2-10 シトラス・オフ

 少し日が長くなってきた近ごろ、冬といえども瀬戸内は既に微かな春の気配が漂い始めていた。

 その日、真田社長は珠里の顔をじっとみつめてばかりいた。

 こちらもカメリアと時期をずらして販売した『島レモンマカロン』の限定販売を終え、今日はその売り上げ報告にきてくれていた。

「あの、私。なにか失礼でも致しましたか」

 真田社長は、いつも通り手元の書類をきちんと整え終えても話も始めず、じっと珠里を見つめているので耐えられずに聞いてみる。

「お顔色がよろしいですね。なにかありましたか」

「いえ。いつもどおりですが」

 この社長には何事も誤魔化せなくて敵わない。だけどその予測は合っていた。

 ここのところ、涼と会うたびになにかが違うことを感じていた。涙を流すだけ流してから、なにか憑き物でも取れたかのように気持ちが軽い。

 珠里はその日その日を大事に過ごしている充実感を得ていた。

 今まで通り、畑を丁寧に世話をする喜びに満ち足り、共に暮らしている義母とカネコおばあちゃんと他愛もないことで笑って、たくさん食べて、たくさん眠る。

 好きな菓子をおばあちゃんと焼いて、隣の仙波家に持っていったり、ミーティングにきた涼と梶原氏とあれこれ論じながらのお茶を楽しんでいた。

 そして今日、久しぶりにこの社長に会う。

 こちらも『島レモンマカロン』の販売で忙しさを極めていたようだった。

 その間に、珠里さんになにがあったのか。縁なし眼鏡から注がれる眼差しに、珠里はそっとうつむいた。

 確かにあったけれど。だけどそれをでは、この男性にどのように伝えたらよいのか今はまだわからなかった。他愛もないことのような気もして、いまは『ない』としか伝えられない。

 そんな珠里すらも察してくれたのか、社長は少しもどかしそうに口元を曲げたかと思うと、すぐにいつもの仕事の顔になった。

「こちら売り上げです。ご確認くださいませ」

「お疲れ様でした。拝見します」

 売上表を差し出され、珠里はそれを確認する。内心、ドキドキしていた。きっと真田社長の耳にも届いていることだろう。カメリア珈琲のクラシック・ショコラが大きな売り上げを打ち出したことを。

 本来、競っていた『島レモンの獲得』をしたのは真田珈琲だったはずなのに。選ばれなかったカメリア珈琲が、代替えの素材である紅マドンナで、しかも真田社長がレモンの次に狙っていた素材で売り上げを大きく伸ばしたのは予想外だったに違いない。

 その競り勝った『島レモンマカロンとお好きなマカロン』の限定発売はどうのような結果だったのか。こちらだって珠里は案じている。

 マーマレードの次は『スイーツ』をつくりましょう。失敗はしません。真田のドルチェをお試しください。これは我が社の限定品として売り出す時の、作業工程と、これまでの売り上げです。限定販売で、この数字を落としたことはありません。素材も自社キッチンで丁寧に扱いますから、是非――。それが真田社長がマーマレードの次に持ってきたビジネスだった。

 『絶対に落とさない数字』をその時に教えてもらっていた珠里は、今回の数字を確かめ、ほっと胸をなで下ろした。

「狙い通り、他のマカロンを含め、沢山の方が食べに来てくださったのですね」

「まあ、そうですね」

 しかし真田社長に笑みはなかった。

 島レモンで狙い通り、いつも通りの評判を得ての売り上げを確保していた。ただ……珠里も判っている。売り上げは、カメリアが頭ひとつ飛び抜けていた。それを真田社長はもう肌で感じ取っている。

 納得できない数字ではない。従業員一同がいつも通りに獲得した間違いない売り上げ。それでも真田社長は『この街の一番』をカメリアに奪われたことに納得していない様子だった。

「あちらの売り上げが企業秘密だということもわかっております。珠里さんに教えて欲しいとも言いません。それに聞かずとも、普段、それほど客足もなかった通常のカメリアカフェがバーゲン時期の間はずっと満席だった。これだけで充分です。かなりの売り上げを得たことでしょう」

