2-2 アールグレイ・ストレート
どんな日も畑に出る。夫がそうしていたように。
畑のために生きていく。
たまに意地を張っている様だと自分で思うこともある。
眠たい目元を堪え、珠里はひとり脚立にのぼり、今日も鋏片手に果樹園にいる。
久しぶりに夫を鮮烈に想いだしてしまい、恋しくて、恋しくて、眠れなかった……。
「珠里」
急に呼ばれ、ぼんやりしていた珠里は慌てて『パチン』と鋏を閉じる。手添えをしていなかったので青いレモンがぼとんと切ったまま樹から落ちてしまった。
「なにしてるんだよ。大事なレモンだろ」
脚立の下、黒いコート姿の男性が身をかがめてレモンを拾ってくれていた。
「ま、真鍋君」
「携帯にメールも電話もしたんだけれど、通じなくて。なにかあったのかとちょっと気になったもんだから」
昨日、ふとしたことだったのに、夫を思い出ださせてしまったと涙に濡れた珠里を気遣い『明後日来る』と言っていた彼が今日もここにいる。でも珠里は慌ててウィンドブレーカーの胸ポケットに入れている携帯電話を確かめた。
メールに数回の着信履歴が残っている。
「ご、ごめんなさいっ」
「いま気がついたのかよ」
「きょ、今日は誰も来ない予定だったから……」
きっちりしている委員長気質の彼が顔をしかめた。
同級生でもこちら今は契約先の営業さん、お仕事仲間。うっかり気を抜いていたことを責められても仕方がない。
急いで脚立から降り、涼の目の前へ。でも彼は珠里の顔を見ると、ふっと溜め息をこぼしただけで終わらせてくれた。
「俺も、またアポなしで来たちゃったわけだけどな。昨日、泣かせちゃったのも気になって」
「泣かせちゃったて。真鍋君のせいじゃないのに、そんな気にしないでよ。えっと大丈夫だから。それからメールチェックしてなくて。ごめんなさい」
「それならいいんだよ。メールだって二宮果樹園オフィシャルメアドじゃなくて、珠里個人に送ったものだから。今日はそれだけ」
それだけ? 腕時計を見た彼が海をゆくフェリーをちらりと見た。
「明日は梶原も一緒でもいいかな。ヴァレンタインギフト用ボックスのコンセプトとイメージデザインを早々に仕上げたみたいで、早く二宮さんに見て欲しいと張りきっているんだ」
遅れ馳せながら確かめたメールに、同じ内容が書かれていた。最後には『今日はこれで終わり。いまから梶原と外で飯食って帰る。連絡はもう明日でいいよ』と明るい絵文字付き。言葉通りに同級生気分で送ってくれた一通のようで、珠里もほっとした。
「もちろん、お待ちしております。でも、すごいね。真鍋君と梶原さん、仕事バリバリで」
やっぱり前向きに生きてきただろう委員長は、自分みたいにうじうじしないのだろうと、自分が嫌になってしまう。
また眼鏡の彼が時計を見る。そして同じように波間をゆっくりとゆくフェリーへ……。
「また明日来る。今からエリア担当カフェの見回りをしてクラシック・ショコラを扱う店を決めるんだ。『手作り』を謳った限定品だから全店で出せなくて。なるべく商品が動いて売り切れる店をピックアップすることになったんだ」
キリッとした眼差しに、きちんとしたスケジュール管理をこなそうと時計を気にするその真剣さ。そしてやっぱり真っ直ぐな目。
そうだ。この人も、美味しいものに妥協がない『作り手の男』なんだと、珠里は涼からその気高さを今日は強く感じた。
でも、そんな涼がじっと珠里を見つめている。
「やっぱりなんか疲れてないか、目元」
また夫のことで気遣われるのは避けたい。
「眠れなかったのか」
「ううん。眠った、よ」
「そうして時々、眠れなかったり……」
「だ、大丈夫だから」
「自営だから休暇などないのかもしれないけれど、時には息抜きとかさ――」
生真面目な彼の気持ちに拍車がかかる。
「たまには島の外に出たりしているのか? 買い物とか――」
答えないでいると、彼が言葉を止めた。でもほんの一時。
「島で毎日、農作業ばかりじゃなくて」
「夫のことは関係ないからっ」
ついつっけんどんに返してしまった。
いつかのように、またきつく珠里に拒まれ、黒縁眼鏡の生真面目そうな彼が硬直している。
珠里もハッとしたが、いつものごとく後の祭り。悪い癖が出てしまい、愕然とする。
「ごめん。俺……また余計……」
「だから。それも……違うの……真鍋君はなにも悪くないの」
あの時と一緒だ。まったく一緒。心配してくれているのに、心配してもらって嬉しいのに。
「わかった。でも、安心した。変わらず畑にいたから」
そのまま彼が背を向け、畑を去っていこうとしている。
どうして、彼とは噛み合わないのだろう。
仕事を通して彼とやっとまともに顔を見て笑顔を交えて、やっと気軽に話が出来るようになったというのに。
また、逆戻り?
