3章 大人レモンの恋 (side 涼)

3-1 ご褒美は、忘れた頃に

 冬の柑橘商戦を終え、春もあっという間に過ぎ、すっかり新緑の季節。

 穏やかな初夏を迎えようとしていた。

 涼は今日も島に来ている。


「これが、レモンの花か」

 実がなくなり緑ばかりになった畑だったが、さまざまな柑橘の花が咲く季節がやってきた。

「そうなの。いい匂いでしょう」

「うん。する。けっこう匂いがあるんだな」

 日射しが強くなっても、珠里は長袖の割烹着を着込み、ほっかむりの農帽で綺麗な黒髪も顔も覆ってしまう。二宮果樹園のお嫁さんの姿になる。

「でも、一カ所にたくさん蕾が付くから、ひとつだけ選んで摘んでしまうの。この時期、春の花が実になったものを収穫。夏や秋に出てきた花の実はそのままにしておくと樹が弱るから、これもまた摘果してしまうの」

「へえ。じゃあ、これは珠里に選ばれた花、今年のレモンか」

 その香りが、彼女の香りに似ているような気がした。

「蜜柑に伊予柑、果樹園を知っている者だけが楽しめる季節よね」

 いま島は柑橘の花で溢れていた。

 涼も石垣に囲まれている果樹園から見える瀬戸内を見下ろし、その香りを胸いっぱいに吸い込む。

「そうかあ、この季節だったか。この匂い」

 どの季節かおぼろげだったが思い出した。春だったか夏だったか、遠い記憶でもこの香りが覚えている。

「思い出した? 私もお嫁に来て思いだしたの。五月の初めになると、そうそうこの匂いがしていたって」

 遠く航行するフェリーとタンカーの海を見つめていると、すぐそばでほっかむり帽の彼女がじっと見つめているのに気が付いた。

「……真鍋君、最近、なにかよく考えているね」

「え、そうかな。真夏になにかないかなと」

 黒い瞳からの、あの力強い視線。まっすぐに見つめられると、涼は妙な気持ちになる。そんな綺麗な目で、俺を見るなよ……、ときどきすっごくかわいい顔で俺を見ている。そんな顔をするようになった同級生。

 涼の携帯電話が鳴った。出てみると上司からだった。

 島の打ち合わせが終わったら、至急帰ってくるように。との指示だった。

「悪い。今日はキッチンに寄れない」

「そうなの、残念。レモネード、ご馳走したかったのに」

「うわ、残念だほんと……」

 お互いの視線がばっちりと合う。逸らせずにずっと重なったまま。

 涼もそうだし、彼女も離す気はないらしい。どうして、いつから、こんな甘く感じるようになったんだろう? いけすかない無愛想な女じゃないか、いまだってズケズケと委員長最低と言う時は言うし……。

 レモンの花の匂い、潮風の微かな薫り。潮騒と段々畑の太陽。檸檬を美味しくするのは――。甘く熟すのは――。

「いってらっしゃい」

 彼女からいまの空気を断ち切ってくれた。初夏の日射しに、レモンの樹の木陰。彼女らしく照れて農帽の中でうつむいて。帽子のつばに目元が隠れて表情がわからなくても、唇だけがのぞいて柔らかく微笑んでいる。珠里らしい……。

「うん。行ってくる」

 涼はおもわず、農帽の上から彼女のちいさな頭に手のひらを乗せて撫でていた。

 畑に彼女がいる。畑に行けば、彼女がいる。彼女は畑にいる時がいちばん彼女らしい。


 ◆・◆・◆


 ほんの一週間前のことだった、上司に呼ばれ告げられる。

 『本社から、戻ってこないかという打診があった』――と。


 どうしていまさら。

 それが聞かされた最初の気持ち。

 ずっと中央に戻りたいと思っていたのに、手放しで喜ばない涼を見て上司も訝しそうにしていた。おまえがあんなに望んでいたことではないのか、そのために必至になってがむしゃらにやっていたのではないのか、『結果』がでたんだぞ。おまえは希望を掴んだんだ、なのに、その反応はなんだといわんばかりの顔だった。


 この時になって、涼は初めて自分の本心を知ってしまう。俺は、ここで仕事をしたいのか――と。

 

 半年前なら。きっと身の程知らずもいいところ、弁えず飛びついていたに違いない。どれほどに東京本社に返り咲きたいと願ってきたことか。だが、いまは。そうは思っていない。


『おそらく辞令が出る。その心積もりで』


 それが一週間前のことだった。

 まだ珠里には言えずにいる……。

 彼女を見ていると余計に胸が苦しくなる。いつからこんな気持ちを持つようになったのか。彼女にも仕事にも。そして涼の目の前にある『東京本社』がかすんでいる。いま涼が追いつきたいと思っているものがまったく違うと気がついてしまう。