 島レモンの売り上げは及第点。社長は気にはしているだろうが、やはり王者。すぐに切り替えて、きっとこの男性ももう次を見据えていることだろうと安心できた。

「お茶を淹れます。おばあちゃんと伊予柑ピールのパウンドケーキを焼いたんです。ピールづくりからやってみました。よろしかったら是非」

「美味そうですね。頂きます」

 真田社長と久しぶりに和やかなミーティング。緩やかな昼下がり、農作業姿の女がお茶を淹れる姿を、静かに見つめてくれている。

「珠里さんはお茶入れもお上手ですね」

 そこも、珠里は黙った。これも母がことあるごとに口うるさくののしりながら、珠里に淹れさせていたからだろう。

 だが。今日の珠里は穏やかに微笑みを湛えたまま、真田社長に初めて告げる。

「私が菓子好きなのは、きっと母の影響なのでしょう」

 初めて。自分から母のことを口にしてみた。そして認めたくはないが、でも、それは確かに彼女に育ててもらったものだと人に告げる。だから社長が少し、まなこを見開いたのがわかった。

「私の母は菓子作りが得意ではありませんでした。ですが菓子は大好きで、とにかくいろいろな菓子を買っては食べていましたから、紅茶は手放せないものだったようです」

「そうでしたか。お母様も愛好家でしたか。なるほど。珠里さんの舌が肥えていたのはそういうことだったのですね」

 さすが真田社長というべきか、少しも戸惑いを見せずに、すんなりと受け応えてくれる。

「母も舌が肥えていたのでしょう。気性も荒い女性ですので、気に入らない菓子はとことん批判し、お茶も美味しくなくては怒り出したぐらいです」

 こと細かく叱責されながら淹れた想い出。だけれど自分でも分かった。母に注意されたとおりに淹れた紅茶は絶品だった。それまでは母がそれを淹れていた。だけど今は娘に押しつけて――。そう思っていたが、自分で美味しいお茶を淹れられるようになったら、その不満は消えていた。

 茶葉が開きはじめ、そこはかとなく紅茶の香りが立ちこめる。

 だがそこで。珠里は眼差しを伏せ、はっきりと告げる。

「それでも、私は母に感謝はしておりません。微塵も」

 そう告げた時、社長の息が止まったのがわかった。

 あの社長が固まり、そして、黙り込む姿。珠里を見ず、書類の上で組んだ手が落ち着きなかった。

 やがて、彼が小さく息を吸って珠里を見た。

「貴女の口から、貴女の気持ちが聞けて良かった。でも、胸が痛いです。とても……」

 縁なしの眼鏡の奥から、いつもは険しい眼が、珠里を慈しむように見ている。

「やはり、なにかありましたか。そんな険しいお気持ちを口に出来るようになったということは、逆になにかふっきれたようにも見えます」

 大人の社長は誤魔化せない。だから珠里も観念し、微笑んで言う。

「はい。ありました」

 それだけ言って、続きがやっぱり上手く伝えられないまま、もどかしく黙り込んだ珠里を見て、社長がまた優しく目元を緩める。

「またお聞かせください。その気になった時に。私はいつだってそのつもりでいますから」

「ありがとうございます」

 いつも構えて、この男性に微笑みかえしていたような気がした。

 何故だろうか。今日の自分は素直だと珠里は感じている。

 社長と向き合う時間はいつも静かで穏やかだった。たまに大きく珠里の中に踏み込んでくることもある真田社長だが、普段はお互いに好きな菓子の話に、菓子の知識を教えてもらったり、あるいは茶器や茶葉、コーヒー豆の話などを交わしあう。落ち着いた会話で時間は過ぎていくが、社長はいつも柔らかい眼差しで珠里を見つめ、珠里の受け答えにもひとつひとつ頷いてくれる。

 そういう大人の時間と言えばいいのか、ゆったりしたお茶の時間になる。

 そして今日の真田社長は、なかなか腰を上げようとしなかった。珠里が初めて、心の中にある荒れた気持ちを少しだけでも吐露したせいなのか。あるいは珠里自身も感じているとおりに、今までより軽やかに見えるからなのだろうか。