いや、彼とは仕事をしているのだから。同級生気分は捨てようと、珠里から話しかける。
「真鍋君」
珠里から呼び止める。彼が立ち止まり、そっと肩越しに振り返ってくれた。
「昨日、真鍋君の次の企画が伊予柑だったから、私たちも作ってみようって、ばあちゃんと一緒に伊予柑のパウンドケーキを焼いたんだけれど。もし、よかったら持って帰って」
また彼が眼鏡の横顔で腕時計を見る。やっぱり目線は海へ。でもそこにはもうフェリーはいない。
きちんとしている彼が時間を気にしているのは分かっていた。でも『上手く話せない』から、またすれ違うだなんて。これからあんな素敵な仕事を一緒にさせてもらうのにすれ違いはもう嫌だと思ったのは珠里のほう。だから、ただ咄嗟に出たのが『焼いたケーキ』。
でも時計を真顔で見つめていた彼がにっこり微笑んでくれた。
「なんだよ、それ。凄くうまそうだな。おばあちゃんが焼いた菓子に出会えるなんて、来て良かった」
お菓子に目がないところは、もしかしたら、私と彼の一番の共通点ではないかと珠里は思った。
◆・◆・◆
二宮のキッチンに保存していた伊予柑パウンドケーキを珠里は手早く包む。
珠里も掛け時計を見上げる。車で港まで行って……、ここを数分後に出れば充分間に合うだろうと急いで準備する。
だけれど涼はもう、珠里が包んでいるケーキをじいっと見つめている。
「一切れ、食べていいかな」
「もちろん」
お土産用に包んでいるものとは別のケーキからひときれ、珠里はカットしてそのまま涼に差し出した。
彼がそれを手にとって、またまじまじと切り口を見ている。そしてすぐには頬張らず、香りを確かめて。
「洋酒は僅かで、バター強めの配分でおだやか。でも伊予柑の香りが生きている」
「真鍋君が『伊予柑のフレッシュな香り』と言っていたでしょう。だから果汁を生地に混ぜて、果肉は白糖シロップに短時間だけ漬けたもの。『僅かな洋酒』は、果汁エキスを出しやすくするためのブランデーをすこしだけ使ったの」
「果汁を優先にしたレシピってことか。うん、いい。これなんだよな。俺が今度作りたい菓子も、こんなふうにフレッシュな香りを生かしたいんだけれど、なにせショコラ。カカオの濃い匂いに消されるんじゃないかと案じているところ」
お菓子が大好き。でも、そのお菓子がいまは仕事の彼。食べるのも好きそうなのに、食べる前の仕事目線。時々、辛くならないのかな……とふと珠里は思ってしまった。
だけれど、ケーキを頬張った彼がすぐに笑顔になる。
「うん、うまいっ。なんだろう、ほんとカネコさんの手作りはほっとする。でも『母ちゃんの手作り』という域は超えている」
美味しいと嬉しそうに微笑みながらも、やっぱり舌もお仕事をしているんだなと珠里は改めて感嘆。本当に彼が心から打ち込んでいることなのだと思える姿。
「時間があるなら珈琲も一緒にどうぞ、といいたいところ。でも忙しそうね。カメリアさんなら、美味しい珈琲がすぐそばにあるでしょう。一緒に食べてね」
せっかくの一口をさらに味わい深くするための一杯をここでじっくり味わって欲しかったという気持ちをこぼしてしまっていた。
そして、やっぱり涼は腕時計を見た。
だが、涼はいきなりそこにある椅子を手元に引き寄せ、どっかりと座ってしまう。
「いや違うな。これなら紅茶だ。ダージリンのストレートで」
お土産のケーキを包み終わり、手渡す寸前だった珠里は目を丸くする。
「……。次の船、いいの?」
自分で勧めておいて、珠里は唖然としていた。あんなに時計を気にしていたのに、どっかりと彼は腰を据えてしまったから。
でも、向かうところいつだってまっすぐな営業さんは、眼鏡の笑顔で言う。
「おかわり。すんごい美味いんだもんな。もうちょっと食べたい」
白いワイシャツのカフスの下に、すっかり時計が見えなくなるまで隠す仕草。
「珠里だったら何を飲む?」
まるで彼が腕から時計を外して、どこかに投げてしまったように見えてしまった。そんな驚き。
「私なら……、アールグレイのミルクティーかな」
ひとまず答えると、涼が笑う。
「女の子の定番だな。アールグレイが好きな子って多いよな。じゃあ俺も一緒で、ただしストレート」
