2章 レモン畑の同級生 (side 珠里)

2-1 伊予柑ダーリン

 再会した元クラスメイトの彼は、相変わらずだと珠里は思っている。

 

「珠里。これを見てくれ。新しい企画なんだ!」

 

 果樹園で農作業をしていると、いつの間にか彼がそこにいることが多い。

 どんな場所にいても、彼が珠里を見つけてしまう。とても不思議だった。

 

 彼が勤める全国大手メーカーのカメリア珈琲と正式契約を結んだら、頻繁に訪ねてくる様になった。

 訪ねてくる訳も、仕事で再会したから当たり前だけれど、やっぱり仕事のこと。でも彼はとても生き生きしている。

 真っ直ぐに取り組んでいて、だからこそ、時々周りが見えなくなる様で、そして、上手くいかなかったらとても悔しそうに肩を落とす。仕事で一喜一憂。目指すものへの純真さが、少年の志そのまま大人になった様に見えた。

 責任感も強く、その責任を果たすためなら、少し思い切ったこともしてしまう。それが良い時もあれば悪い時もあったり。

『うちの委員長てさ。強引だよね』

『お父さんが先生だから、生真面目で、融通がきかないところがあるよね』

 時々、迷惑。

 中学生時代、クラスの女の子達もそう囁いていた。

 それは密かに珠里も同感。彼女たちのひそひそ話に頷いていたりした。自分も彼の『良かれと思ってやってくれたこと』で、ちょっと傷ついたり、そして彼を傷つけたりしたから。

 だけれど、そんな女子一同も本当はわかっている。リーダーはそれぐらいの『思い切り』がないと出来ないし、強引な決断もしてくれないと、クラスがまとまらない。その役をかってくれ、それが彼には一番合っている。任せられるのだと。

 

 大人になっても、彼は彼らしいまま。常に前を見て進んでいくことになんの疑念も抱かない精悍さもそのまま。

 その真っ直ぐなところが羨ましい……。珠里はそう思っている。

   

「珠里。これなんだ。よかったら目を通して欲しいんだ」

 今日も訪ねてきたと思ったら、まず『仕事の話』。しかも、いつも以上に輝く笑顔でとてもはりきっているよう?

「今日、梶原さんは一緒じゃないの。クラシック・ショコラの発売前で忙しいかと思っていたんだけど」

 レモンを収穫していた手を止め、脚立から降りた珠里は差し出されたファイルをひとまず受け取る。

「今回のリーダーはあいつだし。思い切って任せてやらせても、梶原なら大丈夫。あれで自信がつくんじゃないかな。あいつだって俺があれこれ口挟んだり手を出すより、自分で達成したいはずだから」

「ふーん、真鍋君て良い先輩なんだ」

 つい、いつもの癖で。冷めた物言いに、嫌な顔を作ってしまった。だがそれに気がついても、いつも後の祭り。いつもこんな無愛想で嫌味な反応しかできない自分を知ると、珠里は激しい自己嫌悪に陥る。そして人と会いたくなくなる。

 その証拠に、眼鏡の奥の目が白けている。そして同級生の彼は口元を曲げ、溜め息。

「いや。そうでもない。俺、ちょっと前まで梶原と敵対して張り合っていて。絶対に抜かれたくないやつだったから、めちゃくちゃ嫌なヤツだった」

 珠里の嫌味な反応に呆れたから、不機嫌そうになったのかと怯えたら、思わぬ彼の心情を聞かされ珠里は驚いた。

「そうだったの。すごく息が合っていたから……」

「それ言うなよ。俺が自分でびっくりしているんだから。っていうか、梶原もびっくりしてるんじゃないかな。お互いの企画が上だと張り合って、二人揃って最終候補に残ることも多かったし、でもベテランチーフの昔ながらのそつない企画にばかり負けてきて、今度こそ『洗練された今どきの企画なら、俺が上』て張り合ってきたんだから」