 だけれど珠里はそろそろ時間が気になり始める。今日の夕方は、カメリアの青年二人がやってくる予定だったから。

 ティーカップが空になり、真田社長が帰り支度を始める。

「では。また」

「はい、お疲れ様でした」

 時計を見てほっとした。こちらの社長との打ち合わせが四十分オーバーになってしまったが間に合った。カメリアの二人がやってくる一時間前……。


 

 そして、この日やってきた涼はまた新しい企画を珠里に手渡してくれた。

 だがひとつだけ、違うことが記されている。

「次の企画は、ゴリまんとやろうと思っている。ごめん、珠里。地元でも統率力があるパートナーではないと駄目なんだ。でも……」

 これから珠里とやりたいことがまだまだある。そう言ってくれた委員長が次に定めた狙いは、二宮果樹園との企画ではなくなっていた。

 つまり珠里との仕事は、ひとまずこれまでということ。

 だけれど、珠里はその企画を見て強く頷く。

「大丈夫よ。柑橘の収穫シーズンも終わろうとしているし、喫茶製菓業界が春向けのスイーツにシフトしていくことぐらい予測していたの。それにこの企画はここの大地主である拓郎と組んだ方が絶対にいいわね」

 その企画は『私たち同級生が願っていること』そのものだった。だから珠里も毅然とかえす。

「私、二人のアシスタントにまわるから。なんでも言って」

 ヴァレンタインの販売開始目の前。あとは売り出すだけに準備が整い、やっと涼も顔色良く、変わらぬ精悍さを取り戻していた。

 いつもの眼鏡の委員長にもどった涼も珠里の反応を確かめ安堵の笑みを見せてくれる。

「珠里ならわかってくれると思った」

「楽しみよ。こんな企画を直ぐたててくれて嬉しい」

 同級生。この島で過ごした者同士だからこそ通じるなにもかもがそこにあった。そして、それが形になる。

 新しい企画に、心の奥から溢れてくるこの熱っぽさに珠里はとてつもなく心躍らせていた。


 


 ◆・◆・◆


 


 ヴァレンタインシーズン。

 今朝の二宮家のテーブルに、二枚の広告が並べられた。

 正統派で行く真田珈琲の『紅マドンナのクレープシュゼットと真田プレミアム・ホットチョコレートドリンク。貴女のためのヴァレンタインセット』。

 洗練前衛派で行くカメリア珈琲の『生風味のチョコテリーヌ、伊予ジェンヌセット & 二宮果樹園とのコラボ、ヴァレンタインギフトボックス』。

 対極する二社のヴァレンタイン販促が同日に開始された。

 朝食を終えた珠里は、カネコおばあちゃんと、食後の紅茶を味わいながらも、内心震えていた。

 今度はどうなるのだろう。どちらのスイーツも売れて欲しい。どちらも素晴らしく美味しかった。でも共倒れにならないだろうか。

 複雑な心境が、ここのところ珠里の胸を騒がせている。

 そしておばあちゃんもため息をついている。

「どっちもおいしかったけんねえ。真田さんは既存のお菓子でも、ほんま上品に美味しく仕上げてくれるもんね。古泉店で試食したクレープシュゼット、最高やったわ。あの紅マドンナの繊細な果肉を上手につこうてくれて。ええ香りやった」

 新種の紅マドンナは、二宮の畑もでもまだ作り出したばかりで、おばあちゃんが一番気遣って『ハウス』の中で丁寧につくったものだった。だからレモン以上に、どちらか一社にしか提供ができない。手塩をかけて育て上げた柑橘が、こうしておばあちゃんが大好きなお洒落な洋菓子に変身してくれることが本当に嬉しいようだった。