「うん、わかった。いま淹れるから待ってね」
すっかり椅子に落ち着いてしまったようなので、それならと珠里はお湯を沸かし、白いケーキ皿を並べ、そこにカットした卵色のパウンドケーキを二切れずつ盛りつける。
「湯、沸いたな。手伝うよ」
コンロには蓋がカタカタと動き出したケトル。それを見た涼が、ジャケットを脱いで立ち上がる。白いワイシャツの袖をまくり、コンロまで行き火を止めてくれた。
彼の『手伝う』は火を止めただけではなかった。湯が沸いたばかりの白いケトルを片手に珠里が準備していた白いティーカップにその湯を注ぎ始める。彼自らお茶を淹れてくれるお手伝い。
ティーポットにもきちんと白湯を入れ茶器を温める彼。きちんとした手順を心得ているところは、さすが、珈琲屋の社員と言ったところか。
「手慣れているね、真鍋君」
「カメリアの新入社員は、入社して研修を終えると最初はカフェのスタッフとして現場から始めるんだ」
「お店で淹れていたの」
「一年半だけ。運良く、営業企画部に配属してもらえて現場からあがった」
「そうだったのね」
本格的な紅茶を入れる涼の動きはバリスタそのもの。珠里はつい見とれていた。
茶器が温まるとその湯を捨て、やっと茶葉に湯を注ぐ彼。そこら中にふわっと華やかなベルガモットの香りが広がった。
珠里が盛りつけたケーキ、そして涼が淹れてくれたアールグレイのお茶。それが揃う。
キッチンの片隅。そこで形ばかりの午前のお茶。スーツ姿の男と農作業着の女が向き合う。
「なんか来て良かった。ほんとここに来ると、少し立ち止まれる。もしかすると俺、必要以上に急ぎ足なのかもしれない」
紅茶の香りを胸いっぱいに吸い、そして手作りの菓子を頬張ってくれるビジネスマンの男。ちょっとちぐはぐに見えて、でも涼ならしっくり。珠里も忙しい彼がここでくつろいでくれるのは嬉しい。だがつい出てしまう悪い癖。
「島の時間はゆっくりだっていいたいんでしょ。お仕事一生懸命のところ、船がないと来られない田舎まで来て頂いて、しかも足止めさせてしまい申し訳ありませんでした」
「そういう言い方、可愛げないっていわれるぞ」
また悪い癖の口になっていたようで、珠里は我に返る。でも涼はストレートのアールグレイを味わいつつ、柔らかな眼差し。
「珠里らしいけどな」
「誤解の元――でもあるのよね」
『そうだな』。否定しない彼が、白いソーサーにカップを静かに置いた。
そして今度は笑みを消してしまった眼鏡の顔で、じっと珠里を見つめている。
なに、なんでそんなに真顔で見つめられているのか。妙な感情を意識しなくてもドキドキしてしまう。
「えっと、真鍋君……?」
「でも珠里はそのまんまでいい。珠里の旦那みたいに、そのまんまの珠里をわかってくれる人がいたんだから、それでいい。悪く思わない人間だって沢山いるよ」
『悪く思わない人間』。それがこの島にある。それまで不器用な珠里は失敗ばかりして、幾分か頑張ってきたけれど、すぐに壊れていった想い出ばかり。だけどこの島では人との繋がりを広げることが出来た。
それは何故か――。やっぱりここが島だからだと珠里はよく思う。
「俺、『島の外に出て息抜きを』なんて。また、一般的な目線でしか見られなくて」
彼のあのまっすぐな眼が、いま珠里に向けられている。正面から思い切り真向かう眼差し。仕事で輝くその瞳が、いまは珠里へ。
「俺と一緒だな。美味いものを食べている時が、いちばん。珠里はこの島で果実と向き合い、このキッチンで無我夢中で菓子を焼いて、そして美味しく頬張る。それがいちばん好きなことなんだな」
びっくりする。『一般的な目線』だけで珠里を労ったが気持ちが噛み合わず、でも次に涼が珠里の気持ちに触れようと労ってくれたその気持ちは――見事に『その通り』。一緒だった。『勘違い、大嫌い』と言い放った後、彼が珠里の本心を探してきてくれた時と一緒。今度は一晩じゃなくて、お茶を準備しているほんの少しの間に――。
「珠里の旦那さんなら、もしかして、『うまいもんでも食って、はやく元気になれ』と言っていたかもしれないな、なんて。ケーキを頬張る珠里を見て思った」
