2-9 伊予ジェンヌ
あれから、カメリアの『ヴァレンタイン、伊予柑チョコテリーヌ』はどうなったのだろう。
梶原氏から練り直した広告の下書きだけがファックスされ、それ以来だった。
――『前回のクラシックショコラが豪華絢爛なデザインだったので、チョコテリーヌ広告は、キュート路線で再オーダーしました。あちらのサンプルがあがるまで一両日お時間ください』。それっきり。
涼からも、なにも連絡がない。次の打ち合わせは明日。それまでに彼等は、きっとまとめ上げてくるだろう。そう信じて、だから焦れても待っている。
珠里もスケジュール管理をしながら、日にちを数えると落ち着かない。もう売り出しスタートはもうすぐだというのに、あのチョコテリーヌを上層部が却下したために、準備においてかなりのタイムロスが生じている。
ここにきて、珠里はカメリアの上層部を憎々しく思い始めていた。
確かにあのチョコテリーヌでは、単体では素晴らしくとも、戦略的にクラシック・ショコラのような売り上げは望めなかっただろう。
だからとて。この時期にきて、それまでの準備を覆すような指示を出すだなんて、上層部もかなりの賭に出ていると思った。
それとも? 珠里の頭にもっともっと先にあるものが浮かんでしまう。地方支社の上層部がこのような強硬手段を押し切る采配を振るのだろうか? まさか。『東京本社の指示?』なのかと。
本社も、地方で企画されこれだけ売れたスイーツは見逃さないだろう。いずれ東京などの都市でも採用され売り出すはず。発案のセンスは梶原氏、戦略は真鍋涼。それを知って『ついに真鍋が育った』とか思ったのだろうか。そんな気になってくる。
日が暮れてもカメリアからの連絡はなかった。明日。明日、きっと。夕闇に沈んでいく瀬戸内を果樹園の石垣から眺め、珠里は心を宥める。
夕食を終え、スイーツキッチンで明日のお茶の準備をしている時だった。
島の静かなはずの夜、この家の庭でいつにない物音がして、珠里はドキリと固まる。『猫?』と思ったが、女しかいない家だけに不安になる。しかも構えたとおりキッチン入り口に男性の人がけが見え、珠里はますます怯える。
「こんばんは」
無精髭、目の下に隈、ネクタイも緩みきったまま。この前よりやつれきった涼がそこに立っていた。ほっとしたのも束の間、珠里は彼を見て呆然とする。
「ま、真鍋君。どうしたの、こんな時間に」
彼の肩にはクーラーボックス。そして丸い図面ケースも持っていた。
「できたんだ。菓子。それとこれ……ゲラ……」
喋るのも辛そうで、よくそんな状態で車を運転してフェリーに乗って暗くなった島にやってきたものだと珠里は言葉を失う。
だけれど、そこがこの彼の生き方なのだろう。どんなにやつれていても、前を見ている。どんなにふらついても、肩にかけているクーラーボックスを労るように抱えている。
それを目の前のキッチン台に置いて、すぐに蓋を開けた。リボンが描かれている愛らしい白い皿出すと、涼はそのまま盛りつけを始める。
珠里はただそれを眺めていることしかできなかった。同級生の彼は、まるで何かに取り憑かれているかのよう。虚ろな眼差しにみえるほどやつれているのに、菓子をもった手先を見据える黒目は生気に溢れている。その為だけに、その為だけに、いま彼は動いている。そんな男がすることにあれこれ口を挟むことができなかったのだ。
そこに。前回とは異なるガトーショコラが盛りつけられる。
ショコラ生地と伊予柑ピールの二層だけだったテリーヌに、層が増えていた。
「層が増えているのね」
「おばあちゃんが、食感を変えてみようと試作を作ってくれただろ。伊予柑の果肉を房ごと入れた層、そのすぐそばの層のショコラはとろみのあるチョコレートそのものと、ガトーショコラと伊予柑ピールの層。一切れでいろいろ楽しめるものにした」
「……明日じゃなかったの?」
「これ。食べてみてくれ。やっとできたんだ。明日まで待てなかった。すぐに珠里に食べて欲しかった」
それを聞いて、珠里は驚く。つまり、出来上がってすぐに珠里に持ってきたということ。
やっとの思いで涼がここまで持ってきてくれたひと皿の前に珠里も立つ。
梶原氏が言っていたとおりに、広告だけではなく、盛りつけもキュート。その皿を手にして、珠里は銀のフォークをチョコテリーヌへ。
ひとくち頬張り……。びっくりして、あらためて盛りつけられているお皿を見つめた。
「すごい! 前回よりずっとずっと伊予柑の香りがする! しかもチョコとすごくいい相性」
おいしい! もうそのひとこと! おばあちゃんの案をここまで磨き上げてくれたカメリアのパティシエの素晴らしさ、洗練されたその技はやはり本物だった!