「そんなふうには、見えなかったわよ。ほんと」

 心からそう思っているから言ってみた珠里だったが。それを聞いた途端、眼鏡の彼が果樹園から見渡せる海をじっと見つめて黙ってしまう。

 何を考えているのだろう。自分との会話で何を感じたのだろう。内心、珠里はドキドキしている。

 頭の良い彼には、会話のひとつひとつで珠里の中を見透かされそうで。黒縁の眼鏡が顕微鏡、彼の目は精密な解析機のよう。珠里の心にある小さな染みの成分まで分析されてしまいそう……。だから時々、目を見るのが怖くなってしまう。彼はいつだって真剣で、何事も真っ正面から取り組もうとする。

 この前だって……と、珠里は振り返る。『委員長は勘違い』と感情的にぶちまけてしまった大人げない一言だけで、珠里が胸に秘めて口では言えなかったことを彼は真剣に考えてきてくれた。そうして珠里の思うところを解き明かしてしまったほど。

 十四歳の時の、幼い小さな傷。それを大人になって大袈裟にぶちまけた自分が恥ずかしかった。

 なのに彼は『子供の時の話だ』と流して終わりにしてくれた。

 だから珠里も。今度は自分が真っ正面から、彼の話を聞いて、向き合うべきだと思ったから。彼がいま真っ直ぐに取り組んでいる仕事を理解しようと努めた。

 そんな彼が黙ってじっと海を見ている。今度は何を考えているのだろう?

 だけれど、同級生の彼はすぐに笑みを見せてくれる。

「ここで真田社長に会ったおかげかな。そうでなければ、俺……あのまま終わっていただろうなと思っている」

「終わるって……? うちの果樹園と契約できずに……ということ?」

「そう。自分のことばかり考えていたからな。カメリアの一員としてすべきことも、誰のために企画するんだということも。美味いスイーツをどうして客に届けているのかということも」

 あの強面の社長にあんなにはっきり言われた影響なのだろうかと、珠里は感じた。

 美々の父親である、真田珈琲二代目、真田輝久社長。彼はこの地元の喫茶業界では『第一人者』。喫茶だけでなく飲食業界からも注目されている。敏腕経営者と言いたいところだが、珠里の目から見たら『信念を譲らない職人気質』と言いたいところ。

 そんなトップに君臨する男に直に睨まれて、そんなふうに変われるならば。やはり真田社長の眼から放たれるものが本物、人を動かしてしまう何かを秘めているものなのだろうと感じる。

 敏感で機転が利きそうな委員長のことだから、きっと肌でビリビリ感じてしまったのだろう。

「それより。その企画なんだけれど……」

 いつまでも珠里が持ったままのファイルブック。それを早く見て欲しいとばかりに落ち着きない彼。

 本当にそれだけのために、今日もここまで真っ直ぐに来たと言いたそうな顔で、珠里はちょっとため息を吐きつつ、でも『ドキドキ』。あのお菓子対決はとてもドキドキした。どちらのお菓子も素敵で美味しくて。どっちもどうにかしてあげたい。あんな感情的になれたのも久しぶり。それだけ珠里がときめいた素敵な出来事。またあんなドキドキするお菓子を考えてきてくれたのだろうかと、同級生の彼が持ってきた新企画を開いてみる。

【 伊予柑の…… 】

 企画冒頭に【伊予柑】の文字。不意をつかれ、珠里は思わず企画者である涼を見上げてしまう。

「え、今度は伊予柑なの?」

「うん。伊予柑」

「紅マドンナは?」

「良い素材だけれど、連打は良くない。次回も狙いはイベント的に、絶対ショコラ。似たり寄ったりになる」

「それで、伊予柑?」

 全国に知れ渡り久しい、歴史がある柑橘。この島の代名詞と言っても良いぐらい、秀逸な伊予柑はこの島や周辺諸島で作り出されてきた。

「これから旬だ。ヴァレンタインに間に合う。一個、試食させてくれないか」

 もう彼の目が同級生から、『真鍋チーフ』に。珠里も『いいわよ』と、伊予柑の畑まで彼を連れて行く。

 今日も彼は黒いビジネスコートの裾を膝で翻しながら、革靴で畑を歩く。ゴム長靴で農作業の割烹着、そしておばあちゃん達と変わらない農帽姿の珠里の後を。そんな颯爽としたビジネスマンの姿でついてくる。