『俺のところに嫁に来て正解だったのかな。おまえ、街中のOLなんて合ってなかったんだよ』
また、夫が彼との間に現れる。
でも夫じゃなくていま目の前には、同級生の涼。
「女の子だから、島の外に出て、街中に出て、お洒落な服を着て、見て、買って。洒落たカフェやレストランで美味しいものを食べる。そうすれば気分転換になると、そんな一般論で『たまには島の外へ』と言ってみたんだ。でも違うんだな。さっきまで、あんなに疲れた顔をしていたのに。ばあちゃんと焼いた菓子と淹れたてのお茶を味わう珠里がすっごい柔らかい笑顔になっていって……」
『畑で笑っているおまえ、キッチンでばあちゃんと菓子を焼いているおまえ、すげえいい顔。つんけんした美人じゃなくて、ちゃんとかわいいもんな』。
神戸を飛び出して、彼の畑仕事を手伝いたいと押しかけた珠里。最初はアルバイトという名目で、果樹園の手伝いを始めた。
お洒落なOLが楽しい時期もあった。神戸らしいお洒落上手なOLとして他の女の子達同様に頑張ってきたつもり。だからなのか、自分の意に反し黙っていても男性が声をかけてくれた。
でもそれが、最後に珠里を追いつめた。言い寄ってくる男性、それを妬む同性との軋轢。
街を捨て、珠里を癒してくれたのはこの島。だから……。
それを涼は、また。ちゃんと珠里の中から見つけてくれた?
心の傍らに、大きな手がそっと触れようとしているよな。そんな温かみを珠里は感じてしまっている。
「うん、そうなの。私、この島にいることが、いちばんなの。街中に出ることはあっても、そこで癒されることはいまはない」
「そっか。珠里はそうなんだな」
すれ違いそうになったのに。やっと彼と噛み合った気がした。
「ありがとう。真鍋君。でも面倒くさいでしょ、私……」
だけど、眼鏡の彼は照れたように笑うだけ。
「また勘違いにならないよう、ちょっと考え直してみただけ。俺もこのケーキとお茶でリセットして立ち止まって、ちょっと周りが見えるようになるのかも」
でも。すれ違っても考え直してくれたんだ……。珠里もそんな同級生を見て、ふっと頬がほころんでしまう。
「さらに。『よけいなお世話』でないことも祈る」
「ううん。こんな私のこと、ちゃんと見てくれて嬉しい」
心からそう思った。まだ白いカップが熱い。本格的に丁寧に淹れてくれたお茶は冷めにくい。そんな彼のきめ細やかな仕事みたいに、人とうまく関われない珠里の心をちゃんと見てくれて。
そんな彼だから。珠里から少しだけ心を開いてみようと、聞いてみた。
「島にいて安心できるのはね、いろいろ訳があるんだけど。その一つは、私の実家のこともあって。もしかして、母のこと……ご両親から聞いたりした?」
カップに口を付けていた彼の手がやはり止まった。そして申し訳なさそうに、涼は視線を落とした。
「親父じゃなくて、母親から聞いた。俺、子供だったから、当時のこと全然知らなくて」
彼も『知ってしまったこと』を隠す気はないようだったので、珠里は思い切ってさらに踏み込んでみる。
「たぶん。真鍋君のお母様や他の子達のお母様にも迷惑をかけていたと思う、うちの母は」
「……うーん、……。いや、母親達の間にあったことより、珠里がその時、頼りたいお母さんに頼れなかったことが多かったんじゃないかと思って。とっつきにくい雰囲気もそのせいだったのかな。それでそのまま大人にならざる得なかったのだろうなと」
「こんな自分になったこと、いつまでも母親のせいにして生きていきたくないんだけれど、でも、なかなか上手く直ぐには変われない。さっきみたいに、人を不快にさせるような言いぐさも出てくると思うの……だから、その時は、さっきみたいに……言って……」
『そんな言い方は良くない』と。『そんな考え方は良くない』と。
「真鍋君に言われるなら、私、少し考える」
彼が『お互いに良い方に持っていこうぜ。同級生だからはっきり言い合おう』と言っていた意味が、いまの珠里にはすごく良くわかる。
そんな神妙な珠里を見ている彼も、いまは笑顔ではなかった。
「わかった。俺もそうしたい。それで『二宮果樹園』と良い仕事をしたいと思っているから」
――いい仕事をしよう。