 島から会社に帰り、呼ばれた上司のもとへと訪ねる。

 人目を避けるため会議室へと連れいかれ、部長を正面についにそれは告げられる。


「東京本社への辞令が出た。念願の企画部へ異動だ」


 本当に辞令が出てしまった。

 七月一日付けの異動。準備をするようにとのことだった。

 だが涼も一週間考えてきた。

「俺はここでやりたいことが残っています」

 地方でも売り上げが出せるとわかった。それなら本社でなくても良いではないか。

 珠里も言っていた。神戸を追われたけれど、この島でもなんでも出来ると。あの気持ち、涼も同感だった。ここでも出来る、出来るんだ――と。

 目の前に、ひと束の企画書が部長の手から投げ込まれる。

「その企画は中止だ」

 『島果樹園総出のスイーツをシリーズ化』と『二宮スイーツの原点、おばあちゃんのレモンパイ』。どちらもつい最近、課長の許可を得た企画。果樹園企画は部長も許可してくれた、二宮スイーツはこれから……。

「だから本社へ行くんだ。あちらから欲しいと言っているんだ。それを無碍にした後、どうなるかは本社から転属してきた真鍋だからこそわかっているだろう」

 そんな本社からの要望などはもう、涼の耳に入ってこなかった。ただ目の前の、不許可になった企画。しかも、もう話し合いをだいぶ固めてきた企画を握りつぶされた。突然襲ってきた『終了』というゴングのような音がガンガンと頭の中で鳴り響いているだけ。

 伊予柑チョコテリーヌもそうだった。こうして覆された。この支社だけなら『素晴らしい企画だ』と持ち上げてくれた上司が、本社からの圧力がかかるといとも簡単にそれまでの積み重ねをひっくり返してくれる。

 わかっている。これが組織で、それが部長がやらねばらなぬことで――。

 だが涼は懸命に堪えていた。拳を握りしめ、部長に噛みつきたくても。

「承知いたしました」

 堪えに堪えた末、涼は震える声を絞り出し、ふたつの企画書を受け取る。

 部長のほっとした顔、課長は申し訳なさそうな顔を見せてくれた。それが救いか。

「そうか、よかった。本社に行ったほうが、きっと思い通りに動けるだろう」

 返事など意味がない。部長の顔を潰さないよう『行ってくれ』ということなのだろう。涼に選択肢などない。

「瀬戸内の島から生まれた商品なんかより、向こうだったらもっと売れる素材を使えるようになる」

 だからこの企画なんてすぐに忘れることができるに違いない。そう部長が言う。

 薄ら笑いしか浮かべられない。この人はやはり管理職。顧客が喜ぶという理念が見えない。それも仕方がない。こんな涼の思いはおそらく責任がない下っ端の一社員故の、緩やかな思想でしかないのだろう。

「失礼いたします」

 企画書を小脇に、涼は一礼をしてそこを去る。

 会議室を出て、しばらく歩いた壁に涼は頭をぶつけ項垂れた。

 涼に選択肢はなかった。

 本社の意向通り、東京に行く道しか残されていない。

 こんなご褒美、いらない。もう望んでいるものではない。


 


 ◆・◆・◆


 


 夕なずむ果樹園の緑木も、黄金色に輝いている。

 畑からくすくすとした笑い声が聞こえてくる。

 割烹着姿のおばあちゃんと彼女が、一日の畑仕事を終えてキッチンへと帰ってくるところ。

 

 空には東京からやってきたジャンボ機。瀬戸の海、夕空を横切って海の滑走路へと降下していく。

「真鍋君……?」

「あれ、涼君じゃないの」

 畑へと入っていく小径、その入り口に涼はずっと立っていた。

 今日はもうここには寄れないと彼女に告げたのに、涼はここに来ていた。無我夢中になってここに来ていた。

「珠里、話がある」

 彼女も涼の様子がただならぬものであると気がついてくれた。

「ほなら、ばあちゃんは先に帰ってこうわい」

 おばあちゃんも察してくれ、すぐに孫嫁と二人きりにしてくれた。

「どうしたの、真鍋君」

 彼女がいま帰ってきた路を、涼はまた畑へと歩き出す。

 その後を、ゴム長靴で砂利を歩く彼女の足音がついてくる。

「今日はもう島には来ないと言っていたのに。あ、もしかしてレモネードが欲しくなっちゃったの?」

 どれだけおいしいものに反応しちゃうのよ――と、珠里がクスクス笑っている。

 彼女の問いかけにも応えず、涼はひたすらレモン畑を歩いた。

 初夏の夕風が心地よい。日中は熱くなってきたので、ジャケットは脱いでそのまま。水色のワイシャツに白い織り地ネクタイが潮風にはためく。グレーのスラックスに黒革靴、涼も変わらぬ姿で慣れた畑を歩いた。

