゃけん。ほやけど、畑を継いできたがね!!」

「生意気を言うってわかっている。でもこの畑……」

 珠里は抱きついているおばあちゃんの腕を放して、正面を向いた。そして深々と頭を下げて懇願する。

「この畑、私にください。いつか、私に、任せてください」

 決意を込めて、言い切る。

「死ぬ気で頑張ります。守っていきます」

 だから、畑を継がせてください。

 おばあちゃんがまた抱きついてきた。太くて丸い腕が、よく知っている腕が、何度も抱いてくれたあったかい腕が珠里を抱いて離さなかった。

「珠里ちゃんしか、おらんがね。よろしくな、頼んだわいね」

 今日、本当に『島の子』になったんだと、珠里はそっと、その腕にもたれかかった。


 


◆・◆・◆


 


 師匠は二宮カネコ。柑橘の育て方も、畑の手入れも、お菓子の作り方も、お料理も、お掃除も、家事も。なにもかも、おばあちゃんとお義母さんから教わってきた。

 女三人、慎ましく暮らしてきた。でも、その生活で充分、珠里は幸せだった。この家は珠里の故郷。

 

 だけれど、紅茶だけは。師匠が違う。

 

「ええかんじにできたわいね」

 

 夏の遅い夕暮れ。もう夕飯の時間が来ても、祖母と孫嫁はスイーツキッチンで共にレモンパイを仕上げていた。

「明日、お母さんに持っていってやるんやろ」

 珠里は黙ってデコレーションをする。

 横でなにも答えない孫嫁に慣れている祖母が、呆れたように笑っていた。

 

「涼君な……」

 おばあちゃんはそう話し始めたが、そこで言葉を止めてしまった。

「やめとこ。おしゃべりばあちゃんになりとうないし。涼君からお聞き」

 黙ってデコレーションをしながらも、珠里はこっくりと頷いた。

 でも。もう。だいたいわかった。おばあちゃんが畑を辞めると言いだした。これに尽きると思った。

 珠里のためだけではなかった。皆、この果樹園が好きなのだ。おばあちゃんのためでもあって、そしてきっと、残して欲しいと思った男達の気持ちもひとつになっていたのだ。

 そして初めて知る。それは、父も? 母も?

 そんなことを思いながら、珠里はデコレーションを続けた。

 初めて菓子を作ったのは自宅だった。要領が悪く、キッチンを散らかしたので、母に酷く叱られた。当然、味も見目もよくないので、さらに母には叱咤された。

 しかし、よくよく思い返せば、母はだからとて『二度とやるな』とは言わなかった。失敗した菓子はかならず味見だけはしてくれた。ただ『美味しくない』と言われるだけで、でも、それは事実だった。母心で子供が懸命に作った菓子を『一生懸命作ったね。美味しいよ』と、その気持ちが嬉しいの美味しいのとは決して言ってくれない母だった。それとわかっていて、珠里も作り続けていたのは何故なのか。

 やがてそれらは、生活のすべてをひっくるめ、『私は母には期待されていない。毛嫌いされている』と思うようになった。

 嫁に来て、誰にもなにも言われず、自由に菓子が作れると思った。夫は初めてこしらえたチーズケーキを『うまい、うまい』と喜んで食べてくれた。

 ある日。おばあちゃんが初めて珠里に作ってくれたレモンパイを食べた時――。実は夫の直人が『ばあちゃんの菓子がいちばん美味い』ということを隠していたのだと、密かな敗北感を味わっていたことを誰も知らない。

 その時から、おばあちゃんが珠里の目標で先生になった。優しく諭してくれるおばあちゃんだから、素直にその教えを身につけてきた。

 おばあちゃんは、もうパティシエに近かった。こんな師匠がいるところにお嫁に来た幸運。

 そのうちに夫が『こんな古くて狭いキッチンで、丸っこいばあちゃんと、孫嫁が押し合い圧し合い菓子を作ってるなんて、暑苦しいわ』と言いだして、急に庭の片隅にプレハブ小屋を建てたかと思うと、そこに業者を呼んで、プロ並みの機材に道具を揃えてくれた。

『ばあちゃんの菓子は、島の皆にも評判じゃけえ。これからいっぱい作ってお裾分けしたらええやんけ』

 夫のおばあちゃん孝行、そして愛妻への贈り物だった。

 だから。ここが好き。ここで紀江お義母さんも、夏になったら心太ところてんを作ってくれる。ここから生まれる二宮の味。

 ここも守っていく。そして、嫁になって初めて届けよう。父と母に。届けよう。これが、嫁になった私の姿だと――。

 

 さあ、出来る。そう思った時。

 なにもかもが重なるとはそういうことなのか。

 

「こんばんは」

 薄闇を迎えようとしているキッチンに、人影。

 珠里はドキリと生クリームを絞る動きを止め、おばあちゃんも予感したのか『はい』と明るい声で迎えようとした。

 

「すみません、遅くに。珠里が来るかと思ったのですけれど、明日……か、な……」

 