 眼鏡の黒縁が正午前の強い陽射しに光って、そうして今日もこの畑を隈無く眺めているその眼差し。やっぱり真っ直ぐすぎるな……と、珠里は思う。

「いいな、この畑は。確かに創造性をかき立てる」

 彼も真田社長と同じ事を言った。意識して言っているのか、社長と同じ感受性を秘めているのかはわからない。

「なあ、あの金柑とかどうするんだよ」

「ある程度はお正月用に出荷するけど。後はばあちゃんが摘んで、甘露煮にするよ」

 『うまそう』。彼がごくりと喉を鳴らしたので、珠里は思わず笑ってしまう。

「真鍋君って……。実は甘党なんだ」

「そうです。甘党です。母親の影響かな。うちの母も菓子作りが好きで――」

 そう言えば、彼のお母様は教師の奥さまだけあって、おおらかで優しそうな人だった記憶が蘇る。

「優しそうなお母様だったものね」

「そ、そうかな。自分の母親のことは言われてみて、そうなのかなと思うもんなんだよな、たぶん」

 急に歯切れ悪い言い方になったので、珠里はついてくる涼へと振り返る。目が合うと彼がちょっと慌てた様に見えたけれど、すぐに『ぎこちない笑み』を見せてくれた。

 それだけでもう……。珠里は『私の母のこと、ご両親から聞いていそう』と思ってしまった。

 胸が苦しくなる様な思い出がこの島には散らばっている。

 本当はこんな島、大っ嫌いだった。戻ってくるつもりなんてなかった。

 ――『直人さん』と出会わなければ。

「これよ。ここのはもう収穫できるから」

 伊予柑の樹木が揃っている畑にたどり着き、珠里は鈴なりの木から伊予柑をひとつ、葉をつけたまま鋏を入れる。

 へたのところでもう一度枝と葉を落とし、次はポケットから果物ナイフを取り出し四つに割った。その途端、鮮烈な柑橘の香りが広がる。

 さらに珠里は軍手をポケットにしまい、切り口から大きく四つに指で割って、ごろっと出てきた瑞々しい橙色の一切れを涼に差し出した。

「伊予柑の、この皮をむく時の香りがいいよな」

 ――『珠里の指先、最近、ずっとこの匂いがする』。

 遠いあの人の声。いつか珠里の細い指先を握って、鼻先で匂って笑ってくれていた。そしてそこにいっぱいキスをしてくれた。

「やっぱり次はこれだな。この香りと果肉のほどよい酸味、新鮮な果汁……」

 

 ――この香りは伊予柑だけだ。皮をむいた時にぶわって広がるだろ! 食べるとすっごい指が汚れるだろ。それだけ果汁でいっぱいてことなんだよ!

 

『これが俺の伊予柑だ』

 

 この島の名産は伊予柑。蜜柑じゃなくて伊予柑。柑橘に地名が入っているほどの特産。ここに来たら伊予柑。だから日本一美味い伊予柑を作って、この島から送り出すんだよ。彼の一番の謳い文句。

 

「うん、美味い。絶対これがいい。次は伊予柑でいく。それで珠里、……珠里……?」

 涼の声に戻ってしまう。そうしたら、堪えていたものが溢れ出してしまった。

 目が熱く曇っている。涙がうっすら滲んでしまっていた。自分でも正直びっくり……。こんな再会したばかりの同級生の目の前で、こんなになるなんて?

「ごめん。この伊予柑、あの人が一番大事にしていた畑だから。おなじように『この伊予柑が絶対良い、美味しい』って真鍋君が言うから……」

「あ。そ、そうだったんだ……」

 こんなこと、再会したばかりのクラスメイトに言われても彼も困るだろう。

 だからなのか。彼は珠里に背を向けると、暫くじっと黙って動かなくなってしまう。

 でも暫くするとその背から一言届いた。

「旦那の伊予柑。食べてもらおう、沢山の人に」

 ――沢山の人に、食べてもらうんだ。

 一途に畑に向かっていた亡き夫の屈託のない笑みが蘇る。その笑みが好きで好きで堪らなくて、本当に彼と結婚して良かったと。毎日この畑で噛みしめていたのに……。そう思うと、今日はどうしてか涙が溢れるばかり。