「梶原君と一緒に考えたギフトボックスも売れるかな。ばあちゃんがやりたかったことが詰まった一箱やけん……」

 こちらはおばあちゃんの希望本意で出来た一箱とも言えた。梶原氏が担当をしたとは言っても、その梶原氏がおばあちゃんの才能を若々しく作り替えてくれたと言っても良い。だからこそ、おばあちゃんと梶原氏の間には人一倍の絆が出来上がっていた。そしておばあちゃんも、自分が提案したものばかりが詰まっているからとても気になるようだった。

「真鍋君も最後まで頑張ったね。上の人にあんな無茶を押しつけられても、やり遂げたもんね。むしろ、最初のチョコテリーヌより目新しくて可愛らしくなってよかったんやないかな」

 ひっそりと珠里は胸の中のざわめきを抑える。どの商品にも愛着がある。どれも同じように売れて欲しい。だけど、真鍋君と聞いて直ぐに思い浮かんでしまうのは、島の静かな夜に力尽きても珠里のところに来てくれた同級生の姿。それを思うと、妙な気持ちになる。

 売れて。お願い。たくさんの人が食べに来てくれますように。

 その思いでいっぱいになる。どうしようもないから、収穫、農作業、経理、掃除、料理など、必死に何かをしている。またどんな様子かフェリーに乗って確かめに行ってみる? 珠里は首を振る。ダメ、怖くて出来ない。そこでガッカリしている委員長を見たら、たぶん、たぶん……。

「収穫、行ってきます」

 そして今日も、その気持ちを振り払うように珠里は畑に出る。

 樹木に囲まれ、柑橘を赤子のように収穫をする時は無心。その想いひとつにして、瀬戸内海の光を授かる橙の実を摘む。

 


 ◆・◆・◆


 


 伊予柑出荷も最終。珠里は伊予柑畑でひとり黙々と農作業に励んでいる。

 そろそろ不知火(しらぬい)など、春先の柑橘シーズンへ移っていく。だけれど、二宮果樹園では扱っていないので、他の畑が忙しくなる時期にきていた。

「ナオさん。今年もちゃんと出荷できたわよ」

 この畑に来て、そろそろ八年。だけど夫と過ごしたのはたった三年。一人で畑を守ってきた年月のほうが長くなっていた。

 伊予柑の収穫を終える度に思っている。『今年も嫁でいられた』と。亡くなったあの人が喜んでくれることが出来ただろうかと。

 その間にヴァレンタインデーが終わっていた。一度も島を出ていない。様子を見ようと案じて街に行くことはなかった。

 だが、この半月。珠里の心は揺れに揺れていた。売れたのか、売れなかったのか。お客様に喜んでもらえたのか、そうでなかったのか。真田と客の食い合いになっていないか。

 それでも確かめることが恐ろしかった。東京でヒット商品を生み出した委員長が、再度返り咲こうと必死になっていた姿。でも力尽きるまで前を切り開いていく必死な姿も。『もう一度ここから始める』と今までの拘りを捨て、新しい道へとあの目で見据えていた姿も。それが全て無になっていないだろうか。

 東京からこちらに異動させられた時にも辛酸を舐め彷徨ってきただろうに。前に進むことが彼らしいのに、ここで再度打ち砕かれて二度と立ち上がれないような姿になっていたとしたら……。見たくない。