 東京で恋い焦がれていた人の声――。

 

「明日まで待たんとも、ええみたいやね」

 おばあちゃんが珠里へと振り返る。

「じゅ、珠里」

 茫然とした涼がそのまま固まった。

 紺のジャケット、水色ギンガムチェックのシャツに白いデニムパンツという、いままでにないソフトカジュアルなスタイルの彼がいた。

 カメリア珈琲という大企業を辞め、スーツを脱ぎ、新しい主である真田社長を思わせるスタイルに、既に新しい道を歩んでいる彼を珠里は感じた。

 そんな彼と目が合ったけれど珠里はついと逸らし、再び、レモンパイへと生クリームを絞る。

 素直じゃない。そんないつもの自分にしかなれなくて、正直、自分をぶっ叩きたくなった。

「お母さん、無事に市内の病院に転院できた」

 自分がなにをしたか、既に珠里にばれていると覚悟しての報告だった。

 珠里は黙ってしまう。いま口を開いたらいきなりこんな無茶なことをしてくれた文句が先に出てしまいそうで、でなければ、涙で濡れに濡れて大泣きしそう……。

「お母さんが俺に言ったんだ。珠里は島にいるはずだから、会いに行ってほしいと……。お母さんは、珠里にとってどれだけ島が大切かよく知っているし理解している、俺はそう思った」

 それでも。珠里は返事ができない。ほんとうにほんとうにいろいろと問いつめてしまいそうで。どうしていつからどうなって、どうして母がそんな心情になったのか。いっぺんに聞きたいけど、どれから聞いても『びっくりしたじゃない!!』と怒り出してしまいそう。

「もう、できるところだな。お茶を入れよう」

 レモンパイン仕上げをする珠里の隣に彼がきた。久しぶりの彼の匂いが、ふわっと珠里の鼻をかすめる。ジャケットから薫る、変わらないビジネスマンである男の匂い。

 背後から、かちゃかちゃと茶器を準備する音が、静まっているキッチンに響いた。

 レモンパイを仕上げる女と、そのそばでお茶を準備する男。そんな二人の様子を、おばあちゃんが黙って見ている。

「お母さん。ほんっとに紅茶が好きだよな。明日、新しい茶葉をもっていく約束しているんだ」

 その会話に。珠里はやっと顔を上げた。

「もしかして……。病院で茶器がない間、お母さん、真鍋君のお茶を飲んでいたの?」

 涼とやっと目が合う。逸らしたいけれど、もうできない。だって、こうして彼と見つめあえる日を望んでいたのだから。

「そうだよ。カネコおばあちゃんを通じて、まず珠里のお父さんに会った。その後、入院先のお母さんに会わせてもらった。ヘレンドのティーポットが割れたみたいで、とても落ち込んでいたようだったからお父さんがすぐに買ってきてくれたんだ。俺がそれから毎日。珠里に知られないよう、茶器も持って帰って、翌日も俺かお父さんが持っていった」

 あの日から。両親と彼が結託をしたのだと知る。

 もしかして。父が『これから人と会う約束』と言っていたあの時が、涼と会っていた日?

 涼も黙っていて、ケトルを火にかける。

「お父さんに会ってすぐにお願いした」

 彼がまた珠里をじっと見下ろしている。なにか決した眼差し。

「娘さんを僕にください――と」

 珠里を怒らせて帰らせるための嘘ではないかと思っていたけれど……。

 珠里の目から熱い涙がこぼれてくる。

「帰らせるための、怒らせるための?」

「本気にきまってるだろ。畑を追い出されるほど言い合ったあれなんだったんだよ」

「でも」

「娘さんと結婚するには、背後から近づいて踏み倒さなくてはならないので、協力してほいしい――そう言ったら、お父さんが『娘のことよくわかっているね。ああ、珠里に手こずったんだなあ。でも娘の性分をよくわかっているなあ。いままで娘と向きあってくれたことがよくわかりました』と言って、協力してくれたんだ」

 協力って――? 

「珠里を畑に返してくださいと」

 そのために? 東京へ? 父に会いに? 母にも? 

「東京に心残りがあると、彼女は畑にいられません。彼女には畑がいちばん。彼女が畑にいられるようにしてください。そうお願いした。それまで『一人でいい』と言い張っていたお母さんが、それで決意してくれた。お嫁さんと喧嘩するより、娘さんと喧嘩して、瀬戸内でのびのびと過ごしませんかと誘ってね」