いま珠里が、涼と関わることでいちばん望んでいることだった。
「私。カメリアさんと仕事ができること、最近、嬉しくて楽しくて、ドキドキしているの。真田さんの妥協しないお仕事も素晴らしいけれど、やっぱり全国大手メーカーの華やかさも素敵。カネコばあちゃんも、クラシック・ショコラの広告原稿を見てすごく嬉しそうだったもの」
「俺も。なんかこの果樹園の空気に触れたくて、今日もつい来ちゃったしな。ここに来ると何かできるんじゃないかと」
俺もドキドキしているよ。
涼の柔らかな笑みに、珠里も微笑みかえす。
私たち。これから果実とお菓子を交えて、一緒になにかを作っていく。
ひとつの仕事を一緒にやっていく。
果樹園での生産だけではない仕事に出会えた珠里にとっては、ひさしぶりのときめき。
季節が変わるごとにお洒落な服を身にまとう『ときめき』のように。いまは素敵なスイーツを彼等と、自分が生産した果実で生み出すのがときめき。
「うちの柑橘が、こんなに喜んでもらえるだなんて夢みたい」
「夢じゃないだろ。カネコさんと珠里が、旦那さん亡き後もしっかり守ってきたからじゃないか。俺はここの果実に助けられたんだ。ほんとうに。いまは純粋に美味い菓子の為になにをすればいいかわかるようになったよ。その為には誰がリーダーであっても良かったんだとかね」
眼鏡の奥から届く静かな眼差し。珠里はそんな涼と穏やかに見つめ合う。
「いけね。梶原に三時までには帰ってきて欲しいと言われていたんだ。次の船が来るから行くな」
急に慌てて紅茶を飲みほすと、涼は急いで黒いジャケットをはおる。
「ごちそうさま。ほんといいティータイムだった」
ジャケットの襟を正すと、すぐさま袖口の腕時計を確かめている。彼が同級生からビジネスマンに戻っていく。
支度を終えた涼を、珠里も坂の下に止めている彼の車まで見送る。
果樹園の小坂を二人で並んで歩く。坂から見える景色は海。今日も瀬戸内の海は静かで、午前の光を受けた小さな波がきらきら光っている。白波をたてる小さな船と大きなフェリーが並んで走っている。
「そうだ。最近、真田社長は来たりしているのか」
並んで坂を下りている珠里は首を振る。
「ううん。あちらもマカロン発売前でお忙しくしているみたい。でも近いうちに打ち合わせをする予定なんだけど」
ごめんね、それ以上は言えない――と答えると、彼もいいよ当然だろと頷いてくれる。
「いや、時間が経ってから気になって。あのマカロン。見て直ぐに口にしたからすごく感動したんだけれど、あれだけ広告に掲載してもインパクトに欠けるんじゃないかな。あれは食べて初めて感動するスイーツだから、客に見過ごされたら……やっぱり俺も寂しいなと」
ライバル会社の売り出し商品を案ずる涼。互いに売り上げを気にしなくてはならない商売敵ではあるけれど、美々がそうだったように、珠里もそうだったように、菓子商品自体には分け隔て無くありたいと思う。涼もそんな気持ちであってくれて珠里も安心する。
「きっと俺の取り越し苦労だな。あの社長のことだ、絶対に一個体のマカロンでも売り上げを叩き出す商法でくるんだろ。どうやってくれるのか逆に楽しみだよ。それにこんな若僧が案じているなんて知ったら、あの社長に『俺を馬鹿にするな』と怒鳴られそうだ」
坂の下に停めてある黒い車に辿り着く。黒いドイツ車のドアを颯爽と開けるビジネスマン、ちっとも見劣りしなくて堂々としている涼にとても似合っている。
「これ。どうぞ」
運転席に乗り込んだ涼に、伊予柑のケーキを包んだペーパーバッグを差し出す。
「いただきます。おいしかったよ」
『じゃあ、また明日』。黒い車のエンジンがかかり、島の坂道を走りだす。
国道まで続く古い坂道を黒いアウディが走り去り、見えなくなるまで珠里は見送った。
やがて静かな潮風。漁師の小舟が行き交う青い海だけが目の前に。
ほっと一息。なんとかすれ違わずに済んだ――。ちょっとエネルギーを使い果たした気分。でも、こうして島の音が珠里を徐々に安心させてくれる。
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