「俺、先にキッチンへお邪魔しているな」

 涼もそんな珠里をもてあまし困惑しているようだったから、涙に濡れたまま珠里は頷く。

「待っている、向こうで」

「うん」

 珠里の手にある伊予柑を優しく引き取ると、そのままそっとしてくれるかのように涼は先にいく。

 涙を拭いて、たわわに実る伊予柑の樹を珠里は見上げる。彼も脚立の上、農作業姿。でもいつも白い歯を見せて快活に笑い、男くさく無精髭のままが多かった夫。

 珠里は手に残った伊予柑の香りを胸に吸い込んだ。


 


 ◆・◆・◆


 


 摘んだ伊予柑を涼とわけて食べた。

 その香りがほのかに残る自宅のスイーツキッチンにて、やっと涼と企画書に向き合う。

 ヴァレンタインの企画だった。しかも二本立て。

「店に出す華やかな限定スイーツと、それともうひとつ、こちらはギフト用の箱売りで、地元のフルーツをふんだんに使って……」

 ぼんやりと彼の企画を眺めている。今日の珠里はもう集中できそうになかった。

「梶原とまた組んだんだ。今度カフェのスイーツは俺、ギフト用の担当は梶原。だからギフトに使うフルーツについて、そのうちに梶原が相談に来ると思うから……その時に……」

 お構いなしに彼が話を進めていく。でも珠里は上の空……。

 そのうちに『真っ直ぐになりすぎる彼』も気がついてしまった様だ。

 彼から企画書のファイルブックを閉じてしまった。その時やっと珠里はハッとする。

「やめよう。今日は」

 珠里は慌てる。

「ご、ごめんなさい。あのもう一度」

 だけれど彼が眼鏡の顔で静かに微笑んだ。

「そういう日もあるだろう。俺、触っちゃいけないところ、触ったみたいだな。また明日……いや明後日が良いかもな。その時ゆっくり話そう」

「真鍋君は悪くないよ。どこも触ってないから」

 でも彼は緩く笑ったまま首を振る。

「触ったんだよ。俺も自分が悪かったなんて思っていないって。そういうこと、偶然みたいにあるだろ。それだけのこと、今日がそうだっただけだ」

 逆に気遣ってくれたのが身に染みてしまう。

「ごめんなさい」

 彼が溜め息をついた。でも笑っている。

「旦那のこと。好きなんだ、今も」

 気恥ずかしいが、珠里は正直にこっくりと頷く。生きていてくれたら、絶対に幸せな毎日だったと断言できる。

「こんな私のこと。いちばん良くわかってくれた人だったから」

「無愛想で、何を考えているかわからなくて? 言葉足らずで誤解されやすい」

 再会したばかりの同級生に『自分でも気にしている欠点』を見事に並べられ、珠里は驚く。

 すると涼がちょっと面倒くさそうに黒髪をかきながら、顔をしかめている。

「同級生だからかな。あんまり他人行儀みたいな気遣いはしたくないんだよな。同級生だったからなんとなくわかる、そういうところはお互いに良い方に持っていこうぜって思っている。はっきり言って欲しいと俺は思っているんだ。俺もこの前の『勘違い!』は結構効いた。でも言ってもらって良かった」

「でもその勘違いは、中学生の時の真鍋君のことで」

 それでも彼が渋い顔で唸っている。

「いやー、あれ。今でも結構あるかもしれないと俺自身でも思っちゃったんだよなあ。『ガンガン前へ行く』ことしか考えていない俺には、良いブレーキだったかな、なんて」

「そうなの?」

「そうなんです、実は。いろいろと、独走ばかりしてきたんじゃないかって、振り返ったよ自分のこと」

「そうだったの」

「うん。でも、珠里と再会したおかげで良いこともあった。だから、俺は珠里のそういうところ、ちょっと後押ししたら良くなるんじゃね? なんてところは、その……同級生の縁で、ちょっとお返しできたらなあと」

 それを聞いて、珠里も頷く。

「不思議。いま、自分でわかっている欠点言われても、ぜんぜん嫌じゃなかった」

「まあ、再会した時におもいっきりぶつかったせいもあるんだろうな。またあれやっても、こうやって珠里と話せる気がするんだよ俺」

「うん、私も……。そう思う」

 本心だった。でも、実は誰かにはっきり言って欲しかったのかもしれないとも感じた。それが今は涼……、拓郎もかな? やっぱり同級生だからなのかなと感じたりもする。

「でも。珠里の旦那は、そういうところぜーんぶ愛してくれていたって感じだな。わかるよ。この畑とばあちゃんとおふくろさんと嫁さんを一手に守っていた男ってかんじだよな」