「それとこれ、ゲラ」
続いて涼は円筒のケースからポスターを一枚、キッチン台に広げた。
それを見ても、珠里は笑顔になる。そこにあるひと皿にぴったりのデザインが出来上がっていた。
「可愛い、すごい。ピッタリね!」
「うん。いま頼んでいる人、ここのところ評判がいい人で依頼が殺到している若手のデザイナーさんなんだ。梶原の下書きを見て、あとおばあちゃんのことを少し話したら、こんなかんじで仕上げてくれて。一発で俺達もいいと思った」
「マドンナ小町じゃなくなってる」
おばあちゃんが気にしていた『この街のキャッチはマドンナが多いから』というものも払拭されているコピーが打ち出されていた。
「うん。そのデザイナーさんも地方色は忘れたくないけれど、だからといって、今まで通りも嫌だという、前衛的な人みたいなんだよな。事務所マネージャーの人を通さないとちょっと気難しい人で」
デザイナーらしく、こだわりが強いらしい。だけれど、その人が言うとおりのものが目の前にある。
フランス発のテリーヌを今度は伊予発新感覚という謳い文句が添えられ、チョコテリーヌのひと皿は『伊予ジェンヌ』と名付けられていた。
「パリジェンヌじゃなくて、伊予ジェンヌ!」
「デザインもエッフェル塔が天守閣がある城山、そして凱旋門がしまなみ大橋、伊予らしくしてくれた。ポスターを縁取るトリコロールカラーの帯、ここも青赤白の赤のところは蜜柑大国らしくオレンジ色、青のところは緑色に差し替えて。緑橙白の伊予トリコロールだってデザイナーさんが」
「可愛い。確かに伊予だけど、パリっぽい」
『だろ』と涼も満足そうだった。
だが珠里は安心は出来なかった。満足はしたが、その不安をひとまず尋ねてみる。
「上の人は、なんて言っているの」
そこは涼が苦笑いを浮かべた。
「もう、これで行くしかないだろう――だってさ」
満足をしていないということらしい。珠里の胸に熱い怒りのようなものが生まれる。だけど、そこで疲れて項垂れている涼がいるから騒ぎ立てるのは堪えた。
「まだうちが了承もしていないのに、時間がないからもうこれで了承して欲しいということなのね。二宮のうちが了承しようがしまいが、もう時間がないから、どんなチョコテリーヌに仕上がろうとも、もうこれで行こうということなのね」
これでいいなら、前回のものでも良かったということではないのか。もちろん、今回の作り直しでさらに良いテリーヌができあがったのも確かであっても。堪えたが、あまりにもぞんざいな事運びに、ひとこと言わずにはいられなかった。そうしたら、涼がまた、申し訳なさそうに頭を下げている。
「今回も、振り回した。悪かった。申し訳なかった」
頭を下げているから、彼に珠里の顔は見えない。だけど珠里は即座に頭を振っていた。
「真鍋君に怒っているんじゃない。上の、欲を出したが故の滅茶苦茶なやり方に怒っているのよ。真鍋君がそんなに疲れているんだから、現場の社員さんもかなり混乱していたんじゃないの」
涼の眼差しが一気に曇り、黙り込んでしまった。それきり彼が口を閉ざし、キッチンの空気が冷たく固まってしまったように重苦しくなった。
「うちは、もういいよ。このスイーツは素晴らしいし、梶原さんとおばあちゃんが作り込んだ『ギフトボックス』も、二人が楽しそうに話し合っていたままに出来上がって発売が楽しみよ」
「ありがとう。二宮側にそういってもらえて、ホッとした。今日までご協力有り難う」
いち営業マンとして礼をしてくれる。
「こちらこそ。最後の最後まで、私たちの柑橘を活かす商品に取り組んで頂きまして、感謝しております」
珠里もそこは契約先農家の主人として、心よりの礼を述べ頭を下げた。
「終わった。やっと出来た。これで……あとは生産部に任すだけ。生産部も今日から地獄だろうけどな。でも、これで進める。やっと……」
うつむいていただけの彼が、今度はキッチン台の上へ額を落とし突っ伏してそのまま動かなくなった。そのまま眠ってしまったのかと思うほど、動かなくなった。
もう精根尽き果てたのだろう。結果がどうでようが、この菓子が自信を持って胸を張って提供できると声高に言えるものでもそうでなくても。涼にとってはもうやるだけやったとしか言いようがないのだろう。
そんなに追いつめて。自分がすべき事、とことん追いつめて。だけれど何のためにと珠里が心の中で問うても、答など直ぐに出る。『美味しい菓子を食べたい人たちに届けたいから』だった。
そしてそんなに力尽きた涼を見ても、珠里にも通じてくる。あと少しで総仕上げだっただろうヴァレンタイン企画。それをゴール目の前で上司に差し止められ、涼に突きつけられた現実は『出来るはずない』という、急に降って沸いた困難だったはず。本当は誰よりも涼がそう思って、当初の計画を崩された時に愕然としたことだろう。その不安は彼と共に動いているスタッフも同様で、チーフである涼に同調するよう肩の力を落としたに違いない。だけど、眼鏡の委員長はこんな時こそ、先が見えなくても自ら奮い立たす。『諦めるな、やるんだ。とにかく、止まらずにやるんだ。タイムリミットまで出来るだけのことをやるんだ』。なかなか力が湧かないスタッフを傍目に、涼から前へと歩き出したのだろう。やがて彼が走っている背中を見て、一人また一人と追いかけてきてくれる。