 おそらく、ここだったと思う。樹々がひらけ、石垣の上、海が見える小径は。

 ここだった。ここで珠里と再会した。そこのレモンの樹、脚立の上に、冷めた目つきのどことなく覚えのある彼女がいた。

 いま、涼が珠里を想う時。彼女が浮かぶ時、珠里はここにいる。いまは涼と一緒に、そこで笑みを見せてくれている。そういう大事な、涼が愛おしく思う場所になった。

「真鍋君? なにかあったの」

 ゴム長靴で歩いてくる砂利の音が、涼の背で止まる。

 既に何かを悟り、不安そうな声。だからこそ、涼はすぐに言えずにいた。

 夕の海を見渡し、涼はそのまま。だが心の中では既に幾たびも彼女に問いかけている。

「なにかあったの。また会社で、売り上げのためになにか言われたの? もしかして、もしかして……。あの島果樹園の企画、今になってやめるよう言われたの?」

 俺が落ち込むならどんなことか。珠里ももう知っていてくれる。

 今にも泣きそうな、いや涙もろい珠里の瞳はもう濡れていた。そんな死にそうなほど案じる彼女を見て、涼はそのまま静かに歩み寄る。

「――珠里」

「やっぱり。なにかあったのね」

 彼女自身の優しい匂いがする。女性らしい、優しい匂いがレモンの花の清々しい香りと一緒に涼を包んだ。

 意を決した。

「本社へ異動することになった。七月一日付けだ」

 え――。珠里の表情が一瞬にして強ばった。

「本社に。東京に……帰るの?」

 青ざめていた。血の気が引いたように、珠里の赤い唇も冷たく青くなっているように見えるほど、その驚きが彼女にとってもどのようなものかわかってしまう。

 思わず目を逸らし、涼は眼鏡の向こうに見える海を見る。

「帰るって。そこは元々、俺が居て良い場所ではなかった。俺はここに帰ってきたんだ。帰ってくるなら、」

 ここだ。

 言おうとしたら、涼の胸を突き放すようにして珠里から後ずさって離れていく。

 夕に、茜の頬に、その涙がつたう。

「おめでとう。いってらっしゃい。やっぱり委員長は、ここにいる人じゃなかったね」

「な、なにいっているんだよ。まだ俺はここで珠里とやりたいこと……」

「いいの。わかっていたの。なんとなく。長くは続かないって」

 そう言いながらも、珠里の頬はもう蕩々と涙を流し濡れに濡れていた。

 泣くって。おまえがそんなに泣くって、どうして。もしかして、もしかして、そう思ってもいいのか? 涼の胸になにかが込みあげてくる。

「ほんとうにそう思っていたのかよ。俺と、まだまだ一緒にやりたいと思ってくれていたんじゃないのかよ」

「真鍋君がいなくても、誰かがかわりにやるだけでしょ」

 黒目を潤ませているくせに。言葉は非常にサバサバとしていて、珠里はこんな時に笑顔を見せる。

「いい男は島には留まらないの。真鍋君も行って。島から出て行って」

 歯軋りをして、涼は怒りを滲ませる。

「俺は。その程度だったのか。どうしてもそばにいて欲しいと思える男ではなかったのか!」

 見慣れた冷めた瞳が涼を見た。いつのまにか『仕事相手』ではなくて、涼から『男』と言っていた。でも構うものか。もう今日言わず、いつ言えるのか!

「俺は、こうして珠里に会いたいんだよ。これからもずっと!」

「私は駄目。だいたい男の人とは長続きしないし、面倒くさい訳アリの女より、もっと屈託のなくて素直な女性が委員長には合っていると思っていたの」

 なのに珠里もごく自然に『女』として切り返してきた。彼女も意識してくれていたことを涼はいまここで初めて確信してしまう。でも、もう……。

 破裂しそうな怒りをなんとか抑え、涼は頭を冷やそうとする。だが、珠里は容赦ない。

「転属するから、いま持っている企画はすべて中止。ここでやるべき事はもうなくなったということなのね。それならもう、ここには来ては駄目」

 そう来るかと怒鳴り返しそうになるが、それでも涼は黙って好きなだけ珠里に言わせてみる。

「うちの担当さんも今日までよ、真鍋チーフ。明日から梶原さんに来てもらう。そうでなければ、カメリアさんとの契約を止める」

 ――さようなら。

 ゴム長靴で走り去っていく。

 涼は……。追いかけなかった。

 あの女、追いかければ逃げていくに決まっている。


 だから好きなように逃がした。

 いま涼の傍らにはレモンの花だけ。その香りだけが涼を包み込んでくれている。

 そして潮騒の音だけ。


 


 

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