 そう言いながら、彼はさっと広げていた資料をたたみ、ビジネスバッグにしまい、すぐに立ち上がってしまった。

「俺は……まだ珠里に再会したばかりでよくわかってあげられないんだけどさ。まあ、その、泣きたいほど旦那を思い出しちゃった日に、これやって欲しい、あれ考えて欲しいは言いたくない。じっくり話し合いたいから」

 それだけいうと、黒いコートをさっと羽織って『また連絡する』と、彼はキッチンを出て行こうとしていた。

 珠里も慌てて見送る。

「ありがとう、真鍋君。企画書、次までにちゃんと見ておくから」

 もう庭を横切るコートの背中。肩越しに軽い手振りだけが返ってきた。

 涼が持ってきたファイルブックをぎゅっと珠里は抱きしめていた。


 


 ◆・◆・◆


 


 それでも珠里は果樹園の畑に向かう。伊予柑の収穫が始まり、師走の出荷もフル稼働。涼が目をつけていた金柑も収穫しなくてはならない。

 近所のゴリまん、仙波家の畑はほとんどが蜜柑で、今からが収穫のピーク。毎年、泊まり込みのアルバイトを雇って、山いっぱいの蜜柑を収穫する時期で忙しい時期。近頃は二宮の果樹園に来るのも何日か置きになっていた。

 レモンも只今が旬。今日もお節料理に使いたいからと、お得意先の料亭旅館からまとまった注文があり、そのレモンを摘んでいる。

 

 ほのかに香りを漂わす柑橘に囲まれながら、珠里はたまに青い瀬戸内の海を眺め、脚立の上でぼんやりとしてしまうことがある。

 

 

  夏だった。いったいどうしてこの島を訪ねたのかわからなかった。

 嫌な思春期の思い出しかないこの島を、再び訪ねることなどないと思っていたのに。

 ちょっとした異性関係が原因で勤めていた会社で居づらい環境に追い込まれてしまい、気がついたら神戸を飛び出してこの柑橘の街に来ていた。

 東京の実家に帰るつもりもない珠里が他にいける土地は、ここだけ。中学時代を過ごした島だった。

 運悪く波の高い日に島に渡ってしまい、帰りはフェリーが欠航。市街に帰れなくなり、小雨も降ってきて、そんな島の静かな日暮れる道を濡れながら、記憶の向こうに残る『海水浴場』にあるはずの民宿へと向かう。ただその海水浴場が歩いてもかなりの距離があることは、島民だった珠里にもわかっていた。

 小雨の中、致し方なく歩いていると、農具などを乗せている白い軽トラが止まった。

 運転席には三十代ぐらいの男性、助手席にはおばあちゃん。遠いから、危ないから、民宿はいまは満室だから、それならうちおいで――と孫とお祖母ちゃんが必死になって珠里を拾ってくれたのが始まり。


   

 出会った時から、男っぽい人だったと珠里は思い返す。

 純朴で気取らず、誰よりも信じられた。珠里が初めて心の底から信じられた大人だったかもしれない。

 作業着の汗くさい、無精髭の、初めての優しい人。

 いまでも彼のことを思い出すだけで、胸が甘く締め付けられる。

 彼を好きになって、彼の胸に飛び込んだのは珠里だった。

『おまえみたいな、きれーな子、もったいないわ。俺には……でもよ……』

 七つほど年が離れていたが、彼は受け入れてくれると、珠里を熱烈に愛してくれた。

 二宮直人と出会って一年。珠里、二十五歳。果樹園のお嫁さんになると、彼と結婚した。

 なのに。別れを言う間もなく。子供を授からないまま、結婚生活三年。この畑に彼は倒れていて、そのまま。

 

 夫とは伊予柑をいっぱい食べた。『珠里が伊予柑を剥いてくれると、すんげえ美味い』。指に残る伊予柑の匂い、その指先を愛してくれた人。

 

 見つめている海が滲む、十二月の冷たい風が脚立の上にいる珠里に吹きつけた。

 

 

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