 だけど。もしそうなっていたら、ジッとしていられなくなるような気がする。どうして。どうしてこんなに胸の中をかき乱されるのだろう。

 だから珠里は島に留まり、自分がやるべき事だけに集中していた。

 ――でも。そろそろ、売り上げ報告が来る頃ね。

 伊予柑を詰めたコンテナを持ち上げた時だった。

「たくさん獲れたな」

 黒いハーフコート姿の委員長が立っていた。

 珠里はコンテナを静かに置いたが、でも何も言えず立ちつくすだけ。

 何も返せない珠里を見て、眼鏡の委員長が致し方ない笑みを浮かべる。

「直人さんの伊予柑、有り難うな。沢山の人に届けたからな」

「……どれぐらい?」

 心を乱して待っていたこと。それを聞きたい、だけど怖い。

「クラシック・ショコラには追いつかなかった。たぶん真田と客を食い合ったんだと思う」

 ――やっぱり! そんなにヒットは続かない。それもこの半月で覚悟していたこと。身体の力が抜けそうになったが、珠里は伊予柑の樹にそっと手をついて堪える。

「でも。梶原とおばあちゃんのギフトボックスと合わせると、昨年のヴァレンタインの売り上げより大幅に上がった。俺達の企画でだよ」

「本当に?」

「本当だ」

 それでも珠里の身体にまだ力が入らない。

 だが委員長はさらに言った。

「上司達に、よくやったと言ってもらえた」

 そこに達成感に満ちた男の笑顔があった。

 果てそうになっても前へと突き進んだ男だけが得るもの。珠里はそう思った。そしてそれは珠里にとっては羨望の眩しさ。

 でも委員長はそこで少しだけ眼差しを眼鏡の奥で伏せる。

「一度くらいは見に来てくれるだろうかと思っていたんだけどな」

「ご、ごめんなさい……。その、」

「すこしぐらい連絡をくれるかと思っていたんだけどな」

「えっと、」

 ものすごく心配していただなんて、同級生の彼に言えなかった。

 だけど眼鏡の彼が笑っている。

「でも。俺も……。結果が出るまで、珠里に会えなかった。連絡もしたかったけどできなかった。珠里がどんな顔をして待っているか。今日、フェリーに乗っている間、ずっと考えていた。どんな顔をして聞いてくれるか……」

 伊予柑の樹の下にいるまま動かない珠里のところに、黒い革靴の足を踏み出し、涼が近づいてきた。

「やっぱりな。予想通り。報告しただけで、珠里は泣き顔になると思った」

 彼の手が珠里の頬に触れる。気持ちだけが騒いで高ぶって、言葉に出来ない珠里の頬はもう濡れていた。

「涙もろいもんな」

「心配していたんだから」

「うん。わかっている」

「ほんとに、心配だったんだから」

「うん。ありがとう」

 彼の手がそっと離れる。だけどずっと眼鏡の奥の眼差しは柔らかく、珠里を見下ろしている。珠里は自分で涙を拭ってやっと彼に微笑みかえした。

「ありがとう。夫が望んでいた沢山の人に、この島の柑橘を届けたいという想いを叶えてくれて」

 今度は涼が申し訳なさそうに、首を振る。

「それは。たぶん。直人さんだけではなく。俺もそう、珠里も、カネコおばあちゃんも。梶原も、ゴリまんも。……真田社長も美々さんも。誰かに何かを食べて笑って欲しいという気持ちが一緒だからだ」

 また涙が溢れてきた。

 なんだろう。この気持ち。夫はもういないのに、一緒に仕事をしているような気持ちにさせてくれるだなんて。夫と一緒に結婚した時から語ってきたこと願ってきたことが、そのままここに生き続けている実感を珠里は初めて感じていた。

 それはきっと……。この同級生が、この畑に現れたから。

 今度の珠里は涙を流すだけ流した。でも笑顔で涼を見上げる。

「いま私、ナオさんと一緒に仕事が出来たと初めて思えたの」

 眼鏡の彼も微笑んでくれる。

「それだけ。直人さんが珠里に遺してくれていたということだな。そうでなければ、そんなそばに感じたりしないと思う」

 ふたり一緒に、冬でも緑の葉を揺らす樹を見上げた。

 スーツ姿の涼が急に脚立に足をかけのぼり始める。いつも珠里が座っているてっぺんの腰掛け。そこに座ると、涼は島に広がる瀬戸内海をひと眺め。

「これかあ。珠里がいつも見ている海は」

 悠然とした笑みを湛え、涼は手をかざしながら、午前の光に満ちていく青い海を見渡している。

「けっこう高いな、ここ」

「うん。見晴らしいいよ」

「うん、いい。風もいい」

 私達が育った島。短い間だけれど。一緒に過ごした島。

 珠里も二段ほどのぼって、海を一緒に眺めた。

 潮風と柑橘の匂い。この島の匂い。そして遠く見えないもの、思うもの。

 いま見ているなにもかもが、きっと同じ。

 

 

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