 ケトルの蓋がかたかたと音を立て始める。まだ湯が沸くには至らず、涼はただ珠里をみつめたまま、まっすぐ眼鏡の奥の黒目を揺らして珠里に向かう。

「俺と結婚してくれよ」

 珠里の目尻から涙がぽろりと落ちる。

「やっぱり、委員長は最低」

 隣にいる彼を見ず、珠里はまっすぐ前だけ見て呟いた。なのに、彼のふっと笑う声が聞こえてきた。

「言うと思った。だけれど、これで解っただろう。珠里がどんなに俺を封じ込めようとあれこれやってくれても、珠里の思い通りにばかりになると思うなよ」

「なにそれ」

「ほら、その顔だ。俺には勝てると思っているムカツク顔」

 ふたりはそこで向き合った。

「ムカツクなら、ムカツク女の婿に勝手にならないでくれる」

「覚えているか。いや、絶対に覚えていない。中学最後の期末試験、絶対に珠里に負けるもんかと点数越えしてやろうと思ったけれど」

「覚えているわよ。私が勝ったの。委員長が悔しそうにしていたのを覚えている」

 涼が驚いた顔で固まった。本当は意識していたのは自分だけではない、実は珠里も張り合っていたのだと初めて知った顔。

「そうか覚えていたか。だったら、言ってやる。これで解っただろ。俺になんでも勝てると思うなよ」

 眼鏡の顔が、真剣な目が、珠里を見下ろした。珠里もその迫力ある黒目に射ぬかれ、口悪い文句が出てこなくなる。

「カメリアを辞めたことも後悔していない。珠里の為じゃない。もう本社にやり甲斐や魅力を感じなかった。それよりも俺、『真田輝久』という喫茶人に惚れていた。あの人のように、どんな土地にいてもどんな場所でも『志』を頑固に貫いていきたい。真田社長が『優秀な営業マンをさがしていた。君をスカウトしたいと何度も思っていた』と言ってくれて……。だから俺、すぐに決められた。俺も真田社長のように西国の瀬戸内からでもヒットを出して、昔の本社の奴らを驚かせる。そういう仕事をしたくなっていたんだって――」

 決して、珠里のためではない。自分の気持ちに素直になって、あの会社から解放されて、自由になったのは自らだと涼は報告してくれる。

「それから……。お父さんと、お母さんには、もうお許しをもらっていて……」

 涼が口ごもる。勢いよく、珠里が作り込んできた『鉄壁』をなぎ倒そうとしていたのに、急に力を落とした。でも、そこで彼が決意を改めて込めた眼を再び珠里に突きつける。

「俺、いままでのなにもかもを踏み倒して珠里のところに行く。これからのことは一緒に考えていく。だけど、珠里が逃げたから『俺の考えだけ』で迎えに行ったつもりだ。あれぐらい裏をかかないと、珠里みたいな面倒くさい女は帰ってこないと思ったんだよ。だから勝手に『婿』になるようなことをしたのは、絶対に謝らない。だから、だから……これからは……。ここで、島で珠里と生きていく。珠里の傍にいていいか。ずっとこれから先ずっとだ」

 結婚のプロポーズだとわかっているのに、珠里はすぐに答えられなかった。そんな反応のない珠里を見て、涼が困った顔をする。

「あ、うん。ちゃんと直人さんにも報告して、珠里をくださいと挨拶する」

 ただ彼を見上げていたので、また涼が困って首を傾げている。

「俺もこの畑、一緒に守るからな。珠里はそのまま俺の処に来いよ。二宮の嫁さんのままでもいいから」

 珠里が安心できることを幾らでも並べてくれる。そんな委員長の優しさに、珠里はやっと口を開く。

「いや、絶対にいや」

 首を振った珠里を見て、涼がショックを受けた顔になる。

「珠里ちゃん、いい加減にしなさいや!」

 どこまでも素直じゃない孫嫁に、ついにおばあちゃんが怒鳴った。だが、珠里はそれを聞くまでもなく、涼の胸に飛び込んで抱きついていた。

「もう一度、お嫁に行く。だから、もう一人にしないで。私もどこにも行かない。だから一緒にいて、ここで一緒に生きて。お願い、真鍋君、委員長……」

 抱きついて、彼のギンガムチェックのシャツに涙をいっぱい擦りつけた。素直になって、子供ぽくてもいい。望んでいることを叫んでいた。もう一人になりたくない。貴方を失いたくないと。

「珠里――。おかえり。俺達、もうずっとこの島で生きていける。ずっとここで」

 彼に抱き返され、珠里はさらに泣きじゃくった。もう返事が出来ない。

 だから言えなかった。『私という妻を持つと、この畑と島と生きていくことが必須条件』。だから、覚悟しないさいよ。言えなかった。

 一緒にいて、ずっといて。としか言えなかった。

 そうね、そう。委員長には勝てない。最後は彼が勝ったのかも。生意気な女はそう思った。

 お祖母ちゃんが、急においおいと泣き始めた。

 

 夜の帳が降りる瀬戸内海。

 満月のようなレモン色の丸いタルトパイを分けて食べましょう。

「うまい! これさ、明日、お母さんのお見舞いに持っていこう」

 これからは新しい家族の輪を囲んで、美味しい紅茶と、娘さんが作ったパイをみんなで分けて食べましょう。

 その時、涼は珠里がつくったレモンパイをじっと見つめていた。

「絶対にこれなんだよな。二宮の……」

 なにを言いたかったのだろうと珠里は首を傾げた。

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