『出来たんだ、珠里』
果てる寸前の先頭走者が珠里のところに、こうしてやってきたのが今! それまでの光景がぱあっと珠里の目の前に広がった。
それは在りし日の『教室』でも起きていたこと。強引な委員長だって影ではそう言っても、彼の背中を追いかけると、結果がついてきた。あの遠い少年少女の日。
珠里は涼の傍で静かに彼を見下ろしていた、やがて、訳もなく涙がこぼれていた。
少年の日から変わっていない彼の、なのに、尽きるほどくたびれている姿は見ていられなかった。
前に行くことで苦しんでぼろぼろになっている人がいる。
今日まで、涼が前へと恐れず疑わず前進できる姿は『なに不自由なく、のびのびと育ててもらったから素直なのだ』と思っていた。
だけど。素直で不自由なく育った人が、こんなにぼろぼろになって苦しむだろうか。珠里は首を振る。今になって心から思える。
どんな育ちでも、一人で生きていく大人になったら、誰もが同じ。どのような苦しみや困難に遭うかはわからない。誰にでも起きること。そして、人ぞれぞれどのような困難かも千差万別。自分に起きていることは人には起きない、逆に人に起きていることは自分には降りかかってこなかった。自分だからこそ与えられた苦しみを自分で乗り越えて行かねばならないのだと、初めて……。同級生が力尽きた姿を見て痛感した。
「私、馬鹿だった。ほんとうに情けない、とっても自分が情けない」
夫において行かれた哀しみを盾にどれだけ甘えていたことか。
涙を流して傍にいる珠里を、そこに座ったままの涼が、やつれた顔で見上げる。
「なんだよ。また泣いているのか。ほんとうに、涙もろいんだな」
気がつけば、その指先が。この前避けた指先が、珠里の頬に今日は触れていた。
その指は思ったよりも冷えていて、珠里の涙の方が熱かった。
「なんで珠里が泣いているんだよ。わけわかんねえ」
涙に曇る目で見えた同級生は、やつれた浅黒い目元でも珠里を見上げ笑っている。それを見たら、また涙があふれてくる。それだけじゃない、珠里の心がわけもなく熱く何かが溢れ出していく感触! いたわりたかったのに。なのに、珠里がなぐさめてもらっているだなんて。
「真鍋君、まなべ、くん……」
その胸に、ぐったり座っているままの彼を抱きしめていた。珠里から。
農作業用の薄い花柄の割烹着を着たままの、その胸に。
突然だったから、涼がその胸の中で苦しそうな息を吐いて固まったのも伝わってきた。でも珠里は胸元にぎゅっときつく彼を抱きしめる。
「自分ばっかり辛いと思っていたけど、馬鹿だった。こんなに頑張って疲れ果てている人もいるのに、馬鹿だった」
そんなこと。涼へのなぐさめでもなんでもなく、独りよがりに沸き上がった後悔を押しつけているだけだってわかっていても。今の珠里にはこんなふうにしか伝えられない。
「……なんか。母ちゃん、いや、割烹着のばあちゃんに、抱きしめられているようで、変な気分なんだけど」
割烹着のおばあちゃんと言われて、珠里は笑っていた。
「うん。私、おばあちゃんみたいになりたい」
カネコおばあちゃんのように、いろいろなことを乗り越えてきたからこそ仏のような穏やかさを備えた人になりたい。いつも青年を案じるおばあちゃんのように。今日は貴方を抱きしめる。そんな気持ち。
そして涼も。不思議と珠里の柔らかな胸に頬を埋めたまま、離れようとはしなかった。でも胸元で動かなくても、その身体は堅く、神妙なまなざしで遠くを見ている。
彼がやっと目を閉じて、力を抜いてくれる。そしてそっと珠里の背に大きな手を回して……。抱きついて……。抱きついてくれた……と思ったが、違った。逆に涼の手が珠里の背をきつく抱き寄せてきた。今度は珠里が驚き、彼の頭を抱きかかえていた手を緩めてしまう。でも、涼は珠里の胸枕を抱き寄せたまま、でも珠里の背を抱きしめて――。
「どこが馬鹿なんだ。俺を見て情けないなんて言わなくていい」
やつれていても涼がその強い眼を珠里へと向けてくる。
「俺が仕事でどんなに追いつめられても、死という別れとは比べものになんかならない。珠里はそれを乗り越えてきたんだ。情けないなんていわなくていい。馬鹿じゃない」
彼が珠里の胸元でくつろいだのは一瞬。そしてぎゅっと抱き寄せてくれたのも一時。
「俺も、休んでいる場合じゃなかった」
珠里の背を大きな手が元気づけるようにパンと叩くと、彼はもう椅子から立ち上がっていた。
「熱い紅茶を一杯くれるか」
目覚ましに一杯。それでまた彼は前へ行くという。
でも珠里ももう泣かない。そうして委員長がまた前に行くと言うから『わかった』と頷いて、笑顔でお茶の準備をする。
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